桜子( 4 )
日が暮れる時刻も、春の訪れとともに遅くなった。
一日の稽古を終えた桜子は、父が郡司の勤めを終えるより先に帰ろうとあぜ道を走った。
父の秋津彦も桜子の武芸の腕前を認めてはいるが、年頃の娘が夕暮れまで稽古場にいることを良しとしないのだ。
駆けるたび、背中でくくった髪が勢いよく跳ねる。
桜子は裾を踏まないよう、袴の股立を取って帰途を急いだ。
なんとか夕日が山の端に隠れる前に家にたどり着いた桜子は、家人の夏芽が夕餉の仕度をしているところにちょうど行きあった。
夏芽は、袴の足先から白い稽古着をのぞかせ、頰を上気させている桜子の出で立ちを見ると苦笑した。
「今お帰りですか。ご主人さまが見たら何て言うか」
「まにあったならいいの」
桜子は短くそう言うと、着替えをすませに自室へ引きあげた。
薄紅色の小袖に簡略な裳——しびらをまとった上で帯を締め、身支度を整えた桜子が居間へ行くと、勤めを終えた秋津彦も同じ部屋に現れるところだった。
「おお、桜子。この前の話はどうだ。少しは考えてくれたか」
香染の直垂に萎烏帽子を被り、押し出しの良い風貌の秋津彦は、桜子に対し張りのある声で言った。
顔を合わすなりその話を持ちだそうとする父に、うんざりしながら桜子は被りを振る。
京から遣わされる国司とは違い、豪族が多い郡衙で働く父は、何かと人に会う機会も多いのだろう。桜子が首を振っても機嫌を損ねることなく、歯を見せて言った。
「まだ紹介できる口はある。良い話を持ってくるからな」
夕餉を終えて自室に戻り、夜具として使う衾を広げると、ようやく桜子はくつろいだ気持ちになった。
風が強いのか雨戸のきしむ音が聞こえてくる。目を閉じると、風の音はより近くに聞こえるようだった。
——明日、お宮に行ってみようかな。
目を閉じたまま、桜子はそう思った。
亡き母の神社は、里の北側に尾根を連ねる御影山の手前——小高い山を登った先にあり、稽古場の方角とはちょうど反対側に位置していた。
そこでは桜子の祖母にあたる清乃が、宮司や巫女とともに境内で暮らしている。
今の桜子の現状を里の友達に相談しても、笑ってすまされるのは目に見えていた。
桜子の年齢で祝言を挙げるのは、めずらしいことではない。片親とはいえ自由気ままに武芸にいそしみ、同じ稽古場の男を打ち負かしてしまう桜子が縁談のことで悩んでいるなんて、同郷の少女たちには言えそうにもなかった。
一笑に付されるのが関の山だ。できるだけ良い家にお嫁に行くことは、里の少女の共通の夢でもあるのだ。贅沢といえば贅沢な悩みかもしれない。
でも桜子は、自分と同じ立場で親身になってくれる誰かが欲しかった。頼みの祖父も取り合わないとしたら、残るのは祖母の清乃だけだった。
——決めた。明日お宮に行って話してみよう。
そう決めると少しは気が晴れて、桜子は筵の上に身を横たえた。いつも寝つきだけはいい桜子なのだ。
まぶたを閉じると暗幕が降りるように、やがて眠りのなかへ落ちていった。