大蛇( 1 )
桔梗を初め『月読』の者たちが、この大蛇の出現にたじろいでいるのは今や明らかだった。
大蛇は今にもつかみかかろうとするように、赤い舌をしゅるしゅるとのぞかせている。桜子は桂木の姿が消えていることを目の端で確認し、心のうちで思った。
——この大蛇を斬るとしたら、『水神の剣』しかない。
そう思うのに、足がすくんで動けなかった。水脈筋で影にとらわれたときと同じだ。
あのときは最後に、薫が助けてくれた。だが今は、桜子ひとりだった。
たったひとりきりで対峙するには、自分はあまりにも無力なように思えた。この大蛇に喉笛を裂かれることを、いやでも頭で想像してしまう。
ポツ、と滴り落ちるものがあった。
雨のひとしずくが、桜子の額を濡らす。
「そなた、この蛇を退治できるか」
小さくつぶやいたのは桔梗だった。
いつのまにか桔梗を取り囲むように、黒装束の忍びが何人もまわりを取り囲んでいる。だが固まったように、動く者はひとりもいなかった。いや、動けないのだと、後になって気づく。
「これは、水脈に眠る大蛇の片割れじゃ。あの童男が黄泉の淵で目覚めさせたのじゃ。審神者は神霊を呼ぶもの。そうであるとしか思えぬ」
——薫が、水脈筋でこれを目覚めさせた?
桔梗の言葉に、思考が停止する。
硬直したままの桜子に、桔梗はさらに言った。
「そなたの力は惜しい。だがあの童男は、皇にとって脅威にしかならぬ。剣で蛇を退治し男を殺せるなら、そなたの身柄は問わないと約束しよう」
——薫をここで殺す?
そんなこと、私にできるはずがない。
頰にしたたる雫が汗なのか雨水なのか、桜子は判断することができなかった。
体の中心は熱いのに、指先は氷のように凍えている。降り始めた雨は、勢いを得て不意に強くなった。
雨で視界が煙る。
大蛇と睨みあう時間は、強い雨のなか永遠に続くかに思えた。赤い双眸が、桜子の目を射抜く。
その瞬間、雨音に混ざり、この世のものとは思えぬ声がした。
『吾を斬れるか。桜子』
赤い瞳がまっすぐ桜子を見つめている。
その目には、知慮深いことを示す鋭い光が湛えられていた。桜子は、辺りの空気が遠ざかったかに思えた。
大蛇の話す言葉だけが、不明瞭な層のなかで響く。
桜子が生つばを飲みこむと、大蛇は嗤うように赤い舌をふたたびのぞかせた。




