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籠の中の春  作者: 三樹
第二章 長虫
10/13

5

 いったい何の騒ぎであろうか。わたしと百薬堂は顔を見合わせた。

 その間にも、おとないを入れる声は止まない。頭に血がのぼりきっているらしく、癇走った声で、何を口走っているのかさだかにも聞きとれない。戸を叩くのも、ほとんど破れかぶれに、力任せに殴り続けられるものだから、表の遣り戸ばかりか店の屋台骨そのものがぎしぎしと軋みを上げている。垂木からはらはらと煤が降ってくる。

「開いてるよ、だからそう乱暴にしなさんな。敷居が傷んじまう」

 腰を浮かせながらの百薬堂の応対は、いかにも物馴れ、あしらいの手本のように落ち着き払っていた。

 呼びかけが聞き取れぬほど我を忘れてはいなかったのか、建て付けの悪い戸の隙間に指が掛かり、外から慌ただしく引き開けられた。店先から生ぬるい風が流れ込んでくる。相変わらず、もったりと酒粕の残り香をまとわせた外気と共に、人影が転がり込んできた。

「どちらさまで? ご用向きは?」

 ただならぬ客への不審をうかがわせることは微塵もなく、上がり框に進み出る百薬堂はいつも通りに気安げだった。わたしの居座った場所からは、脂っ気のない束髪を垂らした後ろ姿しか見えないけれども。それでも、非の打ちどころなくにこやかなのは目に見えるように明らかだ。いかなる難物を相手どろうと、百薬堂が嫌悪や敵意をあらわにするところを、わたしは見たことがない。

「あんたが、百薬堂?」

 事情は知れないが、脇目も振らずまっしぐらに、ここまで駆けてきたと見える。倒れ込むように前のめりに息を弾ませつつも、沓脱ぎから昂然とあごを突き出して百薬堂を仰いだのは、まだ産毛も抜けきらないような若い娘だった。

「いかにも。それでお嬢さん、あなたは……」

「それじゃ、『御典医』の百薬堂ってのは、あんたなのね?」

 一方的に詰問するような娘の念押しに、百薬堂ははたと口をつぐんだ。気を呑まれたように、ほんの束の間、黙す。表情はうかがい知れない。そうして、物静かな調子で続けた。

「私が、畏れ多くも惣名主様の奥御殿付き見習医だったのは、もう大昔のことさ、お嬢さん。師匠から破門されて久しい今は、落ちぶれたしがないもぐり薬師に過ぎない。信の置ける仁術が入用なら、悪いが――」

「そんなことはどうだっていいの」

 高飛車に娘は百薬堂を遮った。

 ようやく息がととのってきたのか、乾いた唾を飲み、胸を押さえて背筋を伸ばす。なりふり構わず飛び込んできた娘の、荒々しい躍動にしごき帯は半ばほどけかかり、元結のちぎれてざんばらに振り乱れた黒髪が凄まじい。

 片手は、戸に拳をはげしく叩きつけ続けたせいで、赤黒く血に染まっている。いや、手の甲を擦り剥いたくらいであれほどに出血するものだろうか――ともかくも、もう片方の手には、重たげな風呂敷包みをだらりとぶら提げていた。大ぶりな瓜でもくるんであるようで、布越しの輪郭はまるまると膨れている。

「構やしないわ。あんたが噂の百薬堂なら、それでいい」

 百薬堂はしなでも作るように小首をかしげたが、無駄口は叩かず娘を見守ることにしたようだ。

「噂は嘘じゃないでしょうね――看板に偽りはないんでしょうね、百薬堂。医術にのめり込むあまり、恐ろしい外法の技に手を染めたから、腰抜けの御典医たちがあんたをよってたかって追放したっていうのは。それほどに神がかった腕前だというのは」

 まくしたてて見上げる娘の白目は、物狂おしく血走っていた。

「あんたならば、たとい斬り飛ばされた指でも、元通りに縫いつけることができるというのは本当?」

「本当だよ。切断された傷口の具合にもよるがね」

 娘の出方を見極めようとするように、百薬堂は慎重に頷いた。

「繋ぎ直された指が、何の差し障りもなく、斬られる前と同じくらい自在に動かせるようになるというのは本当?」

「本当だよ」

「繋ぐのが、自分の指でなくても構わないというのは、本当?」

「本当だよ」

 興味深げに娘を見下ろしながら、百薬堂は三たび首肯した。

「斬り飛ばされた自分の指が残っているなら、それを縫合するのが無難ではあるけれどね。切断面には、多かれ少なかれ凹凸があるから、その方が接ぎやすいのは確かだ。でも、赤の他人の指であっても、できないというわけではないよ――よその杏林はいざ知らず、私ならばね」

 詰めた指を接いでもらいに、この娘は駆け込んできたのだろうか。けれども、見たところ娘の両手には欠けることなく五指が揃っている。

「あんたが繋ぐことができるのが、指に限らないというのは、本当?」

 何かを察したように、百薬堂が口辺に薄く笑いをたたえる気配があった。

「身体のどこかを、挿げ替えてほしいのかな、お嬢さん」

「そうよ」

 娘は初めて、明朗に百薬堂の問いに答えた。

「お金も、挿げ替えてほしいものも、もう持ってきたわ」

 得意げに、勝ち誇ったように、高々と風呂敷包みを掲げてみせる。仕留めた獲物を見せびらかす犬のように。

 その拍子に、ぼたり、と布地の底からしみ出てきた粘液が垂れ落ちた。続けざまに、二滴、三滴。堰を切ったように次々としたたって、百薬堂の店先、娘の足下に濁った水溜まりの円を広げる。目を凝らせば、同じ粘液を、髪と言わず手足と言わず、娘は全身に浴びている。べったりと汚れて張り付いた袂から、にゅうと白い腕を伸ばし、肩の高さにまで持ちあげてみせる中身の見えない包み。その真横に並んだ娘の首。ぐっしょりと濡れた布越しに浮かび上がる形。生ぬるい風がのろのろと運ぶ悪臭。

