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籠の中の春  作者: 三樹
第一章 花の筏
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2

「どこへ連れてゆこうというのだい、え?」

 いつまでも舟が岸に着かぬことにか、またいつまでも目的地を秘されることにか、あるいはその両方にか、とにかく業を煮やした女は、そう食って掛かってきた。もともと気長なたちではないらしい。

 だが、どうもその、無理をして蓮っ葉な声を吐き出したのがいけなかったのだろう。それとも、夜船に吹き上げてきた川風が祟ったか。濃い紅をさした唇が、直後、ぎゅうと潰れるようにゆがんだ。乱雑に言葉を吐き捨て、吸った息が咽喉で絡んだらしい。堪えきれず、ついで決壊するように女の唇から溢れたのは、激しい喘鳴だった。

「なに、ちょいとそこまでのことさ」

 という、渡し守の気のない返事も耳に入らぬげに、老婆のように背を丸め、苦しげに咳き込む。身を二つ折りにし、首をくねらせ、激しく揺すぶられた頭から目も綾な簪の一本が抜け落ちる。今にも抜けそうな古びた船底にぶつかって、かすかにしゃん、と鳴る。だが、女は気付かない。

 粗末な舟上には、櫓を握った漕ぎ手と乗客の女の、二人ばかりである。渡し守はわびしく草臥れた蓑笠に身を押し包み、さして見栄えのする体格とも見えないが、しかし腕だけは確かで、気まぐれな波を素早く読み、力強く舟を操ってゆく。一方、女は、貧相な舟や船頭とは打って変わった、華やかないでたちである。しかし、遠目には蝶のようにあでやかな衣装も、近くに寄ればどことはなく襤褸じみたようにぐんなりと、着崩れているのが分かる。女の生業が生業であるためだろうが、それのみではなく、どんなにきつく着付けても、豊かな絹のなかで、痩せさらばえた身体が泳ぐからであろう。

「姐さん、病持ちかい」

 いたわりもせず、渡し守が面白げにそう尋ねると、ようやく身を起こして、肩で息をしながらも、女は険しく睨んできた。鬼のようだった。どれほど入念に顔を塗りたくろうと、落ち窪んだ眼窩も肉のそげた頬も隠せはしない。

「それが何さ」

 ぐいとあごを突き出して反問してみせる。骨と皮ばかりの首にも、半ば執念のようにおしろいははたき込まれていて、腐肉に群がる蛆のように白かった。渡し守は、臆した様子もなく、答えた。

「客をとるのは辛いのでは?」

 おしろいは毒。そう教えてくれたのは籠屋だったか、藪医の百薬堂だったか。渡し守は思い出そうと首をかしげる。毒の話であったから、百薬堂の方か。肌から身にしみ込み、じわじわと血を狂わせていく鉛毒。だから、概して女郎は長く生きられぬのだと。しかし、なにも、おしろいばかりに限った話ではない。素顔を塗り隠し、娼館に押し込められた女たちに、群がって蝕むものの数は知れない。

「何かい、あたしに食いっぱぐれろとでもいうのか。それとも、見ず知らずのあんたがお情けに余って肩代わりしてくれるってのか。無駄口叩く暇があるんなら、とっとと手を動かしな」

 たおやかなる媚態は金をはたく客を骨抜きにするため振る舞われるものであって、雇われの舟人ふぜい相手では見事なほどに地金があらわだ。けんもほろろな応対に、渡し守は肩をすくめて舟端に目を置いた。黒い川浪がさわさわと笑う。握り込んだ櫓がぎしりと鳴く。

「今時舟遊びなんざ、とち狂った旦那もいたもんだ。どこのどいつだ。風雅だの何だの知らないが、夜風が冷えるったらありゃしねえ。明日のおつとめにさしさわったらどうしてくれるってんだ。床花、たんとふんだくってやらなけりゃ、こっちの気が済まないよ」

 無駄口を叩くなと啖呵を切ったくせに、女は饒舌に居丈高な気炎を上げた。これ以上渡し守に弱みを見せまいと、空意地を張っているのかもしれない。やけっぱちになったとも見えた。

