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籠の中の春  作者: 三樹
第二章 長虫
8/13

3

「悪いが、このところ虫薬はとんと廃れていてね。いっときは、げてものほど精がつくだのともてはやされて、油虫の翅の一枚までも銀で取り引きしようかという騒ぎだったが、それも下火だ。熱を上げるのも早いが、飽きるのもあっという間だからね、この町は」

 だから、お代はこれで堪忍しておくれ、と椀に飴湯をついだのを差し出された。腹よりは懐のぬくもるものがよかったと愚痴りながら、いそいそと両手で受け取るところ、わたしも食い意地に弱い。

 実は、半ばこれを目当てに押しかけた向きもある。もちろん、銭が貰えるならそちらに越したことはなかったのだけれど。でも、手ぶらだろうと土産があろうと、百薬堂はいつも甘味で遇してくれる。

 堀を渡ってやってくる薬売りなどとも取り引きしている百薬堂の棚には、この町では手に入らない薬や毒のほかに、珍しい菓子も仕入れてある。顔を合わせるたびにわたしが干し柿を連想するのも、そのせいである。干し柿というものを最初に食べさせてもらったのが百薬堂でのことだったから、それが頭に染み付いているのだった。この町では、柿の木は実をなさない。絶対に。

「まあ、いいよ。もともとが、九重にたかっていたようなのだから、只なのだし」

 鷹揚にわたしが頷くと、百薬堂は軽く目を見張ってみせた。

「なんと、管狐に取り憑いていたとは、豪気なことだ。ひとつ、奮発して百足酒でもこさえてみるかな。魔除け、呪封じ、狐憑きに効用ありと謳って。もしも高値で売れたら、籠屋にも取り分を届けさせるよ」

「虫は廃れてるのじゃなかったか?」

「いつの世にも物好きはいるものだよ」

 小刀の手入れを終えた百薬堂は、板の間にじかに座して、沸かした飴湯を一緒になって飲んでいる。だが、百薬堂は、縁の欠けた杯にほんの少し垂らしたものを、お愛想のようにたまに口に運ぶ程度である。わたしが最後の一滴までも惜しむ様子で椀を空にすると、即座にお代わりがなみなみと注がれる。

 座布団を尻にあてがわれての至れり尽くせりで、何杯でも飲んでよいとろりと暖かい琥珀色で喉を潤していると、なんだかお大尽にでもなったような、贅沢な心持ちである。うっかりそれを言うと、百薬堂が吹き出した。運悪く飴湯が喉に絡んだのか、苦しげに噎せながらも笑いに笑って、目尻の涙をぬぐってわたしを見た。

「お大尽はよかった! ずいぶんと安上がりなお大尽だね。この町の数ある豪遊譚のなかでも、一番金が嵩まない」

「だって、重畳なことだもの」

 笑われた決まり悪さに、わたしは首をすくめながら言い訳する。

「もてなされて、美味しいものにありつけるのは、とても」

「この町に、足繁く舟で乗り付けて、帰りの渡し賃にも困るくらいに散財してもまだ重畳とならない遊客たちに言っておやりよ」

 百薬堂は、愉快そうに肩をゆさぶらせた。

「もっとも、飴湯で足りるような殊勝な客ばかりなら、私も花も、それどころか町の皆が今日の飯にも困ることになるだろうがね」

「もう、たんと馬鹿にしたろう。いい加減笑いやめな」

「馬鹿にしてなどいないさ、感心しているのだよ」

「まだ可笑しがっている」

「拗ねないでおくれ。ほら、もう一杯ついであげよう。お椀を、さあ」

 仏頂面を作っても、飴湯をちびちびと舐めているうちに、不機嫌のしこりがほぐれてくるのが自分で分かる。我ながら調子のいいことだ。百薬堂はにこにこしながらこちらを見守っている。いつまでもふくれっつらをしていては、せっかくの飴湯が不味くなる。百薬堂の思うがままである。癪である。

