6
不覚をとったとしか言いようがあるまい。
水路を抜ける川風が妙な具合に逆巻いて、壊れた笛のように鳴いた。
襟足が脂汗でぬめるのを、押しとどめるすべがない。腹の底を、氷室のような悪寒が広がっていく。粟を喰った間抜けな悲鳴が、喉元のすぐそこまで膨れ上がっていた。そのときだ。
真っ白になりかかった脳裏を、それ見たことかと言いたげに邪魔臭そうな眼差しでこちらを見くだす、籠屋の顰めっ面がよぎった。舌打ちさえ聞こえてきそうだった。
わたしが迂闊なのは今に始まったことではないし、さんざん籠屋に釘を刺されてきたにも関わらずのていたらくは、申し開きのしようがない。だが、よりにもよってこんな辛気臭い面を思い浮かべながら餌食にされるのだけは、伏してご免こうむりたい。
しかし、あの苦虫を噛み潰したようなご面相を思い出してかえって冷静になった。切り抜けられるものも切り抜けられないほど、取り乱さずに済んだことに息を吐く。籠屋の仏頂面もたまには役に立つ。
少しでも不利な体勢は避けようと、折り曲げていた膝を伸ばし、川面の上にすっくと立ち上がった。水に散り敷かれた花びらの上で、足指の付け根にぐっと力を込め、踏ん張ると、足の下に音もなく波紋が広がった。
たとえ蛇に睨まれた蛙同然だったとして、怯えて縮こまるものより、全部の脚を突っ張って抵抗する蛙の方が、よほど丸呑みしにくかろう。心意気だけはそれだ。袖の内で腕にびっしりと立った鳥肌が悟られなければいい。堂々と胸を張って皮肉に笑ってみせる、虚勢を崩されなければいい。
「これはこれは。珍しいところで鉢合わせするもんだね、行燈」
「ほんにね。きっと、ねえやをお慕いするおあんの心が通じたのよ。これもひとえに、情け深い観音様のおはからいというもの」
身をくねらせて嬉しがる。どの口でその殊勝な台詞を吐くのか。羽虫を狙う女郎蜘蛛より執拗に、どんよりと待ちかまえていたのだろうに、ぬけぬけと歌う声ばかりは甘い。
「長いことお見限りで、嫌われたのかと不安でご飯も喉を通らなかったのよ。一人ぼっちのおあんがどれだけ寂しかったか、不人情なねえやには分からないでしょうねえ」
「人情、人情とは恐れ入った。人ではなかろ、わたしも、お前も」
「ねえやのいじわる、揚げ足なんかとって」
気を惹きたげに拗ねてそっぽを向いてみせる、仕草ばかりは抱きしめたくなるほどにいじらしい。
あどけなく尖らせた唇は、帯留めと同じ珊瑚のまろやかさ。切り禿のように額髪をふっさりと揃え、両の鬢のあたりは飾り紐で結わえ、鼻緒も鮮やかな草履を並べてちょこなんとたたずむ様は、古雅な市松人形のようだ。町で名立たる高級見世の内所に飾り置いても、遜色ないほどだろう。
しかしながら、場違いも場違い、灯りも乏しいこんな鄙びた場末の河岸に、染めも映りもけざやかな振袖がゆらめくのは、奇異を通り越して異様以外の何ものでもない。しかも、川水を吸って腐りかかった棒杙を止まり木に、かよわげな童女の、鈎爪をそなえた化鳥のように危なげもなく直立している様など。
さらに、何らかの目印に川床へ突き立てられたものなのか、棒杙は水際から十間もあろうかという掘割の真中、忽然と頭を突き出している塩梅なのである。大の男でも容易には飛び移れまいに、華奢な童女は足袋一つ濡らしていない。
「せっかくこうして行き逢ったのだもの、おあんと遊ぼうよ、ねえや」
狙い通りに獲物を絡め捕ることができてご満悦なのか、にんまりとして行燈はねだった。
「駆けくらをしましょうか、それとも毬つきをしましょうか。ねえやはどちらがいい? でも、駆けくらだったら、おあんはねえやのように水の上を走れないから、勝負にならないかしらん」
