理由
しかし、ひと息に殺すには惜しい少年であることも事実だった。和人は刃を首筋にあてたまま尋ねた。
「最後に聞いていいか。お前にとって、『水神の剣の守り手』とは何だ。なぜ、身を挺して守ろうとする」
雨が降りしきるなか、しばし沈黙が流れた。
風が強くなる。
じきに川は、堤を越えるだろう。
和人がこの場にとどまったのは、あるじの命だった。
姿は見えずとも、必ず現れると。
だから待機したのだ。それは当たっていた。
早く終わらせて戻らなければいけない。
和人は、薫の答えはないものとあきらめた。
明確な答えが欲しいわけでもなかった。
ただ、ときどきこの少年に、底知れない何かを感じるのだった。それは時折、和人をひるませた。何年も政敵を殺め、処理してきた暗殺の手練れと自負している自分が。
審神者と呼ばれる異能を差し引いても、まだあどけない忍びの少年に、どうして気圧されるのか知りたかった。
桜の木の下で、最初に正体を明かしたときもそうだ。あのとき、和人は確かに薫の急所を狙った。
それなのに——薫は、あの場から見えなくなった。
まるで闇にかき消えていくように。
(やはり、ほうっておくと脅威になりかねない。
今ここで禍根を断ち、始末するべきだ)
和人は、暗殺の対象に恨みを抱いたことは一度もない。それは、ただの標的でしかなかった。
主君にとって、邪魔だから排除する。
それだけの存在だった。
薫にしても、多少の未練はあるが、あるじの命令をくつがえすほどではなかった。
悪く思うなよ、と思い定めて和人は目の前の喉笛をかき切った——はずだった。
——と、どこにそんな力が残されていたのか、薫が食い込んだ脇差しの刃を握った。
「なぜ——守るかだって」
つかんだ指から血がしたたり落ちる。
手ごたえは確かにあった。肉を裂いたことで、鮮血が降りそそぐのを予期した和人は、しばし唖然として目を見張った。
裂いたはずの傷口が、光り始めていた。
薫は、低い声でささやいた。
「そんなこと、決まっているだろう。大切だからだ。誰よりも。僕自身よりも。『水神の剣』よりも。守り手の力よりも」
言葉は次第に熱を帯びていった。
薫は握り返した脇差しを引き抜くと、あっけにとられている和人を尻目に、強く地を蹴った。
ためらうことなく飛び込んだのも束の間、ついで飛沫が散り、あっという間にその姿は川面から見えなくなった。
地面には、わずかに落ちた血痕だけが残り、それもすぐに洗い流された。
——なんだ、今のは。
落ちた脇差しは、夜の静寂のなか雨に打たれていた。気づくと体は細かく震えていた。
雨に濡れて凍えたわけではなかった。
広がる闇の底で、和人だけがその場にひとり立ちつくしていた。
***
薫は暗い水泡が舞う川底で、自分が変容したことにも気づかなかった。その合間にも、体の輪郭は徐々に淡く揺らいで、形をもたない光になってゆく。
——いま、桜子さんのいる場所に行けるとしたら、あの人しかいない。
その思いだけを胸に、結界の隙間を見つける——と、黄泉の淵は、桜子の剣によってふさがれ始めていた。
ここをもう一度、潜らなければいけない。
薫は最後の力をふりしぼる。
そうしたらどうなるか、考える余裕はなかった。
層をくぐり抜ける。
と同時に時が逆行し、螺旋を描き始め——気づけば薫は、六歳の頃の童男に戻っていった。