「当の旦那は、いつになったらお乗りなのだい。一向に姿を見せないのも、そのばかげたお客の趣向なのかい。いいからさっさと岸に寄せて呼んできな。あんたとしけた面つきあわせんのも飽きたよ」

「まあそう焦りなさんな」

 なだめると、女はまなじりを吊り上げた。両眼を見開くと、なおさら髑髏じみて見える。

「このまま川を下ったら外堀に出ちまうじゃないか」

「趣向とやらだよ、そういう」

 女はしばらく口をつぐんだが、やがてひどく怪しむような目をしてこちらをうかがった。野良猫のような目が、じろじろと、顔の見えない渡し守を眺め回す。船頭の仕事着である、編み笠と蓑の内にあるものを、無遠慮に暴き出そうとする。

「まさか、実はあんたがあたしを買った客だったなんておちはなかろうね?」

「万に一つも」

「そうだろうともさ」

 やや安堵したように女は座りなおした。安堵するほどに案じていたことを恥じたのか、荒っぽく言葉を重ねた。

「舟饅頭のまねごとなどごめんだよ。水夫ふぜいに買われるほど、このあたしは安かないよ。見世の稼ぎ頭だもの。決まってるじゃないか。それにしてもおんぼろな小舟だね。今にも沈みそうでひやひやしちまう」

「急ごしらえだからね」

 櫓を漕ぎながら、渡し守は目深にかぶった編み笠の陰で苦笑する。

 昼間でさえ川床も容易に見渡せぬほど濁っているものを、夜となればさらに暗い。夜陰との境い目が容易に見極められず、底無しの闇の淵と見える。転げ落ちれば一巻の終わり。浮かび上がったとて、掴むものもない。

「あんたが乗れるようにしなけりゃならなかったから。わたし一人なら、こんな細工は要らないんだが」

 女は不思議そうな顔をした。そんなふうに瞬きをすると、ぞっとするほどに幼さの面影があった。荒淫に痩せ衰えたなりや、玄人じみた物言いからは想像もつかないが、実はたまげるほど年若いのかもしれない。

「わざわざこしらえるってんなら、はじめから小舟を持ってる渡し守なりに頼んだらいいじゃないか。なんであんたなんだい」

「そうもいかない。こんなお役目を引き受けられる船頭は、町広しといえども、わたしくらいなもんさ」

 女はさっぱり合点のいかないという顔だったが、あまり喋るとまた咳がせりあがる気配があったのか、単に会話に飽きたのか、それ以上は何も言いつのらなかった。

 そうするうちにも舟は河口へ流れてゆき、岸の明かりもまばらになる。日暮れともなれば、そこかしこに鈴なりに灯った釣り提灯が、川に油でも注いだような極彩の虹を映し込む。軒を連ねて立ち並ぶ妓楼の、夜通し妍を競う一角に足を踏み入れれば、川でさえ真昼のような騒ぎである。とはいえ、そこも過ぎれば、坂を転がるように静けさを増す。灯りも乏しく人影も絶え、ただ水面の花ばかりが淋しい綾を描く。