これはいかなる謎掛けなのだろうか。怪しみながら、わたしは小鳥のように小首をかしげる行燈を見据える。唇を舐め、言葉を探す。
「どんな腕比べをしようと、古狸のお前を相手どり、わたしに勝ち目があるわけがなかろうよ、行燈。するだけ骨折り損ってものさ、お互いに」
何とかしてこの場をやり過ごそうとするわたしの試みに、行燈は底の知れぬ流し目を呉れた。胡粉を塗ったような白面のなかで、吸い込まれそうなほどに黒く濡れ濡れとした眼差しだった。
「狸だなんて失礼だこと。それに、そんな分かりきったことを言うなんて、賢いねえやらしくありませんことよ。無粋な腕比べではなくって、お遊びなのよ。腕比べには、肩肘の張ったつまらない決まり事が付きものだけれど、遊びならば何でも許されるでしょう? 腕比べなんて、ひとたび勝ち負けが決まったら、そこでおしまいになってしまうじゃないの。血の雨が降るわけでも、阿鼻叫喚の地獄になるわけでもない。そんなの、ちっとも面白くないわ。何でもありの方が、おあんは愉しいわ」
まともな足場もない川中で対峙する娘二人――異形二匹の姿は、月をはじく川明かりに照らし出され、陸からもうかがい知れるはずである。
けれども、両岸に人通りはあるが、どれも落ち着きを失ったように脇目も振らず行き交うばかり、今宵は川のことなど眼中になさそうだ。指差して騒ぎ立てる浅葱裏の田舎者もなければ、妖異の出現にわざとらしい喚き声を上げる幇間もない。どうやら、暇をもてあました嫖客たちが、閉ざされた町の妙趣を肴に、だらしなく羽を伸ばす夜ではないらしい。
「ねえやと駆けくらをしたいな。のろまなおあんが溺れずに、川の上を駆けるにはどうしたらいいかしら」
無邪気な面持ちで行燈はつかのま思案する。
「そうだわ、いいこと思いついた。百薬堂の兄さんにお願いすればいいのよ」
桜貝のような爪の揃った小さな両手を、思わせぶりに胸の前ですりあわせる。うきうきと、わたしの下肢に目を落とす。
「ねえねえ、おあんにねえやのおみ足をちょうだい。ねえやの両脚をぶった切って、おあんの腿から下とそっくり挿げ替えるの。そうしたら、おあんも水の上で立てるようになるわ」
片頬に、わたしはこわばった笑みを浮かべる。
「それでお前は走れるようになるかもしれないが、脚をもがれたわたしと駆けくらはできなくなるな」
「あらいやだ、そうだわねえ」
心底がっかりしたように、行燈は肩を落とした。
「残念だけれど、駆けくらはまた今度ね。それじゃあ、今日は毬つきをしましょう。よく跳ねる毬が、そろそろ出来上がるはずなの」
気を取り直したように、目を暗く輝かせ、行燈は満面の笑みを浮かべる。
「売れっ妓の贔屓に岡惚れした妹女郎の首が、もうじき要らなくなるの。新しい首が胴に繋がったら、古い首はもう用済みだわよね? おあんたちが毬に使ったって、一向にかまわないでしょう。恋敵に、見世のまかないどころから出刃を持ち出すようなおはねの素っ首だもの、地面に突いたらさぞ元気良く飛び跳ねてくれるに違いないわ」
わたしは呑み込みの悪い方ではあるけれど、一と一を足す算術まで暗算できないほどの薄のろではない。髪を振り乱し、百薬堂に押し掛けてきた狂女。箍の外れたようにわなないている町。悦に入った様子の行燈の、言わんとする謎掛けの答えが読めて、ずきずきと痛んできたこめかみをさすらずにはいられなかった。
