約束
「半分死んだ、の意味を言っていなかったな。つまり薫は、目に見えないものになってしまっている。護身が間にあわず、それでも桜子の身を守ろうとした薫は、水脈筋で異界へ飛ばされたんだ。神隠し、と言えば分かりやすいか。
しかるべき時が経てば戻れると思うが、それがいつになるかは分からない」
「じゃあ、もう薫を探すなと言うの」
「探すな、とは言わない。できるだけ薫を思い続けることだ。あいつの存在を、桜子が誰よりも覚えていればいい」
——桜子さんは、いつも怒ってるね。
そう言って笑った薫の面影が浮かんで、胸が締めつけられた。
半分神霊でいようと関係ない。桜子にとって、薫はまだ幼さの残る少年にすぎなかった。
いつもいつも、己を犠牲にして。見ていて痛々しいほど、怪我に無頓着で。桜子を守るためなら、平気で自分を差しだそうとする。それがいつも——とても腹立たしかった。
頰が赤く染まる。
目頭が熱くなる。
にじみそうになる涙をなんとか押さえこんで、優から目をそらした。彼の言うとおり、薫がこの世に戻るのは、ずっと先の話になるのだろう。
こんなふうに別れることを、桜子自身予期していなかった。
——やっと分かったのに。
たったひとりの、血の繋がりのある縁だったのに。
剣の守り手であること以前に、母と同じようになれない自分に拘泥していたことに、桜子はやっと気づいた。隠の型と撫子の神楽舞いは、同じ拍子で成り立っていたというのに。
巫女めいたものは自分のなかにないとあきらめて、違う何かをつかもうと必死だった。それは足元を見れば、すぐ近くにあった。手をのばせば、触れられるような距離に。
魂しずめの力が桜子にもあると、天上のあわいで撫子は語ってくれた。それに気づかせるきっかけをつくってくれたのが、薫だったのだ。
「私、もっともっと強くなりたい。薫がまた戻ってきたときに、不意打ちをかけられても大丈夫なくらい」
つぶやかれた声は小さく、か細かったが、熱のこめられている口調だった。
守り手の血筋がここで途絶えても、桜子の行く手が変わるわけではない。約束どおり言納をするかどうかで、もうしばらくは家族ともめるだろう。あの感じの良い青年——里長の嫡子——とも、自分で話をつけなければいけない。
夕方の風が、やさしく髪をさらってゆく。桜子は、目尻に浮かぶ涙をそっとぬぐって、裂けた桜の大木を見ながら優につぶやいた。
「強くなるには、もっと技を身につけなければね。神楽舞いも、できれば覚えたいの。あの舞いのおかげで、私は戻れたから。薫のために、今度は舞ってみたい」
唐突に、今なら舞えるという気がした。
その神性が自分に備わっていることも。
必ず薫を現世に取り戻してみせるという気概が、今、桜子を奮いたたせていた。
桜子の肩口に、温かい手のひらが置かれた。
「桜子がその気なら、すぐに身につくだろう。里の復旧と整備が終わったら、御霊会もかねて社で舞うといい。その準備なら、いくらでも手伝おう」
「ありがとう。あてにしている」
桜子は、ようやくほほ笑むことができた。
歌の調べは、もう知っていた。
天雲がいくえにも重なり、遠くで鳴る神の音のように、会えないままでいても、あなたを想い続けています——という歌だ。
いつか会えたら、薫の名を呼ぼう。
きっと私は泣いてしまうだろう。
薫は、そんな私を見てほほ笑むかもしれない。
いつもと同じ、おとなびた眼差しで。
その様子が、ありありと目に浮かんだ。剣の守り手の力を失ってしまっても、桜子はその未来が現実に起こることを、確かに予感していた。
日の入りの風が冷たい。桜子は面をあげた。
秋は、もうすぐそこまでやってきていた。
《 了 》