 朽ちかけた橋脚を避けて進みながら、渡し守はひっそりと周囲をうかがった。

 喧騒は遠い。人目はない。両岸にそそりたつ廃屋が月影の盾となり、暗闇が充満している。

 このへんが、潮か。

「姐さん、あんた、河岸を変えろってお達しが来てるんだってね」

 退屈げに船縁に指を這わせていた女は、火にでも触れたように身をこわばらせた。そして、噛み付くような目で渡し守を仰いだ。

「どうしてあんたがそんなことを知ってるのさ」

「さてね」

 病んだ女を見下ろす。女郎の命は短い。

「しかし、この町からは決して出ないと逆らったそうだね。どうしてだい、姐さん」

「あんたに答える義理があるものか」

「地獄の閻魔様よりおっかない楼主様に、たてつく遊女の言い分ってのはいかなるものか、聞いておきたいね」

「聞いてどうする」

「どうもしないよ」

 こればっかりは本音だった。

「ただ、気が惹かれるだけさ」

「さては楼主の手先だね、あんた」

 歯ぎしりするように女は呟いた。渡し守は可笑しくなった。

「はてさて、手先かどうかは何とも言えんよ。おあしさえ払ってもらえりゃ、誰の手先にだってなる――どんなお役目だって承る」

「人でなし!」

 たわんだ息を振り絞るような女の痛罵に、渡し守はつい吹き出してしまう。

「ま、そうさな。人じゃあない」

 笑い転げる渡し守を気味の悪げに眺めながら、女はぐっと唇を結んでいた。が、やがてこんな口火を切った。囁くようだった。

「あたしは六つのとき、女衒に売られてこの町へ来た。以来、ここがあたしの里さ。行けやしないよ、どこにも」

「間夫でもいるのかい」

 当てずっぽうだったが、図星だったらしく女の目が油のように燃えた。崩れかかりつつある容貌には凄絶の極みであったが、美しかった。

「死んでもいい、と思うのさ。あいつとだったら死んでもいい。子まで孕んだ。きっとあいつの子さ。契りが深かったに違いない。前世からの縁さ。見つかるやいなや、遣り手の婆さんに流されちまったがね。知ってるかい、男と女の双子は、入水心中した奴らの生まれ変わりなんだと。夢のようだ。おんなじ胎から生まれて、おんなじ血が流れる体。あたしはあいつと死んで、今度はそうして生まれるのさ。誰もあたしらを引き離すことができないように」

「そうかい、情の濃いことだ」

 渡し守は、ついと櫓から手を離した。自分で吐き出した言葉に自分で猛りたつ女に、ふいに興味が失せた。重湯のように心持ちがけだるくなった。聞きたかったことは聞いた。もうこれ以上聞き出すこともない。用済みだ。ならば、もう茶番は幕引きにしよう。

「だが、楼主様はこの町を情死云々で騒がしたくはないようだ。なるべく静かに始末をつけたいらしい。だから、ま、恨みなさんなよ」

 夜の底で、舟がほどけた。

 苔や水草のこびりついたおんぼろの木船が、瞬時に白く変じた。粟立つように。だが、それも一時のことで、生温い風の一吹きで、見る見るうちに崩れてしまう花の舟。泥の舟より脆かろう。櫓杭も水押しも、残らず花びらとなって散る。まやかしの舟。影も形も失われた後には、幻術の解けた桜花が、川の面に盛大に振りこぼれ、鈍い流れに散り敷かれた。

 だが、舟の上にあった二人の命運は分かたれた。渡し守は花弁の筏の上にとどまり、足下にささやかな波紋の広がるに任せた。花を踏み抜いた女は、舞でも舞うように袖を振りながら沈んだ。高々と水しぶきがたつ。驚愕の形相を貼り付けながら。

「人は身が重くて難儀だね」

 渡し守の独り言ちるのの聞えているのかいないのか、青ざめた顔だけを浮かび上がらせた女は、両手足をばたつかせた。蝶のような衣が体に絡んで溺れかかっている。撥ねた水が渡し守の白い頬にまで届いた。この町の、あらゆる汚泥を呑み込んで流れる黒い水。

 椿の油に高く結い上げられた髪も、水に浸かると崩れて無残だった。水面を踏んで歩み寄った足運びもそのままに、その髷の残骸に片足をのせると、溺れる女はいっそう死に物狂いに暴れた。

 水を呑みながら、女は声にならぬ絶叫に喉を軋ませた。

「おのれは……!」

 銀細工の簪は飾りの一片も鋭利で、強く踏みつけると、柔らかな土踏まずを掻き切られて血を噴いた。

 何もかも奪いつくされた女の、最後の抗いのようだった。それでも、薄刃が肉を刺すのも構わず、ぐいぐいと女の頭を沈めていると、やがてがくりと渡し守の足の下で力が失せた。そのまま、ずるりと川底へ引きずり込まれてゆく。それを黙って見送った。もう、女の白い首も何も見えない。

 あとには、愉しげにさざめく花の筏がたゆとうばかり。

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