ほろほろと朽ち崩れるように狂い咲く桜花の下、林立する黒ずんだ幹の向こうで、ばたばたと人々の往来する様は、留め金の外れた回り灯籠のようだ。いつになく鬼気迫る様子で狂奔している陸地を指し、わたしはうめいた。
「もしや、あれらは皆、お前の仕業かよ」
「あらあら、人聞きの悪いこと言わないでちょうだいな、ねえや」
行燈は平然と肩をすくめてみせた。
「おあんは、屏風の陰で袖を噛んで、けなげに嗚咽をこらえている可哀想なお多福を慰めてあげただけ。灯芯に、油をたっぷり含ませてあげただけ」
「百薬堂のことを吹き込んだな」
「楼主連はいざ知らず、表通りの箱入りの遊女たちときたら、こちらの裏店のことにはとんと疎いのだもの。まがりなりにも地続きなのにねえ。だから、知恵をつけてあげたの」
この上なく可愛らしく、行燈はにっこりとする。
「とってもめざましい花魁道中だったわよね? きっと末代までの語り草になってよ。着の身着のまま綺羅の大裲襠もまとわず、首だけの姉女郎のほかにお供もないけれど、極楽への道行きのように幸せそうだったこと。あの子の花道を飾るにふさわしい。この話が客寄せになって引く手あまた、これから忙しくなるのでしょうね。もうおいそれと遊べなくなるなんて、残念だわ」
「あの娘」
わたしは腕組みして唸るように言った。
「仮に百薬堂の処置から生きのびたとしても、たぶんわたしの手で沈めることになるぞ。このままで済むまい。商いもままならないほど、ここまで町じゅうを引っ掻き回したんだ。よしんば金に目の眩んだ楼主が許しても、派手嫌いで通った当代の惣名主が黙っちゃいまい」
「それがどうしたの」
けろりとして、行燈の澄みきったつぶらな目が見返してきた。
「おあんはもう、あの子でたんと遊び終えたもの。もういらない。ねえやにあげるわ、おあんのお古」
行燈は、豪奢な綴れ錦の帯結びの前でくるくると手遊びをしながら、おっとりほほ笑んだ。
「千秋楽というのは、何とも言えず物悲しいものだわねえ。あの子と遊ぶのはとってもとっても愉しかったけれど、それももうおしまいになっちゃった。寂しくなるわ。また、新しいおあんのお友達を見つけなくっちゃね。ねえやが手を挙げてくれたら、おあんはこれまでで一等愉しくなると思うのだけれど……」
ぎくりとするわたしに、行燈はうふふと笑い声を洩らした。
「ねえやには、怖い怖い籠屋の兄さんが付いているものね。ねえやに言い寄るのに、あの手強い兄さんを相手どるのもそれはそれで愉しそうだけれど、そうするにはそれなりの下ごしらえが入用だわね。それまでは、物足りなくとも、おあんは手頃なお友達で我慢しておくことにするわ。ねえやもあの兄さんでこらえててね」
どうやら、今晩は無傷で見逃してくれる腹積もりらしい。ひそかに胸をなでおろした。
思えば、表通りや百薬堂を巻き込んでの傍迷惑なお祭り騒ぎを、こよなく満足のいく形で成し遂げたばかりの行燈なのだ。この上、小物のわたしを嬲ったところで蛇足というものだろう。
だから、満腹の猫が、前を横切った鼠を目こぼしするようなものだと思う。声を掛けてきたのも、百薬堂から出てきたわたしを見掛けての気まぐれだったようだと当たりをつける。いずれにせよ、素通りできるならそれに越したことはない。
無軌道な行燈の気が変わらないうちに、辞去の糸口をさぐって、わずかに脇の川浪に目をやる。ほんの暫時のことだ。そして再び行燈に視線を戻したとき、そこには裸の棒杙が突っ立っているだけだった。
ぞくりとした瞬間、真後ろからひたと背中に張り付くように、姿のない声が甘ったるく囁いた。振袖に淡く焚きしめられた麝香を嗅ぐ。
「また遊んでね、ねえや」