「あのお方はね、この女の、眼差しが美しいとおっしゃったの。あたしよりも、美しい目。雨のように涼やかな目を、いつまでもとこしえまでも見つめていたいとおっしゃるの。盗み聞いたの。あたしはいつもそう。人知れぬ物陰から、むなしくこの身を焦がすばかり。この唇をお吸いになるのよ。この耳に睦言を囁かれるの。寵愛されているのは、この顔。憎い憎い憎い、この顔。ならば、あたしは――あたしがあの方と見つめあい、唇を吸い、睦びあうには、この女の顔になるしかないの」

 へし潰さんばかりに風呂敷包みを胸に抱きしめ、娘はうっとりと言う。満願成就の法悦にひたるかのように。

「押っ死ぬかもしれないよ、お嬢さん」

 百薬堂は、笑っていた。嫌悪も、敵意もなく。ただ目を細め、うっすらとほほ笑んでいる。いとも愉しそうに百薬堂は言った。猫が満足げに喉を鳴らすのに似ていた。

「あいにくと私は藪医、あなたの命までは保証できない。あなたの胴に、その首を接ぎ木して、骨と骨とを噛み合わせ、肉と肉とを縫い合わせても、無事に息を吹き返せるとは限らない。よしんば挿げ替えがうまくいっても、継ぎ目から腐ってじわじわとお陀仏になるかもしれない。どうするね?」

「やってちょうだい。あたしは、いいの。あのお方のためならば、惜しくない。あたしは――」

 娘は即答した。黒目がちな娘の双眸はもはや、この世ならぬものを見ている。

「――死んでも、いいの」

 わたしの出る幕はなさそうである。娘はわたしなどはなから眼中にない様子だし、百薬堂は魅入られたように立ち尽くし、こちらを一顧だにしない。

 欲のないように見えて、枯淡の境地に達しているように見せて、その実、百薬堂はつける薬のないくらい女が好きなのだろう。心底たまらなくなるのだろう――取り分け、風雨に晒され、虫に喰い荒らされ、ぐずぐずに熟れ爛れた桃が、かろうじて枝先に取りすがっているような具合の女を見ると。望みの通りに桃をもぎ取って、心ゆくまでねぶって、そして興が冷めるのも、早いようだが。

 手持ち無沙汰にもてあそぶ、杯はもう空だ。引き上げる潮なのだろう。百薬堂は、先ほど研いだばかりの小刀をひっそりと取り出している。川に面した蔀戸に手を掛けながら、その暗く高揚した背中に声を掛ける。

「わたしはおいとまさせてもらうよ、百薬堂」

 まだわたしが居残っていたことにはじめて思い至ったように、百薬堂ははたと振り返った。

「たいしたお構いもできなかったね、花」

 新しい玩具を投げ与えられた童子のような、無邪気な笑みを浮かべていた。

「籠屋によろしく伝えておくれね」




 表通りの、陸地は何やら騒然としているようだ。

 満開の桜がひしめく岸辺を、妓夫たちが見世の紋の浮いた提灯をさげて駆けずり回り、ほうぼうで野太い声を張り上げ、上を下への大騒ぎになっているのが遠目にも分かる。蜂の巣をつついたような騒ぎの大仰さはいつにないことではあるけれども、ことさら驚くようなことでもない。流血沙汰やら刃傷沙汰やらはこの界隈ではありふれているし、町の帯びる春気に取りのぼせた人間が取り返しのつかない椿事を引き起こすのは、日常茶飯事だ。

 それに比べれば、水辺は常に静謐である。朝な夕なに陸から吐き出されるおびただしい汚穢を呑んでも、滔々として乱れることがない。

 音もなく落花を散らす掘割をつたって家路を急ぎながら、後に残してきた百薬堂のことを考える。その痩せた指のなかで、自ら光を放つかのように鈍く照り輝いていた小刀の刃のことを考える。此岸から彼岸に流れ寄ってしまいつつある者のことを、考える。

 その身の暗がりにきざした異能を飼い育て、人であることを止めていく。人と、人ならぬ者の境は、奈辺にあるのだろうか。何の変哲もない衆生であった者が、化生となりはてるのは、いつからだ。そのような、埒のないことに気がとまるのは、わたしが半端者だからだろうか。わたしが、生まれながらの妖異だからなのだろうか。人から、人ならぬ者へと移り変わったときの物事を憶えていないからだろうか。

 物思いにふけっていると、すっと足下に細い一線が引かれたような気がして、思わず水面の花の上に立ち止まった。まただ。来しなに目にしたように、やはり暗い水底にまぎれ、わたしの後を尾けてくるものがある。目の錯覚などではなかった。

 今度こそ正体を暴いてやろうと、裾が濡れるのも構わず、その場にしゃがみ込む。

 思えばこのとき、水中ばかりにためつすがめつ目を凝らすのに気を取られ、周囲への警戒が薄れてしまった。油断したのだ。

 ふと手元に、自分以外の影がさしたような気がして目をあげた瞬間、眼前に揺れていたのは愛くるしい緋の振袖。銀の鈴を転がすような笑い声。

「おあんと遊んでよ、ねえや」

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