5
「西の船着場だ。花、お前が」
わたしに命じかけて、いや、と籠屋は首を横に振る。
「お前よりも九重の方が速い。九重、聞こえていたな。水仙の香のする鬼火だ。くれぐれも行燈に悟られぬよう」
ここにいない何者かに向かい、籠屋はよどみなく話しかけている。そのただならぬ様子を目の当たりにしても、男は顔色一つ変えなかった。わたしの見知っている顔ではないが、籠屋を訪ねるのははじめてではないのかもしれない。
はげしい烈風が沸き起こって暖簾がはためく。籠屋の目算に狂いはなかったというべきなのだろう。おそらくわたしが船着場に一走りするよりもずっと早く、待っていたものは駆け込んできた。矢のような勢いで店に飛び込んでくる。
尾花のような白銀の毛皮が、仄かな燐光をはじいてまばゆいほどに輝いた。強靭な四肢の猛獣と見えるが、虎狼のように隆々としてはいず、あくまですんなりとたおやかだ。体躯が大きく見えるのは、背後に膨らむ九つに分かれた尾のせいかもしれない。一つにまとまり、まろい箒木のようにも見える。九重の名で呼ばれる謂れである。
籠屋の使い魔である妖狐は、速やかな足取りで主人の前に馳せ参じた。尖った鼻面の先に、淡く弱々しい火の玉をくわえこんでいる。籠屋が手を伸ばすと、両あごの拘束をゆるめた。逃れ出た人魂は、ふらふらと籠屋の手を厭うように虚空に浮かび上がったが、すぐさま掴まれた。そのまま手近な籠の一つに押し込まれ、蓋をされる。
「娘を寝かせた部屋に目張りをして――屏風を立て回すなり、蚊帳を張るなり好きになさるがよいが――決してどんな小さな隙間のないようにしてから、これを離せ。決して素手で触れようとしてはいけない。人の手では、触れたところから肉が爛れる。一夜置いて、人魂が戻ったことを確かめてから、娘の枕元に盃についだ酒を供えろ。だんだん正気に戻ってくる」
使いの男に籠を渡しながら、淡々と籠屋が指示を与えている。
それをよそに、お役御免になった九重がすたすたとわたしの方へやってきた。何かと思えば、くすん、くすん、と立て続けに鼻の詰まったようなくしゃみをして、情けないような顔を訴えかけてくるから可笑しい。
「お前もけむいよな」
そういたわりながら耳と耳の間をなでてやると、目を細めて、束になった尻尾の一本をぱたぱたと振った。
男が来たときと同じように深々とお辞儀してから去っていくのを見送る。籠屋はさっそく足を崩し、いくぶん疲れたように壁に背をもたせかけながら、物憂げに煙をくゆらせている。
今宵、傾城屋から籠屋に支払われた代料は情け容赦もなく、目覚めた振袖新造の前借金に上乗せされるのだろう。
生きながら魂の抜ける遊女は、多い。
籠屋の生業は、そのように町を彷徨う陰火を捕らえておき、娼家と取り引きをすることだ。娼家は、魂の宿主を人事不省から呼び戻して勤めに立ち返らせねばならない。売色が生臭い辛苦にくまどられたものである以上、籠屋が食いはぐれることはない。楼主に歯向かった女郎を川底へ葬り去る、わたしの仕事が絶えた試しがないのと同じだ。
意に染まぬまま荒らされてゆく体から抜け出た魂を、無理やりに元に戻し、更なる奉公を強いる。籠屋のしているのはつまり、それへの加担である。一方、わたしは、ままならぬ苦界に挑んだ女の血で手を汚す。血のついた手で、金子を受け取る。
生かす。殺す。わたしたちの所業はどちらも、町に閉じ込められた遊女たちから忌み嫌われる。疎んじられる。鬼と呼び捨てられる。どう呼び習わされようと、しようがない。
顔を上げると、籠屋がまっすぐにわたしを見ていた。憐れむような目であった。制する暇もあればこそ、霧雨がわたしの心に忍び入る。そして、一言だけ言った。
「阿呆」
断りもなく勝手にわたしの心を読む、籠屋が小面憎いと思う。憤慨する。憎たらしい、憎たらしい、とちゃんと聞こえるように腹のなかで繰り返していると、籠屋は苦笑して目をそらした。
「ここは煙たくてならないから、納戸へ行っている」
妙に恥ずかしくなって、そう小声で呟いて、逃げるように九重を連れて部屋を出た。
ふかふかとした九重の毛皮を抱きかかえながら、うつらうつらといつの間にかうたた寝をしていた。
浅い夢を見たような気がするし、見なかったような気もする。生暖かい母親の胎に宿っていたときのことを夢に見たかもしれないし、見なかったかもしれない。生まれ出ずる瞬間、生温い羊水と一緒に吐き出される音を聞いたかもしれない。わたしの産声を聞く、首まで白くおしろいを塗りつけた母親の、色をなくした唇を見たかもしれない。その震える手で、川に放り捨てられたところを見たかもしれない。沈んでは川の汚泥にまみれてを千回、浮かんでは無数の花に取り巻かれるを千回、繰り返すうちに、いつしか水子から化生の者となったところを――
何かがなでるようにそっと夢枕に通り過ぎたかもしれなかったが、目が覚めるとすべて忘れた。
暖をとるのに抱いていた九重が、わたしの腕をほどいて立ち去ろうと身動きしたので、目覚めた。
この奥まった部屋にも数え切れないくらいの籠が転がっていたが、どれも示し合わせたように空だ。納戸には真の闇が、隅々まで行き渡っている。光も煙も届かない。川の底はこんなふうだったろうか、と思い出そうとする。でも、思い出せない。わたしに思い出せることなどない。わたしは川面の花の上を走る。花の下に沈むもののことを、ぽっかりと手放してしまうことで、わたしは浮かび上がった――
納戸の引き戸が半ばほど開けられているのを、浅く吹き込む風の気配で悟った。その隙間から、するりと九重が抜け出していく。引き戸はかすかに軋みながら閉められたが、狐と入れ替わりに、わたしのほかにももう一人、戸の内側にたたずむ者が残った。
互いに、じっと黙りこくったまま向き合った。
顔が見えないからどんな表情をしているのかは知りようもない。でも、その人影がひどく所在ないように、そんなはずはないのに心細げに見えて、我知らず切ないような胸の痛みを覚えた。帰り道を忘れた迷い子のような。影法師の、実体を失った虚しい切れ端のような。そのままでは、二度と手の届かないどこか遠くへ行ってしまうような。
思わず手をさしのばした。引き寄せようとして、引き寄せられる。
文目も分かぬ闇越しに探り当てた唾液は、濃密な煙の味に毒されていて舌が淡くしびれるほど苦い。眉をしかめると、あわせた唇が幻のような笑みの形に揺らいだように思われたが、はっきりと確かめることはついにできなかった。