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籠の中の春  作者: 三樹
第二章 長虫
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4

「今は昔、ただならぬ川霧に惑った若船頭が一人、かぐわしい香りに引き寄せられ、流れ着きたるはいずことも知れぬ花の里」

 琵琶法師のようにもったいらしく、百薬堂が弾き語ってみせた。もっとも、空手の口三味線であるが。

「里は山海の幸に富み、里の女たちは天仙と見まごう匂やかな美女揃い、男は正体なく酔い痴れて夢心地。月日の経つのも忘れて遊びほうけるも、やがて故郷を恋しがり、女たちが引きとめるのも聞かず暇乞い。だが、帰り着いた故郷には見知らぬ顔ばかり。あの花の里に戻ろうと川へ取って返すが、岸にもやっていた舟はみるみる朽ち崩れて沈み、茫然として川面に映った男の面は、老いさらばえた白髪の――」

「いろいろよそのお伽噺が混じっていやしないか」

 謡い終えるまでどうにか我慢していようと思ったのだけれど、わたしは可笑しくなってつい茶々を入れた。さえぎられた百薬堂は、悪びれた様子もなかった。

「草紙にでもありそうだろう。なければ版元に売り込んでみようかな」

「お医者から戯作者に鞍替えか」

「それもいい」

 ふつふつ笑ってから、百薬堂はそっと手元に目を落とした。杯の水面を覗くように。そこに映る百薬堂の顔は、さしあたって老いさらばえてはいない。

 表通りの人間が、やたら鏡を見る習性があるのには驚いた。そんなに自分の目鼻の位置が心配なのか――ひょいと動いた瞬間に、口が眉毛の上に開いていたり、耳があごの下にはえていたりしないかと? それを言うと、籠屋にこれでもかと馬鹿にされた。解せない。

 裏通りの住人は、年を勘定する手間をとらない。そこが、表通りよりも気楽といえば気楽だ。半日経とうと、ひと月経とうと、一年経とうと、百年経とうと、鏡は判で押したように同じものしか映さないことを心得ている。

 何も変わりはしない。ふと、ため息まじりに愚痴めいたことを漏らしたくなる。

「絵草紙も読本も、籠屋は子ども騙しだと言うんだ」

 いつもいつも、わたしのやることなすこと、見下されるようで、息苦しく感ずることもないではない。

「相も変わらず手厳しいことだね」

 杯から目を上げ、百薬堂は苦笑した。

「わたしは、好きなのだけれど……」

「好きなら、読めばいいのさ。好きなだけ読めばいい。誰に何を言われても、身内を質に入れてでも、好きになってしまったら最後、しようがないのだもの――惚れたが、しまいだ」

 何やら話の芯が摩り替わっているような。それはともかくとしても、やけにしみじみと、感傷的な口振りの百薬堂である。思うところでもあるのだろうか。ううむ、とわたしは唸る。

「それはそうだろうが、籠屋を質入れしようとしたら、質屋の方から願い下げられるな」

「違いないね」

 からからと笑う。百薬堂はよく笑う。陰湿に嘲笑うのではなくて、本当に気持ちよげにあっけらかんと笑う。

 同じくらい、人を笑わすすべも心得ている。とりたてて美辞麗句で飾ったり、格別の贈り物を貢いだりするわけではないけれど、さりげない手並みで、かゆいところを掻いてくれる。例えば籠屋などには、逆立ちしてもできないような気の利かせようを、惜しみなく振る舞ってのける。如才ないことだ。そこに、女たちはくらりとするのかもしれない。もっとも、くらりとするのは、古びた酒気の充満する土地柄のせいかもしれないが。

