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籠の中の春  作者: 三樹
第一章 花の筏
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 まとった蓑を脱ぎ捨て、編み笠をとると、湿りを含んだ風が額から髪をじかにくしけずっていった。まるで大きな掌に頭をなでられているような、よい気持ちになる。

 もっと力強い夜風の腕に抱擁されたくて、一心に川面を駆けた。川縁に植わった桜木が、両岸から襲い掛かるように真っ白い隧道を作っている。その下を、何艘もの夜船がひっきりなしに行き交っている。

 ぼんやりと提灯を灯した舟が、町に訪れた客を宴席から宴席へと導くのだった。座敷の掛かった娼妓を運ぶものもある。着飾った女たちの嬌声が、町に充満する夜気にさざ波をたてる。

 陸地は、羽目をはずした客の蕩尽に抜け目なく群がり、さらに囃したてては洗いざらい吐き出させ、それらを呑み込んで華やぎの限りを尽くしている。人が寄れば寄るほど、その健やかな精気を吸いとり、楼閣のにぎわしく並び立つ町は、干からびる者どもを尻目に、よりいっそう脂気を帯びて活き活きとする。

 一方、常世の春に浮かれ騒ぐ町の驕慢をその面に映し込みながらも、川はどこか粛然としている。酔客も川風に当たると頭が冷えるのか、馬鹿笑いをやめて茫洋と黒い流れに目を落とす。その束の間の無常観も、ほろ酔い加減の敵娼にしなだれかかられれば、途端にやに下がって吹き飛んでしまうのだけれども。

 これも酔い覚ましか、川へと張り出した瀟洒な涼み台にだらしなく、若い男がもたれかかっていた。かなりの大見世の露台を貸しきっており、絵に描いたがごとき遊蕩児である。それが、無遠慮にわたしを指差して、すっとんきょうな声を上げた。

「おい、ありゃ何だ。俺の目がいかれちまったのか。小娘が水の上に立っていやがる。手妻か? いったいぜんたい、どういう種だ?」

 寄り添った酌婦が、男に促されるままにわたしを見とめ、柳眉を凍りつかせ、血相を変えた。続く、絹を裂くがごとき悲鳴には、やや芝居がかったものがなくはなかったけれども。

「花筏!」

 恐ろしげに袖を掲げ、顔を背ける。

「花筏? なんだそれは」

 男がいぶかしげに尋ねかけるのを、待ってましたとばかりに酌婦は取りすがる。

「鬼でございますよ。おお、いやだ。縁起でもない」

「鬼?」

「裏通りに跳梁跋扈する鬼の一匹でございます。川をつたってこちらにやってきては、遊女を喰うのです。下賤な漕ぎ手に化けて、客があると騙して舟に乗せて、攫って。そうして戻らない――その通り名が……」

 花筏。聞くまでもないし、聞きたくもない。わたしは聞かぬ振りをして、構わず通り過ぎる。

「裏通りとは何だ?」

 男の腕は酌婦の腰に這い回りながら、視線はこちらから剥がれない。

「旦那様は、まだこの町のことをよくご存じありませんでしたね。あれは、人の住むところではございませんの。人ではない者どもが、人の世にはありうべからざる品を商っているのだとか。ここは悪所場ではございますが、裏通りに比べましたれば、浄いものにございます」

 怯えきった、憐れな手弱女にしてはやや饒舌に過ぎるが、自覚はないようだった。

「あれは、美しい遊女ばかりを狙ってはかどわかし、その美しさを吸いとって我がものとしているのだとか。今宵もまた、哀れな贄を作ったのでありましょう。ああ、なんて恐ろしい。どうかお守りくださいまし、旦那様」

 だしにされているな、と苦く笑みながら、川を流れる花の上を駆ける。裾をからげ、袖を風にふくらませながら、空を埋め尽くす枝先からこぼれる花の下を駆ける。襟元から忍び込む夜気に胸をくすぐらせながら、吹雪く花の中を駆ける。

「鬼か」

 しなしなと震え上がってみせる酌婦とは対照的に、男は赤ら顔を歪めてげらげらと笑っている。ねばりつくような視線がわたしの身体に貼りつく――とは、思い上がりすぎか。男がだらしなく身体をゆするたびに、盃からびたびたと酒がこぼれている。

「鬼を買うにはいくらかかる?」

 この町は、久遠の春を歌う。常永久の春に遊ぶ。

 ありあまる春をひさいで、この町は血をめぐらせている。黒く黒く濁った血を。町中に張りめぐらされた川が、夜ごとに掃いて捨てるほどの客を運ぶ。

 客は、訪れては去っていく。短い春の夜の夢をむさぼり、この町からむさぼられて、恍惚の余韻を引きずりながら、町を後にする。夢のようだったと口を揃える。この町はこの世ならぬ異界だと。だが、その異界を住み処とする者にとっては、夢こそがうつつとなり代わる。悪夢もまた、同じく。

 川は、町のあらゆる場所に流れ込んでいる。客の嘆息して見惚れる煌びやかな表通りにも、決して客の目の届かぬ日陰の裏通りにも。

 誤って表の客が這入りこまぬよう、路地裏へと続く陸の道は念入りに封じられているけれども、水路に関はない。川岸に華やかな妓楼の並び立つ本流を折れ、奇妙なほど明かりの絶えた支流の一本に足を踏み入れるのに、なんら苦労はなかった。

 幅狭い堀川に滑り込むと、気の滅入るような人いきれはたちまちに遠ざかった。浮かれ女のあげる甲高い嬌声も、惜しみなく油の注がれた灯籠の照り返しも、ここには縁がない。

 とはいえ、無人の廃墟というわけではない。その逆だ。表の、目に触れることを忌まれたもののすべてが、この裏通りには詰め込まれている。みっしりと、隙間なく。

 だから、どんなに静寂をほしいままにしていようと、この一帯は息苦しいほどに濃密だ。獣じみた生臭い息遣いに満ち満ち、身じろぐ気配がそこらじゅうにこびりついて、視線だけは束のように刺さってくるというのに、姿はどこにもない。

 川の流れも遅々としている。水面下にどろりとした粘っこい淀みの深まったことが、足の裏からひしひしと感ぜられる。

 土手の柳が、ぐんなりと枝垂れて風もないのにそよぐ。時折り、得体の知れぬ鵺の夜鳴きが闇をつんざく。仄暗い月影ばかりが、亡霊のように中空を彷徨う。

 わたしの帰り着く籠屋の古巣は、この裏通りにある。

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