凝る闇
辺りを見回すと、この数秒の間に人の気配は絶え、あれほどいた『月読』の者たちも姿を消している。
すぐそばにいたはずの桔梗もいないところを見ると、大蛇が襲いかかった隙を突いて、この場を離れたのだろう。
桂木が上衣の袖を口で引き裂くのを見て、桜子はその布を腕に巻き、縛り上げるのを必死で手伝った。
傷口に白くのぞいていた骨も、あっという間に血で染まってゆく。気が動転し、お世辞にも手際が良いとは言えなかったが、強く縛ったおかげで多量に失血するのはまぬがれた。
桂木の言うとおりだ。今ここで弱気になっている場合ではない。
桜子の脆弱な気持ちが桂木の腕を犠牲させたのだ。思わず目に涙がにじんだが、桜子は唇を噛み、後悔の念に呑み込まれまいとした。
その合間にも、大蛇がまた大きく口を開ける。
桜子は咄嗟に懐に隠し持っていた短刀を引き抜くと、その首めがけて鋭く一閃した。
——が、直後大蛇の体はくぐもった黒い闇の塊になり、姿を変えて野に降りたった。
——やはり、普通の刃物で斬ることはできないのだ。
桂木は地に片膝をついたまま、ふたたび生まれようとする凝った闇に向かい、呻くように言った。
「あの蛇は、水脈に棲まう大蛇であるのと同時に、剣に秘められた水神の一部です。あれと薫が繋がっているとしたら、剣を通して薫に呼びかけることも、きっと可能なはず」
「薫に——呼びかける?」
桜子が繰り返すと、桂木は頷いた。
「あれを目覚めさせたのが本当に薫なら、『水神の剣』との繋がりがない方がおかしい。
聞けば、薫は先代の守り手である撫子さんを水脈筋で見たことがあるという。水脈の大蛇を目覚めさせるなど、剣との繋がりがなければできない所業です。そうとらえれば、すべてに合点がいく」
桂木の話す言葉を聞くうちに、桜子のなかで薫の言ったことが次々とよみがえった。
母、撫子との繋がりがあったわけ。
誰にもたどり着けない水脈筋の奥深くへ行ける理由。そこに棲むものと馴染みがあるからじゃないかと、不安そうに語った横顔が浮かぶ。
「でも、どうすれば」
濁った闇の気配が集約し、赤い双眸がひらめく。
桜子の問いかけに、桂木は圧迫止血した右腕を押さえながら、震える声で言った。
「ただ無心に呼びかけてごらんなさい。薫なら、桜子さんの声に気づくはずです」
ただ、無心に——
それと同じ言葉を、薫も言っていた。剣が手元にあると、そう確信する気持ちが大事だと。
そんなことが、果たしてできるのか。
桜子は、背中に汗が伝い落ちるのを感じた。
心臓の鼓動が速まる。はやる気持ちを抑えるように、桜子は呼吸を深くしようとした。重心が自然と下がる。
——できるかどうか、考えている暇はない。
桜子は、最初のひと足を川べりで踏みしめた。