 一献傾ければ、蓮のうてなの心地にて――と、百薬堂のひそみに倣って俗謡をほろほろと口ずさみかけ、行きがけの出来事をぽっかり思い出した。

「百薬堂、朽縄小路の白蓮だかいう奴を知らないか」

 だしぬけに脈絡のないことを聞かれ、面食らう百薬堂である。

「白蓮?」

 ふむ、と考え込む。

「朽縄小路なら、裏通りだね。最近の町の新入りに、そういう名前があったような気もするが、詳しくは知らないな」

「そうか。お前は裏と表で顔が広いから、心当たりのあるかと思ったんだが」

「当てを外れさせてしまったのなら済まなかったね。うちとの取引のないことは確かだ。その白蓮とやら、どうかしたのか」

「どうもこうも、わたしもてんで」

 聞き返されたところで、聞いたわたしも答えようがない。つくづく、籠屋の持って回った物言いは迷惑千万である。

「籠屋がそいつのことをわたしに聞くんだが、見も知りもしない」

 わたしにもさっぱりなのだから、急に話を振られた百薬堂にはなおさら、ちんぷんかんぷんだろう。そう思ったのだが、しばらくの間を置いてから、百薬堂は意外にも、心得たというような、悟りすました表情をした。からかうような含み笑いの、したり顔である。

「こちらはてんから知らずとも、あちらがぞっこんにご存じなのでは? さてもさても、こういう類いのものごとは、忍べば忍ぶほどに、色に出にけりと相場の決まっているものだからね。ははあ、よりにもよって岡惚れされるとは、籠屋も心中穏やかではないだろうな」

「岡惚れ?」

 わたしは、せっかくの飴湯をこぼさんばかりにびっくりしてしまった。

「籠屋はあの出不精だのに、どこでどうやってその蓮だか菊だかに見初められたのだ」

 思い当たるような節はない。

「ああ、店に来た客か。そんな名前の客がいたろうか。わたしは覚えがないな。わたしの留守に来た客かな」

 不思議なことに、あれだけ自信満々のふぜいだった百薬堂が、異なものを口にしたような微妙な顔つきになった。

「……いや、まあ、そういう可能性も考えられなくはないがね、おそらく、十中八九は籠屋の方でなく――まあ、いいか」

 気を取り直した様子で、座りなおす。ひやかすような笑みをこちらに向ける。

「仮に、籠屋が横恋慕されていたとして、気に掛からないのか、花よ」

「気になる!」

 わたしは勢い込んで頷いた。

「いったい籠屋のどこに惚れたのか、すこぶる気になる! あの籠屋のどこがいいのだろう。籠のことしか頭にない、愛想なし、口を開けば小言、勝手にこちらの頭の中を覗く、あんな奴を好くなんてとんだ物好きだ。酔狂だ。ところで、よこれんぼうっていったい何だ百薬堂――どうした百薬堂、頭でも痛むのか。医者の不養生か」

「……いや。尋ねた私が馬鹿だったと」

「百薬堂は藪だが馬鹿ではないよ」

「そいつはどうも」

「本当だよ」

「分かった分かった」

 がっくりと、やけに疲れたようにこめかみを押さえながら、百薬堂は嘆息した。

 わたしは小首をかしげながら、飴湯の残りを舐めた。冷めても心地よく舌に絡む味わいだ。どこまでも優しい。誰にでも優しい。籠屋では、絶対に縁のない甘露。見れば、百薬堂も自分の杯のを干していた。そして今さら気付いたように、呟く。

「甘い」

「飴だもの、甘かろうよ」

「不思議でならないね」

「何がだ、飴の甘いことがか」

「籠屋の御仁は、どういう腹積もりでいるのだろうね。思惑あってのことか、ただ成り行きに任せているのか、何も考えてはいないのか」

「何のこと」

「花も、私くらいの年になれば分かるさ」

「揚げ足をとるようで悪いが、たぶんわたしは、お前が二、三度へその緒切って耄碌するくらいの長さは生きているよ」

「そうだった……」

 そんな要領を得ない問答の矢先である。

 百薬堂の戸がどんどんと打ち叩かれ、案内を乞う声が外から響いた。その声は、切羽詰まって引き攣れていた。

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