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いつものように、川浪の上にさしのばされた濡れ縁から、手をついて這い上がった。床板は雨ざらしのせいか、それともたっぷりと川霧を吸わされているせいか、ぶよぶよと頼りなく腐りかかっており、今にも踏み抜きかねない。
ところどころ糸のはじけてぽっかりと口を開けた簾からしても、あばら家の風情である。いや、実際にもまごうことのない破屋なのだけれども。吊り下ろされた簾をくぐって中に入る。
途端、有無を言わさず鼻腔に滑り込んできたいがらっぽい靄、そして、射るような眼差し。
「そこから出入りするなと、何度言ったら分かるんだお前は」
籠屋である。開口一番、鬱陶しげな小言を連ねる。
「足を拭え。床を濡らすな」
指図はするが、自分は腰を上げもしない。首だけぐるりとこちらへめぐらし、つけつけと言う。店のまんなかにあぐらを掻いて、刻み煙草などをくゆらせている。やたらにもうもうとしているのは、そのせいか。
「けむい」
わたしが眉間に皺を寄せてぼやくと、籠屋は鼻で笑った。
「蓬を混ぜてある。低級なばけものには息が詰まろうな、お前のような」
道理で、妙に臭いが鼻につくわけだ。魔除けも兼ねているのなら、わたしにとっては当然しんどいものだが、籠屋とてわずらわしいはずである。籠屋とわたしでは老若の差はあろうものの、除けられるべき魔性には変わりない。それをなぜ、わざわざ自分の縄張りのなかで焚きしめる必要があるというのか。
わたしの疑問を正しく読んだのか、籠屋は煙管の火皿をぐいと突き出して、戸口を指した。
「煙幕だ。行燈がこのへんを嗅ぎ回っているからな。用心に越したことはなかろ」
川に面した濡れ縁と、店のなかを通り抜けたちょうど反対の壁に、戸口は口を開いている。今は開け放たれており、薄汚れた暖簾が死んだようにうなだれている。暖簾の先には、裏通りのひびわれんばかりに乾ききった夜気が充満していたが、そこにふわりとあどけない緋色の振袖がひるがえった気がして、わたしはぞくりとした。行燈がうろついている。
「今度は何が狙いなのさ」
籠屋は吸い口から唇をずらし、咽喉にためた煙を盛大に吐き出しながら、返事を吐き出した。
「俺が知るか。どうせ、またろくでもないことだろう。何にしろ、関わり合いはご免だ」
行燈は、我々と同類である。同類であるが、相容れない。
あれは、いたずらに騒擾や悲鳴を巻き起こすことにはしゃぐという困ったたちで、どちらかというと静穏を好むわたしや籠屋とはそりが合わない。合わないが、そんなことは行燈には関係がない。彼女にとって面白くてたまらないと判断されたことがそこにある限り、いくら我々が避けて回ろうと、行燈は頭から突っ込んでくる。迷惑極まりない。
しかも、さすがに籠屋には及ばないが、次点とも言うべきの古株であるから、厄介さも度合いが違う。見た目ばかりは愛くるしい童女であるが、そこに騙されると痛い目に合う。そもそも、裏通りで一、二を争う老練家たる籠屋が、髭も生えそろわない青年の姿をして何食わぬ顔をしているのだから、推して測るべきである。
籠屋でさえ、こんな小細工で煙に巻くしかない相手に、若輩のわたしが勝てるわけがない。しばらく裏通りを出歩くのは控えた方がよいかもしれない。
籠屋は気に入らぬげに戸口を睨み据えながら、煙を吐いている。もくもくと立ち昇った蓬の煙は、我慢できぬほどではないが、肺の腑が少しばかり縮こまってしまったように息苦しいことには違いないので、わたしはこっそりと二、三歩ばかり濡れ縁の方へ下がった。うっすらとした白い煙は、籠屋の身の回りにまといつくように漂い、壁際といわず土間といわずそこらじゅうに積み上げられた籠のなかにも、編目を抜けてしみ込んでいた。
これらの厖大な数の籠は、言うに及ばず籠屋の商売道具である。彼が籠屋と呼ばれる所以だ。凡庸なものから珍奇な色形まで、竹や蔓といったものから正体の知れない素材まで、人ひとり詰め込めそうなものから蟻の一匹も入れぬような大小のものまで、あきれ返るほどに溢れかえっている。どれも雑多に並べられている。空のものもあるが、中身のあるものもある。そして、その中身はどれも同じだった。
中身のある籠は、編目を透かして内部からぼんやりと燐光を放っていた。光源は、籠のなかでゆらゆらと泳ぎ、ひとりでに蠢いている。店のなかには燭台一つ備えられていないが、この不可思議な明かりがそこここに灯っているおかげで、最も闇深い夜更けにも仄明るい。発光する虫と見える。だが、違う。
人魂。籠屋はそう言う。
店じゅうに所狭しとひしめくこれらの籠は、人の体から抜け出た魂を籠めておくためのものである、と。
「人魂の味を覚えたのかもな、行燈め」
煙管の羅宇を片手にぶらさげ、もう片一方の手で膝に頬杖をつきながら、籠屋は呟いた。
「あわよくば俺のところからくすねてやろうという算段か。あいつも大概、餓鬼のように意地汚いな」
人魂は美味いという。籠屋はそう言っていた。言っていたからには、たいらげたことがあるのかもしれない。
