黒い渦
しかしだからこそ、屈してはいけないという思いが湧きあがった。そのためにできることなら、どんなことでもしてみせるという気が。
桜子は数歩下がると、桂木にむかいささやくように言った。
「桂木さんは、おじいちゃんに伝えて。この場はなんとかおさめてみせるから。私を探すような真似はしないようにと」
「桜子さん、それでは」
桂木がとがめるような声で狼狽する。
二人が言葉を交わすのを見てとった桔梗は、目を細めて言った。
「覚悟は決まったか。真に利口なら、拒むことなど端からしないものを」
桜子は、静かに桔梗の方へ一歩進みでた。
それを桔梗は承諾の印ととったが、桜子が重心を低くしたのに直後眉根を寄せた。取り囲む者たちの警戒と殺気が、瞬間場に満ちる。
桜子は深く踏み込んで、虚空に腕を伸ばした。
大きく転換する。
無意識に、隠の型に足を運んでいた。
まるでこの場に、結界を敷くように。
桜子は、いずれ剣の巫女となる者が、この世とは違う磁場を生むことを知らなかった。
目の前の風景が溶けてゆくような感覚。
ただ無心の足運びだけがあり、桜子は集中して流れるままに動いた。
さなか、桜子は何も意識していなかった。
桔梗の、まるで射るような眼差しすら。
『月読』がむける不穏な空気も、自ら生じたこの場には届かない。
層を切り拓いていく感触があった。
ちょうど、薫の消えた五瀬川の方角。
黒い渦が水面にたち始める。
桜子が動きをとめたのは、異様な気配を先に感じたからだ。それは水面でひと通り渦を巻くと、うねるように川岸に現れた。
「……そなた、今の動きで何を呼んだのじゃ」
桔梗がわずかに震える声で聞く。
問われても桜子は答えられなかった。
目の前に現れたのは、濃い闇のかたまりのような毒々しい気をまとう何かだった。
——水脈筋に現れた影のような。
正体が判然としないものだけに、桔梗も声に恐れをにじませた。桜子もどうしてこの影が出てきたのか、理解できなかった。
揺らめく影は、川底の濁った臭気を辺りに放ちながら、どんどんその大きさを増してゆく。その揺らぎ方は、さながら長い虫のようだった。
——まるで大蛇のようだ。
桜子が心の隅でそう感じた刹那、それは形を変えて、本当に赤い目と舌をもつ黒い蛇へと成り変わった。
大蛇は威嚇するように桜子を一瞥し、遠い天にむかって咆哮をあげる。
吼え猛る声に呼応するように、黒い雲が彼方から湧きあがった。いつのまにか蛍の姿は消え、辺りの闇がいっそう深くなる。




