甚雨
まだ雨が降りやまない川岸の堤の上で、誰にも悟られず佇む人影があった。
ザアザア降る雨の音はさらに勢いを増し、この世のすべてを洗い流そうとするように、その甚雨は激しくなっていた。
彼は一歩踏みだそうとして、その力が少しずつ失われていくのに気がついた。今、彼の守るべき人の身に、これ以上ない危機がせまっていることも。
そこへ唯一たどりつけるのが、自分じゃないということも分かっていた。
——護身が、まにあわなかった。
あと一歩のところで。
その衝撃は、彼を打ちのめすのに充分なものだった。守る自信が、確かにあったのだ。それなのに届かなかった。
水脈の大蛇の力が上回っていた。
大蛇は——薫を引きずりこもうとしたのだ。
桜子の方へ、行かせまいとして。
それももう、今となっては無様な言い訳にすぎない。薫は痛烈に自分の無力さを感じて、雨に打たれる感覚もなくしていた。
もう、桜子のもとへ行くことはできない——その事実だけが、彼を奈落に近い死の間際へ追い込もうとしていた。足元では、絶え間なく轟々と水が流れてゆく。
川の水面は、無数の蛇がのたうっているかのように、暗くゆがんだ流れとなっていた。
——と、そのとき。
彼めがけて飛来した刃があった。
その刃先は夜の闇にまぎれてもなお、一瞬鋭利な光をひらめかせた。薫は喪失感のさなか、脇差しをすんでで避けた。切っ先がかすって、頰に細く赤い筋が走る。
薫は、相手が誰だか知っていた。
「——和人」
小さくつぶやいた声は、風にまぎれて遠くへ消えていった。和人は川上に植わった灌木の枝葉から、静かに薫に狙いを定めていた。
「ようやく、黄泉の淵から現れたな」
うなる川音にまぎれて和人は言った。
ようやく獲物を見つけたという、嗜虐的な笑みが口元に浮かんでいる。
——こいつの相手をしている場合じゃない。
薫は舌打ちしながら、その場を動けなかった。
最初に邪魔をしたのが、和人だった。
薫は今さらそれを思いだし、胸の底があぶられるような怒りに息がつまった。
「前は取り逃がしたが、今度はそうはいかない。命を頂戴する」
そう言って跳躍する和人の動きは速く、目で追えなかった。薫は飛びずさると道に落ちていた石を拾いあげ、顔面めがけて鋭く投擲した。
雨で視界が奪われ、ぬかるみに足をとられる。狙いは少しはずれたようだった。忍びの訓練を受けているとはいえ、薫は丸腰だ。
和人は顔が分かる距離に迫ると、脇差しを持ちかえ素早く喉を切り裂こうとした。
踏みとどまったのは——薫が、昏い光を瞳にたたえていたからだ。
和人は一瞬気を呑まれたが、情けはかけないことに決めていた。