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籠の中の春  作者: 三樹
第一章 花の筏
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 桃源郷になぞらえて、風流人には詠まれる。

 嘘っぱちだ、と籠屋などは笑う。歌集から破りとった薄紙の一頁を、おざなりに丸めて竈の燃え種にしながら、滅多にないことだが、腹を抱えて嗤う。桃源郷? この町が? この町は嘘っぱちだ。

 籠屋というのは屋号である。本名は知らない。必要がない。

 籠屋、と呼べば事足りる。

 この町の生まれではないらしい。さして珍しいことでもない。元来、人の出入りは激しい。いずこからともなくふらりと流れ着いては、またあてどもなく流れ去って戻らない。それが習いだ。

 だが、籠屋は流れ着いたまま、長いこと居座っている。

 家移りの気配もない。掃き溜めのごとき裏通りに根を下ろして久しい。あれこれがみがみと難癖をつけながら、案外棲みよいのではないかと思う。口に出しては言わない。言えたものではない。機嫌を損ねては、籠に押し込められて喰われる。

 わたしと籠屋とでは、とてもではないが年季が違う。わたしがおぼつかない産声を上げるずっと昔から、籠屋はれっきとした籠屋であった。敵いようがない。

 いったい籠屋がどこから流れてきたのか、知る者はいない。わたしも聞いたことがない。

 だが、外からやってきたことだけは確かだ。たわむれに酌の相手をさせられるとき、ほのかに酔いが回ってくると、籠屋は決まって饒舌になる。夏の短い夜をしきりに懐かしむ。鮮やかに染まる秋の夕暮れを語る。静寂に凍りついた冬の早朝に思いを馳せる。

 適当に相槌を打ちながら、わたしはそのどれも知らない。

 わたしはこの町の生まれである。この町から一歩も出たことはない。だから知らない。

 この町に、巡る四季はない。

 春眠にまどろんだまま、目覚めない。

 桜花は永劫に咲き続け、豪雪のようにとめどなく花弁を散らし続けるが、わたしが本物の雪を見たことのないように――絵巻や歌物語のなかに描かれた架空の風景としてなら、わたしもそれらしく心に思い浮かべることはできるが――この町も雪を知らない。暑気に耐えることも夜寒を忍ぶことも忘れ、生暖かな停滞にひたっている。あってはならないものがあり、なければならぬものがない。この町は嘘っぱちだ。籠屋の口癖。

 桃源郷になぞらえ、この奇態な町は謳われる。

 まるで蜘蛛の巣のように町中を網羅する運河と、町の内と外とを隔てる深い堀は、いつもお歯黒でもぶちまけたように濁っている。どんよりとした風に煽られて、水面に舞い落ちてきた無数の花びらが、白妙の端切れのように岸辺に漂う。匂やかな花の下には奈落がある。

 ほかの渡し守たちが商売道具にしているような舟も構えず棹もささず、ただ素足で花の上に浮かんで川を往来するわたしに、名はない。名付けてやろうと世話焼く者もなかった。わたしも、自ら名付けられるほど学を持たぬ。

 だが、通称でもなければ不便だというので、いつしかこう呼ばれるようになり、別段厭いもしないから、わたしもそのように名乗った。

 花筏、と。

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