「花とこんなに話し込むのは久方ぶりだね。いつ以来だろう」

 ふと、思い当たったように百薬堂が小首をかしげた。

「どうしてだろうね。ときどき、顔を出してくれてはいたように思うけれども」

 そらとぼけているのかと思ったが、百薬堂が心底不思議そうな顔をしているので、唖然としてしまった。思わず身を乗り出して、素っ頓狂な声を上げる。

「本当に覚えがないのか?」

「うん」

「なら教えてやるが」

 指を突き付ける。

「来るたび、お前の女房たちに追い返されていたんだよ」

「女房?」

「押しかけ女房」

「ああ」

 ようやく思い出した、というように百薬堂は膝を打った。ぽん、と間の抜けたいい音が鳴った。

「そういえば、護摩を焚かれていたね。花が川から上がってきた途端、あの子たちが七輪などを納戸から引っ張り出してくるものだから、家のなかで魚でも焼くつもりかと思ったよ」

 わたしはげんなりと言った。

「あの馬鹿騒ぎを、よく忘れられるな。ほかにも、札を投げつけられたり、塩を盛られたり、念仏を唱えられたりもしていたよ、わたしは――いや、念仏はあの姉妹より一つの前の押しかけ女房だったかな? とにかく、『先生を誑かす化け物め!』が合言葉だったろう。ほら、思い出せ、先生」

「荒塩を頭からかぶりながら、茶請けに出した饅頭だけはしっかりくわえて逃げていく花が面白かったのは思い出したよ」

 人の気も知らずに楽しげに、百薬堂は首の後ろに片手をやった。

「そうだった。川面を走る花筏は、この町の娘たちには相当恐ろしがられているのだね。心配してくれるのはありがたいが、私はまかり間違っても遊女ではないのだから、何も心配いらないとよくよく言い聞かせていたのに、あの子たちも頑なだったな」

 そういう問題ではないと思うが。

「それほどに惚れられていたのだろ――見限られたらしいが」

 言いながら、百薬堂の薄暗がりに目を向ける。大騒ぎでわたしを掃き出そうとする少女たちのいない百薬堂は、しんと静まっている。いれば厄介極まりないのだが、いないならいないで、張り合いがないような気さえするのが、妙なところだ。

 雲隠れしてしまったが、どういう出自の娘たちだったのだろう。遊女屋に縛られた娼妓ではないようだったが、この町というまぎれもない悪所に出入りしている以上、間違っても堅気ではあるまい。百薬堂にしなだれかかって店に入りびたり、やがてふと姿を消して二度と戻らない女たちは、多かれ少なかれ訳ありげな風情をしている。一見身綺麗にしてはいるが、一皮剥けばどうしようもなく崩れかかっており、その危なげが隠しきれていない。それが百薬堂の好みなのか、そんな女たちに百薬堂が好まれるのかは、わたしの知るところではない。

 水路を伝うことで、裏通りから表通りへ自由に行き来できるわたしは、よく言づてを頼まれる。普通、裏通りに棲む者の表通りへの道は閉ざされている。表通りに住む者は、めったに裏通りに足を踏み入れないものだ。だから、裏通りの用件を、表通りの百薬堂に伝えるのは、自然とわたしの役目になっている。従って、よく顔を合わせる。

 人間にしては話が分かるから、百薬堂と話すのは楽しい。口あたりのよい菓子もついてくる。が、百薬堂の背後からちくちくとわたしを睨む女たちの目が痛い。

 水面を駆ける花筏。女を殺める花筏。得体の知れない妖異に、身近をうろつかれて快いわけがないのは理解できる。が、今お前たちが無防備に絡みついているその男も、充分得体の知れないものだぞ、と何度教えてやりたくなったか知れない。一旦、惚れてしまったら、もはや気にならないものなのか。伝言をもたらされるほど裏通りと関わっている時点で、百薬堂の正体がどういうものなのかは、察してもよさそうなものだが。わたしが誑かそうと誑かすまいと、その男はすでに――

 百薬堂はにこりとした。

「熱を上げるも、飽くも、この町の常――とね」

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