その1
「いいところだね。」
タクシーを降りて、アイヴィーは誰にともなくつぶやいた。
車はしばらくの間、緑の多い静かな道をひた走り、やがて左手にそのお寺が見えてきた。
「車で中の方まで入れますよ」という運転手の申し出を断って、アイヴィーは参道をぶらぶらと歩き出した。
岩手県の早朝、初夏。
高円寺のムッとする暑さと違って、空気だけで生きていけそうな気分。しばらく帰っていないアイヴィーの地元に、ちょっとだけ似ている。
Tシャツに短パン、なんてラフな格好の方が楽だけど、今朝はバシッとキメてきた。ガーゼシャツに赤黒タータンチェックのスカート、Dr.マーチン。赤いライダースは肩に引っ掛け、フワフワ揺れる赤い髪の上にはいつも通りベレー帽が乗っている。
昨夜はライヴからの打ち上げで遅くなった。まだ何時間も寝ていない。それでもアイヴィーは早朝に目を覚まし、メイクをきっちり施して服を着替え、ひとり駅前に出てきた。
これから、仲間に会いに行くんだから。
奇跡的に一台だけ停まっていたタクシーを拾って、運転手の怪訝そうな視線を受け流しつつ行先を伝える。
場所は分かっていた。仲間がSNSに上げてくれていたから。
距離感が全く掴めないのでちょっと不安だったけど、思ったより早く到着した。
本堂までの緑樹や灌木に囲まれた小ぎれいな参道を歩きながら、アイヴィーはふと気づいた。
「…帰り道、どうしよう。」
うっかり、タクシーを帰しちゃった。しばらく待っててもらえば良かった。どうすりゃいいかな?
ま、いっか。
いつだって、どうにかなる。
立派な本堂。大きな木の近くを通り過ぎ、墓地に向かう。SNSにアップされていた手書きの地図は、アバウトだけど役割をしっかり果たしてくれていた。
柔らかい朝の日差しに少し汗ばみながら、それでもアイヴィーは穏やかな気持ちで、丹念に手入れされた立派なお墓の前で立ち止った。
「トオル君、会いに来たよ。」
彼と会ったのは、深まりつつある秋。
中央線近くの、ある小さな小さなライヴハウスだった。
アイヴィーがヴォーカルをつとめる高円寺のパンクバンド“ズギューン!”がそのライヴハウス…ハコに出演するのは、実に久しぶり。
岩手の愛すべき仲間が企画を打つというので、「俺の中で“ズギューン!”は出演することになってまーす!」と連絡をもらい、そう言われちゃったら出なきゃね!となったのだ。
緑髪のモヒカン亭主と、フレッドペリーがよく似合う奥さんの夫婦が企画者。彼ら夫婦はバンドのメンバーでもあり、岩手県は北上市でライヴハウスを経営するオーナーでもある。
再会の握手や抱擁と共に、当日はリハの時点から缶ビールが飛び交う、実に楽しい日となった。
出演バンドの大半は、モヒカン亭主が岩手から連れてきたバンドたち。彼らにメインを譲り、“ズギューン!”は真ん中あたりの出演時間で、小さなハコを大いに盛り上げた。金色のヒラヒラがステージのバックを覆うこの舞台で、アイヴィーは原点に帰ったような気分を存分に味わっていた。
そして、客も出演者も入り乱れ楽しむフロアの最前列で、カップに入ったビールを片手に、彼が立っていた。
背の高い男。クリクリっとした目が特徴で、痩せ気味だけど愛嬌のある、いわゆる猿顔。短めのマッシュルームカットみたいに前髪をパッツンと切って、白のバンドTシャツを粋に着こなし、赤っぽいハンチングを斜めにかぶっていた。
“どこかで見たこと、ある人だな”
彼はアイヴィーのやや斜め前に陣取り、最初は様子見という感じで“ズギューン!”のステージを観ていた。それが拳を突き上げて暴れ出すのに、さほど時間はかからなかった。
ノリのいい客が最前列にいるのは、ライヴの盛り上がりとしては非常にいい。彼に引っ張られるように“ズギューン!”のステージはとても良い雰囲気で終わった。