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水神の剣の守り手   作者: 星 雪花
神霊の子
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過去( 3 )——薫


 師範にも和人にも、あんな風に名前を呼ばれたことはなかった。あんなにも慈愛に満ちた眼差しが、この世にあることさえ知らなかった。


 ——もう一度、あの人に会いたい。


 その思いだけを胸に、薫は五瀬川にわざと飛びこんだ。それしか行く方法が分からなかった。


 もう一度、あの人に名前を呼んでもらえたら、それだけでこの先も生きていける気がした。誰にも必要とされず、疎んじられるばかりの自分でも。



 層を抜けたことには気づかなかった。

 辺りは暗く、果てしない闇がどこまでも広がっていた。青く光る川が流れていて、淡い水色がとてもきれいだった。幼い薫は、辺りを見回した。


 あの人はいなかった。

 もう一度、あの優しい声が聞きたかった。



『ここで何をしている』



 ふりむくと、いつかと同じ顔の見えない影が立っていた。薫が何も言えずにいると、影は言った。


『撫子はいない。ここへはもう来るな』


「あんたは」


 ぶっきらぼうに尋ねたつもりが、予想以上に萎縮した声になった。撫子という女の人に会いに来たことを、見透かされていると思うとくやしかった。


『俺の名は、すぐる。あの里で、この名前は口にするな。とくに瑞彦の前では』



(——へんなやつ)



 その翌日だった。

 五瀬川のほとりに立って、川の水面のきらめきを眺めていたら、撫子の娘に声をかけられたのだ。



***


「あなた、薫でしょう?」


 見ると、そこには興味津々な様子でこちらをのぞきこんでいる少女がいた。

 薫はびっくりして、のけぞりそうになった。こんなにも親しげに話しかけられたのは、ほとんど生まれて初めてと言ってよかった。


 そしてその瞬間、彼女が撫子の娘であることが分かった。声の響き方がまったく同じで、そのことに薫は胸を締めつけられた。


 少女は白い稽古着に藍染めの袴をはき、股立ちを取っていた。細い両足が裾からのぞいている。いかにも華奢な体つきだった。目は大きく、川面と同じようにキラキラと明るい光を宿している。

 長い髪は無造作に束ねられ、ほつれて後れ毛があり、しっかりとは括れていなかったが、その無頓着さもどこか好ましかった。まるで春の若葉のような少女だった。


 私の名は桜子、と少女はほほ笑んだ。


「あなた、私のいとこなんでしょう? おじいちゃんに聞いた。年はいくつなの」


「数え年で、七歳」


 年を答えると、桜子は大袈裟に「ええっ、本当に」と声をあげた。

 自分の言ったことに、好意的な反応を返してもらえる。それがこんなにも嬉しいことだと、薫は初めて知った。胸の底が温かな陽射しを受けたようにぬくんで、薫はその気持ちをどうしたらいいのか分からず途方にくれた。



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