わたしはない。わたしには、籠屋のように中空に漂揺する人魂を自分一人で捕らえる能力はないし、ましてや籠屋の籠からつまみ食いしてやろうという覇気など、さらにあるはずもない。そんなことが露見したが最後、籠屋の手で魂を掻き抜かれ、店で一番狭苦しい籠に閉じ込められるのがおちである。
「鬼か」
わたしは頬を掻いた。
「さっき、鬼だと言われたよ」
籠屋はちらりと目だけでわたしを見た。
「お前がか?」
「女郎を騙して、攫って食う鬼だとさ」
「人なんぞ、食えたもんじゃないぜ。鶏の方がよっぽど美味い」
と言うからには、賞味済みなのかもしれない。
「けど、攫うってのは間違いじゃなかろ」
「楼主様が始末しろと言う、悶着を起こした女郎だけだ。わたしがとって食おうというので攫っているわけじゃない。皆それを知らずに勝手なことを言う。それが何だか――理不尽だなあと思っただけだ」
籠屋は器用に片眉だけ上げてみせた。
「やりたくってやってることじゃあないんだと、お前が言いたいのはそういうことか」
「まあ、そうさ」
「嫌々やらされてることだから、堪忍しろと」
「……そうでは、ないが」
「青いな」
「青かない。そんなつもりで言ったのじゃない」
わたしはむきになったが、籠屋は取り合わなかった。
「それが青いというのだ。そういや、お前はまだまだ若いんだったな。悪いことじゃあないが、お前の泣きどころにならねばいいが」
自覚はありすぎるほどにあるが、ほかから青二才扱いされると抗いたくなる。わたしは憤然と、立ちこめる煙もお構いなしに籠屋に詰め寄ろうとしたが、機先を制するように籠屋が顔をしかめた。
「お前、さっき足を拭けと言ったじゃないか」
わたしはきょとんとして、指差されるままに足下を見下ろした。よくよく目を凝らせば、わたしの踏んだ後に、片足の足形がいくつか判で押したように残っていた。赤黒く、錆びついたような厭わしい色の。
「ありゃ、怪我したのを忘れていた」
居心地悪く足を持ち上げながら、もごもごと言い訳すると、籠屋は嘆息した。
「お前は、すぐに汚したがる……」
子どもじみていることを念押ししてしまったようで、決まり悪く居すくんでいると、暖簾が大きく揺らいだ。
ついに行燈が踏み込んできたのかと一瞬身を硬くしたが、そうではなかった。のっぺりとした暖簾を押し分けて店に入ってきたのは、行燈とは似ても似つかぬ大柄な男だった。
「どちらさまで」
礼に適っていないわけではないが、丁寧とは言い難い口振りで籠屋が誰何する。それに怯んだ様子もなく、男は客商売に熟達した人間らしく深々と腰を折って一礼し、この町で名の通ったさる傾城屋を挙げ、自分はそこの使いであると名乗った。
「ご用は?」
籠屋は一応、あぐらに崩していた足を正座にしてあらたまった風を装ってはいるが、煙のたつ煙管を置きもしないのが客の応対には横柄である。だが、一見籠屋の倍も年嵩と見える男は、そんなことは気にもとめぬ風情で、淡々と用件を述べはじめた。どことなくのっそりとした、鈍重そうな外見ではあるが鋭い目をした男だった。
「振袖新造の一人が、三日ほど前から床に臥せったまま覚めませんで」
訥々と彼は語った。
「昏々と眠っておるのです。つねろうと叩こうと一向に起きません。顔色は青く、息もたまに止まることがございます。脈は弱いながらもございますが、これは心魂が抜けたのではないかと、手前どものあるじが見立てるものですから、では、ご造作をお掛けいたしますがこちらの手をお借りするよりほかにあるまいと存じまして」
慇懃に申し述べながら、その細い目がちらりと、光芒の宿った籠の群れに走る。だが、籠屋はすげなく首を振った。
「三日前に抜けたものはここにはない。何か、その娘の魂のあくがれ出ることに思い当たる節はおありか」
「ふさぎ込んではおりました。我々もよく気をつけてはいたのですが、行き届きませず。なにぶん、先の見込まれた子ですから、どうしても息を吹き返してもらわねばならぬとあるじも申しまして、このように」
男がうやうやしげな手つきで差し出した、小さいが重たげな包みを、籠屋は断らなかった。中身は歴然としている。
「その娘が好んで焚いていた香など覚えておられまいか。好物でもかまわないが、できれば匂いの方がいい」
籠屋の問いに、遊女屋の使いはしばらく考え込んでいたが、こう口を開いた。
「部屋に長く水仙を生けていたと聞いております。この町では咲きませぬが、客の一人に贈られたとか――」
「水仙か」
籠屋は、言葉をほおばるようにしながら、うつむきがちに半眼に瞼を下ろした。
弛緩するような表情である。が、反面ちぎれんばかりにはりつめたような気配もあり、男もわたしも息を詰めて見守る。
ふう、とため息でもつくように、籠屋の意識が拡散したのが分かる。籠に閉じ込められた人魂が、身震いするように明滅した。風もないのに、わたしの髪はざわめいた。
どう例えればよいだろう。言葉に置き換えるのは難しい。しいて言うなら籠屋の目が、霧雨のように細かな粒となって、町に散らばってゆく。うっすらとしているが、遠くまで手が届く。軽やかに夜風に乗り、川を越えて、いかなる物陰に潜んだ魂魄も暴き出す。
「いたいた」
ふいに籠屋の目の焦点がぴたりと合い、そんな呟きを漏らした。