母宮
誰かに呼ばれた気がして、桜子は不意に辺りを見回した。どれくらいの時が流れただろう。
依然として、桜子はもやのなかにひとり佇んでいた。希薄になりつつある自己を感じながら、ぼんやりと頭上に広がる雲を見あげると、いくつもの光が集約しながら、なかへ吸い込まれるさまが目に映った。
——あの光の筋に呑み込まれたら、私も姿をもたないひとりになってしまう気がする……
虹色に連なる光に魅入られるように、桜子が逡巡しながら一歩踏みだすと——突如空間がゆがみ、いさめるようなやわらかい声がした。
『行ってはいけません。桜子』
その声に、桜子はしびれたように動けなくなった。
ふりむくと、ひとりの女性が朧げに光りながら桜子を見つめていた。
綺羅に似た薄絹の単衣に紅の袴をまとい、淡い紫紺の打掛を重ねている。
頭には藤をかたどった金色の挿頭が、反射してまたたいていた。
桜子は衝撃を受け、目の前にいる人を見定めようとした。
「お母さん——?」
呼びかけられて、巫女装束の女性はほほ笑んだ。
髪は艶やかに長く背を流れ、目元は和やかにうるんでいるように見える。面長で色の白い顔は、桜子のよく知る少年にどこか似通っているようにも感じられた。
『あなたを行かせることはできません。そのためにここへ、引きとめに来たのです』
桜子は、信じられない思いだった。
ふるえる声でつぶやく。
「お母さんに会えるということは、私はもう死んでしまったの?」
撫子は被りを振った。
『半分は、そうです。あなたの魂は、体を離れて今ここにいます。大蛇を斬ったとき、知らず知らずのうちに、その祟りを身に負ったのです。
薫はそれを防ごうとしましたが、あと一歩で護身はまにあいませんでした』
「薫は——どこにいるの」
撫子は、その問いには答えなかった。
ただ寂しげに微笑したかと思うと、光の筋が続いていく果てを指差した。
『水脈の大蛇は黒雲を呼び、地上に雨を降らせ続けています。鎮魂を行わなければいけません。そして桜子——あなたの魂を体に戻し、穢れを祓うためにも』
そう言うと、撫子はどこからともなく扇を取りだした。それはよく見ると、紅色に染まる彩雲のなかへ、鳳凰が飛びたつさまを描いた衵扇だった。
桜子が優から受けとり、水脈筋の底に置いてきてしまったはずの。
——なぜ、ここに扇が。
その気持ちを見透かしたように、撫子は笑いかけた。言葉にできない悲しみを含んだような、ほほ笑み方だった。まるで痛みをこらえているような。