夜桜( 1 )
門限を過ぎて帰ってきたというのに、夏芽も父も何も言わなかった。桜子は余程、母について、また薫について聞こうかと思ったが、結局何も言わないことにした。
何か聞けば、今夜の外出の障りになるかもしれない。
桜子は沈黙を守ることにした。
父——秋津彦は、桜子がこのように稽古場に通うのも、今のうちだけだと思っているのだ。
だからこそ、桜子がときどき門限を過ぎるのも大目に見ている。小言を言われないのがありがたい一方で、自由に振る舞えるのは今だけだと暗に言われているような気もしてくる。そして事実、その通りなのだろう。
さまざまな形のない思惑にとらわれながら、桜子はじっと夜が降るのを待った。
薫の言った言葉が何度も思い浮かぶ。山の端に月が昇り始める頃、桜子はそっと部屋を抜け出した。
そんな夜に一人で外へ出るのは初めての経験だった。清明の次候を過ぎる頃とはいえ、外気はまだ冷たく、濃い闇のたちこめている匂いがする。
稽古場へ続く通い慣れた小径も、全然違う場所のような気がした。まるで夢のなかにいるように現実感がない。
約束の場所にたどり着いて、桜子は立ちどまり空を振り仰いだ。
月は煌々と清浄に光り輝き、地に淡い影を伸ばしている。そのさまを背景に、桜の木は妖しく、まるで燃えているかのようだった。
盛んに散る様子は昼間と変わらない。なのに、全体に漂う雰囲気はまるで違っていた。
夜桜を見たのも、これが初めてだった。目の前で散る桜は、ひとつの意思をもった生命のように桜子には映った。まるで何か目的をもっているように。