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籠の中の春  作者: 三樹
第二章 長虫
12/13

7

 這う這うの体で、裏通りの籠屋へ逃げ戻る。

 急き込みながら川端の濡れ縁に身体を押し上げると、ようやくほっと息吐くことができた。家路に着きながらも、気が気ではなかった。風の吹くまま気の向くまま流血に酔い痴れる行燈の、次なる動きなどわたしごときに読めるものではなく、その口約束は傾城の小指より誠のないのが常だったから。汗に湿った額髪をおざなりに掻きやる。

 だが、ここまで来ればひとまずは安心だ。水気を含みきって木目もぼやけ、へなへなと危なっかしい縁の板が、これほど心強かったことはない。ここから先は籠屋の根城だ。いくら行燈でも、容易に手出しはできない。

 つむじ風に煽られた紙屑のごとく、まろび込んできたわたしを、籠屋は店先から腰も上げず訝しそうに見返った。

「ようよう油売りから戻ったと思えば、落ち着きのない。何の騒ぎだ。ちっとは行儀よくできんのか、お前って奴は」

 開いたと思えば、太平楽に文句を垂れるくらいした役目がないのだろうか、この口は。こっちは生きた心地もしなかったというのに。

 怒りの余り言葉にならず、手近に積まれた小籠の一つでも投げつけてやろうかと目を走らせたが、なぜか発作のように身体の奥から咳き上げてきたのは笑いだった。五体無事のまま巣穴に辿り着けた安堵と、勝手をほざく籠屋への苛立ちがないまざって、奇妙な具合に面白可笑しくなってしまったのである。

 物も言わずにずるずると笑い続けるわたしに、籠屋はさも気味悪げに顔を顰めた。

「行燈にとっ捕まってたのさ」

 ほっとしたら今さらのように膝が笑い出し、とても立ってはおられず、そげのけばだった柱にすがりながら、くぐったばかりの破れ簾のそばでぺたりと尻をつく。笑いすぎてうっすら眦に滲んだ涙を拭いながら、わたしはやっとこさ事の次第を教えてやることができた。

「ああ、死ぬかと思った」

「そりゃあ災難だったな」

 驚きもおののきもしない。籠屋は、滅多に感情の起き伏しを面に出さない。だが今は、平然としながらちらりと鼻先で嗤ったようだ。まったくもって情け深い限りである。

「その割りには、まだ首の皮が繋がってるように見えるが」

「わたしの代わりに、よその首が刎ねられた。これは文字通り」

「あの尼っ子はまったく、やることなすこと……」

 半ば独り言ちながら苛立たしげに毒づいている。よりにもよってあの御大を阿魔呼ばわりできるのも、籠屋くらいなものであろう。気を張り詰めずともよくなったとなるや、力が抜ける。もう座っているのも大儀で、ほとんど横たわるようにぐんなりと体勢を崩しながら、わたしは片膝を立てた籠屋の背中を斜めに見上げた。わたしの様子のおかしさが解けると、もうこちらを見向きもしない。まあ、いつものことだ。

 洗い張りの糊も剥がれて久しいような草臥れた着流しに、櫛を省くためだけのような適当なざんぎりでも、どこか端然として見えるから不思議で仕方がない。その近寄り難さのようなものは、ぼんやりと煙管で莨をふかしていても、だらしなく酒盃を舐めていても、一向に崩れる気配がないものだから、なおさら首をかしげたくなる。

 面白味に欠けた堅苦しい性格というものは、黙っていようと気抜けていようと滲み出てしまうものなのだろうか。それとも、年季の違いというものなのであろうか。あの無茶苦茶な行燈にさえ、一目置かせるほどの。裏通りに籠屋ありと言わせるほどの。

 ひよっこのわたしなど及びもつかない古強者だとは聞き及んでいる。幸か不幸か、その名に違わぬところ、聞きしに勝るところをわたしは見たことがないが。籠屋が実力を証しだてるとすれば、行燈か、同格の大妖と真っ向から相争うときにほかなるまいが、今のところそんな物騒な兆しはない。

 少なくとも、わたしが籠屋と知り合ってからは。いつの頃からか籠屋の子飼いにされて、店に居候するようになってからは。

 今宵も籠屋は、安穏と店に腰を据え、悠長に手元を材料と道具で占め、せっせと籠編みに精を出している。傍目からは、食いつめた浪人者が内職に励んでいるようにしか見えない。正直言って、年功を積んだ恐るべき古株の妖怪変化には見えない。

 店の籠は、時折りよそから仕入れてくることもあるが、大概は籠屋がこうして手ずから編んでいる。気が向けば編んでいる。客のないときは、たいてい一式を広げて編んでいる。裏通りの景気はどこも似たようなものだが、客など滅多に来るものではないので、下手をすると四六時中編み続けている。

 空籠ならば、すでに店じゅうに溺れるほど溢れ返っているのだから、これ以上増やすこともあるまいに。棚という棚を隙間なく埋め尽くし、根太のそこかしこで賽の河原よろしく積み上げられて足の踏み場もなく、天井から釣り下がる宙ぶらりんがぎっしりと頭上に垂れ込めている。狭苦しいことこの上ない。しかし籠屋は、さなきだに手狭なねぐらをさらに手狭にすることに余念がない。情も熱もない籠屋の、ただ一つ情をこめて熱を入れることだから、止めても聞かない。かくして、籠は籠屋に溢れ返ることと相成る。

