刃
桜子が知らず一歩後じさると、その足元で桂木が低く言った。
「ここは退きましょう。多勢に無勢です」
めずらしく焦りのにじむ声だった。
桜子が視線を前に定めたまま頷こうとしたとき、パッと薫が踊りでて桂木に言った。
「ここは僕が。桂木さんは、桜子さんを連れて行ってください」
「しかし——」
桂木が困惑をあらわにつぶやいている合間、桔梗は薫を検分するように眺め、厭わしげに言った。
「その童男は優の倅だろう。では『災い』とは、そやつが開ける黄泉の穴のことか」
薫は辺りにひそむ人影にかまえたまま、桔梗の指摘にも一見動じるような素振りを見せなかった。
「ご存知なのですか」
声には諦めたような静けさがあった。
桔梗は薄く、口元に笑みをもらした。
「わらわを一体誰だと思うておる。審神者の存在は、皇にとっても脅威にしかならぬ。
——それでは話は簡単ではないか」
桔梗は片手に持っていた檜扇の先端を、薫に突きつけた。
「そちひとりが、ここで消えればいいのじゃ。この童男に制裁を」
桔梗がそう言葉を発した直後、薫めがけて無数の脇差しと見える刀剣が矢のように降りそそいだ。
そのときには桂木は桜子を抱えて飛びずさっていたため、桜子は刃のきらめきが闇にひらめくところしか見えなかった。喉の奥で、悲鳴に近い叫び声がもれる。
「——薫」
呼んだつもりが、知らず声がふるえた。
薫はその攻撃を、まるで予期していたかのように俊敏だった。が、さすがにすべては避けられなかったのだろう。そのわずか数秒後に水しぶきがあがった。
蛍が驚いたように離散する。盛大な水音が徐々に静まっても、薫はその姿を見せなかった。
「薫」
桂木の腕を振りほどいて、桜子は五瀬川のそばへ駆け寄った。数秒待っても浮いてくる気配はない。次第に暗がりに目が慣れてくると、川の中心は意外と流れが速いことが分かる。
あかず水面を見つめているところへ、桔梗が後ろから冷淡な声で言った。
「逃げ足の早いところは優と同じだな。水脈筋を渡るなら、これくらいでは死なぬ」
桜子は、その声音に怒りをにじませた。
「薫を人じゃないもののように言わないで。これで薫が死んだらゆるさない」
拡散した蛍の青白い光がチラチラ舞っている。
桔梗はふたたび口元を押さえて、桜子と同じように水面に目をやった。
「そのような怒りもほんの一時のこと。時が経てば、次第に忘れよう。わらわと共に来い、桜子。さもなくば随身の犠牲を増やすことになるぞ」
それがただの脅しでないことは、今の桜子には分かっていた。桔梗がひと言そう命じさえすれば、『月読』は何人も近しい人を殺めるだろう。




