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籠の中の春  作者: 三樹
第二章 長虫
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2

 足元に何かよぎった気がした。

 川波でも見違えたかと思ったが、二度、三度と、視界の隅に薄青い線のようなものが閃いては消えるのを確かめると、それが川面ではなく水の中を泳いでいるものらしいということも分かった。

 小波を蹴立て、小袖の裾を乱しながら駆けていた足を止める。しかし、目をすがめて見下ろしても、水面を踏みしめた裸足の下には、何もない。黒い濁水を引いた掘割と、散り広がった夜桜があるばかりで、細長い帯紐のようなものなどどこにも見当たらない。

 わたしが立ち止まった瞬間、それが、まるで視認されるのを厭うように、すう、と川底へ潜るところを見たような気もするのだが、確信は持てない。その何ものかが意図的に姿を隠したのだとすれば、偶然行き会ったわけでもなく、わたしを尾けているということになろう。しかし、何の目的があってそのような真似をするのだろう。わたしは、町の汚れ仕事で糊口をしのいでいるつまらぬ人妖の一匹に過ぎない。尾行などしたところで何の利もあるまい。

 やはり、気のせいだったのかもしれない。水面に映る自分の帯の影でも見間違えたのだろう。そう気を取り直して、百足を詰めた袋を持ち直し、また前を向いて走り出した。

 百薬堂のねぐらは、辛うじて表通りに含まれる場所にある。百薬堂は、まだ町の表に暮らして見咎められることはない。人なのである――まだ、辛うじて。

 だが、あの藪医が人でなくなるのも時間の問題だろう、と籠屋あたりは言う。わたしもそう思う。裏通りに越してくる日も近かろう。百薬堂は数少ないわたしの話し相手の一人である。籠屋の近くに棲めばいい、とわたしはしきりに勧めている。百薬堂はほほ笑んだまま、否とも応とも言わないが。

 夜目にも雲霞のような桜並木を横目に、悪趣味な朱塗りの橋桁をいくつかくぐり抜けると、黄ばんだようなどうしようもなく安っぽい酒気の立ちこめる界隈に行き当たる。

 鼻をつまんでも毛穴から這い込んでくるようだ。もともとは妓楼に横流しするためのもぐりの酒蔵が立ち並び、なかなか景気よくやっていたらしい。が、正規の酒蔵に睨まれるか、楼主たちの機嫌を損ねるかして、とにかく取り返しのつかないどじを踏んだらしい。蔵を打ち壊されてすっかり更地にされた後は、貧相な連れ込み宿街となって、かつての栄華は見る影もない。聞くところによれば、粗悪な密造酒で旨みを得ていた者たちが、地ならしをする際に人柱にされて埋められたとか埋められていないとか。その怨念に祟られているのかはいざ知らず、酒樽が残らずよそに運び去られた今も、空気にしみついた残り香はしぶとく消えない。

 過ぎた酒は薬にもならない。この強烈な臭いにくらくらと酩酊して商売にならないせいか、そもそも瘴気じみた臭いを厭って客が寄り付かないせいか、屋台の一つも客引きの一人も、この近辺には見当たらない。閑静といってもよい。川沿いに、互いに押し合うように建て込んだ曖昧茶屋を見ても、臭いを締め切るように戸を立て切っている。

 その廂間に、思わず見落としてしまうくらいひっそりと、百薬堂の入り口はあった。入り口と言えどもあくまで風通しのための窓であって、川から出入りするのはわたしくらいなものだ。百薬堂自身でさえ使わない。閉まっていた蔀戸を片手で引き開いて、滑り込んだ。

「おやおや、籠屋の花じゃないか」

 いきなり上がり込んできたわたしにも顔色一つ変えず、百薬堂は奥からにこやかに振り返った。百薬堂の目尻によった笑い皺を眺めるたび、わたしは干し柿を思い出す。ほどよく涸れていて、甘い。

 百薬堂は脂っ気のない髪を束ね、土間にかがみ込んで、商売道具の手入れをしているらしい。濡れ濡れとした砥石の上で、油皿の火をはじいて小刀の刃がちかりと光った。

「今少し手が離せないのだよ。申し訳ないが、しばらく待っておくれね」

「お構いなく。急に押しかけたこちらが悪い」

 能面のごとき籠屋に見慣れていると、餅のように当たりの柔らかな百薬堂に接したとき、妙な気後れを覚えてしまう。同じ人間の男で、こうまでも違うものかと感服しもする。片方はすでに人間ではないし、もう片方も人間とはいえ半ば魔性になりかかってはいるのだけれど。

 手持ち無沙汰に、ぐるりと百薬堂を見渡した。雑然としているが、見慣れた風景である。どういう伝手を使ったのやら、無造作に積まれた医学書のなかには、禁制本とおぼしい、角張った異邦の文字で綴られたものも少なからず入り混じっている。本の山に埋もれている薬研や乳鉢からは強い薬草の匂いが立ちのぼっていて、頭痛がしそうだ。土間にひしめく薬酒の大樽たちは、蓋と重石で封じてあるとはいえ、下手をすれば表よりもきつい酒の香りが醸しだされ、むしむしと梁の下に籠もっている。気を抜けば頭の芯がとろりとなりそうだ。

 そのごみごみとした混沌のなかに見当たらないものがあるのに気付き、首を伸ばして、束髪を垂らした百薬堂の背中に尋ねた。

「押しかけると言えば、押しかけ女房もどきがいたろう。今は留守か?」

「押しかけ女房?」

「いたじゃないか。あの、ちょこまかとこまっしゃくれた姉妹が」

 愛想がよすぎるのも考えものだと思うのは、干し柿のわびしいような甘みにのぼせた女が、我がもの顔で百薬堂に居座っているのを目の当たりにするときである。そして、その顔触れが頻繁に入れ替わっていることを知ってしまったときである。

 入れ替わるたびに、新旧が刺し違えただの無理心中をされ損なっただの、不穏当な噂が裏通りにも流れてくる。百薬堂にいかなる考えがあるのかは知れない。いつも、罪のないような顔をしてのほほんと笑っているばかりである。たぶん、一番たちの悪い部類に入る。

「ああ、去んだよ。二人とも」

 今回も、片手間に、あっさりとそれで済ませる。単調に小刀を研ぐ手を止めもしない。

「私が調剤や挿げ替えばかりにかまけているから、つまらなくなったようだ」

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