 もっとも、わたしも強いて止めさせようとは思わない――そもそもわたしの物言いが籠屋に通るものかは、ということはさて置いても。締まりなくばらけた麦藁やら、野放図に散らばった竹ひごやらが、あれよあれよと言う間にかっちりと折り目正しい一個の籠として組み上がるのを見るのは、案外に面白くて飽くことがない。

 籠をこしらえるのに熱中している籠屋を眺めるのが、わたしは嫌いではない。作業に集中していれば口うるさくわたしにけちをつける暇がないという不純な腹もあるけれど、それを差し引いても籠屋の手さばきは見事なものだ。心ない作り手に似ず、仕上がりも申し分なく、細やかでさえある。真似て、わたしも手を出してみたことがあるが、材料を無駄にしたとしか言えない麗しい出来栄えであった。案の定、籠屋にしこたま馬鹿にされてからというもの、一度も触っていない。

 竹ひごを炙って丹念に湾曲させている指が、散らばった藁屑や葦束の上に淡い影を踊らせている。骨組みを固定するために巻き付けた葛の端が、だらりと余って垂れ下がる。次は、あれの長さを加減するのだろう。これまで幾度となく見入ってきたものだ、手出しは無用でも手順くらいならば手に取るように心得ている、と古畳に片頬をつけながら見るともなしに見ていた。と、どこぞへ雲隠れしたらしい握り鋏を探して身をよじった籠屋と、再び目が合った。

「なんだ、まだいたのか」

 言うに事欠いてご挨拶である。百薬堂の爪の垢でも煎じて飲ませたくなる。いるいないで思い出したが、そういえば、店にいたはずの九重がどこにも見当たらない。留守だろうか。床を上げたので、早速出歩くことにしたのか。

「そんなところで餅をのばすな。客が寄りつかん」

「わたしが大文字になろうが蜻蛉を切ろうが、はなから閑古鳥が鳴いてるだろうに」

 言い返しながら身を起こし、あくびまじりに両手を突き上げて伸びをする。袖口がずるりと二の腕をずり落ちる。

「それに、今夜は軒並み茶を挽いてるだろうよ。何せ、表通りがあの有様だもの。いわんや、裏通りに於いてをや」

「そういや、やけに静かだな」

 鋏を求めてあちこちをぞんざいにひっくり返しながら、心底どうでもよさそうに籠屋は呟く。基本、籠以外のことには興味がない。

「うるさい呼び込みも聞こえてこん。絃歌もない。何ぞあったのか」

「視てないのか?」

 少しばかり目を見開き、聞き返す。

 たとえ戸を立てきって店の奥に引き籠もっていようと、関わりなく籠屋は、町じゅうを隈なく見渡すことができる。町に大事があれば、すぐにそれと把握できるはずだ。眼窩に嵌まった双眸のほかに、もう一つの目がそなわっている。壁や障子など物の数にも入らないし、襖も屏風も役に立たない。事と次第によっては、骨を透かし肉を押し分けて、心腹の奥底までも難なく覗き視ることができる。便利なことだ。出不精と石仏のためにあるような異能である。

 目の粗い虫籠の一つを抓み上げて裏返しながら、籠屋はあきれ顔でこっちを見た。さすがにそんなところに鋏が転がり込んでいるわけはないだろうに。

「視て、なんになる?」

 基本的に、籠以外のことには興味を持たない。あきれたいのはこちらの方である。宝の持ち腐れとまで言うつもりはないが、まがりなりにも自分の棲み暮らす町に何か起きたと察しているなら、少しくらい手を止め、様子を視てもよくはなかろうか。減るもんではなし。

「行燈の大盤振る舞い、さ」

 お世辞にも話し甲斐のある聞き手とは言えまいし、一部始終を説明するのも面倒で、品書きを読み上げるにとどめる。

「そいで、首狩り太夫の練り歩き、百薬堂は大繁昌」

「最後のにはあやかりたいものだな。お前の言うことはいまいち要領を得んが。もっと筋の通った物言いはできんのか。だいたい閑文字つらねたようなのを読み過ぎなんだ、お前はよ。綺語ばかり覚えて、実ってものがない」

「余計なお世話」

 むっとして舌を出すわたしなどお構いなしに、籠屋はようやく油紙の下から探りあてた鋏で、ぱちぱちと余分な葛を切り揃えている。鼻を鳴らし、わたしもそっぽを向いて立ち上がった。

 籠屋の相手などして、ただでさえへたばっているところを余計に疲れてしまった。百薬堂で甘ったるい飴湯をよばれたきりで、駆けてきたものだから喉がからからである。

 土間に据えてある水甕を拝借しようと、泥のように重たい手足を鞭打って店を横切った。そうして、籠屋の脇をすり抜けようとしたとき、つんのめった。すんでのところで踏みとどまり、すっ転びはしないが、危うく勢い余ってもんどりうつところであった。

 そうまでして、こちらの行動のいちいちに目くじらを立てたいのか。うんざりしながら、くるぶしをしっかと掴んだ籠屋の片手を見下ろす。

「何さ、今度は」

「……往き還りの道中、妙なものに出くわさなかったか」

 籠屋は目をわたしのつま先に落としたまま、いやに低い声で問いかけてきた。

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