従者と乳母
その頃の保護者組。
姫が隠れ住む森に程近い草原に、馬車が一台、男が一人……そして妖精が一匹。
「従者殿、お茶が入りましたよ」
「これは乳母殿、かたじけない」
自分達は手を出さないと決めて待機中の、ハインリヒと妖精乳母です。
どちらにしても今のハインリヒは、鉄の箍で肘から上を胴体に括り付けられている状態なので、普段通りに動くことは出来ません。手綱もいつものように捌けないので、城で一番御しやすい馬を特わざわざ借りて来たほどです。
王子も両手を使ってぶん投げましたし。あ、池に落ちたのは偶然です。
今も仄かな光を纏ってふよふよ飛んで来たティーカップを、ハインリヒは両手で包み込むように受けとります。首を縮めてカップに口を近付けるさまは、見るからに不自由そうで。
「……やはり厄介ですね、これは」
「もう少しの辛抱ですわ。きっと王子が姫の心を解きほぐして、呪いも解いて下さります」
「あの見た目でですか……」
世間一般の女性に訊けば、蛙が苦手だと言う答えの方が多いでしょう。それを思って、ハインリヒは僅かに眉を寄せました。
ですが姫のことは、ハインリヒよりも妖精乳母の方がよく知っています。
「姫様は物心付いた時からこの森で暮らしていますもの。幼い頃は城の者が世話係として就いていましたが、皆長続きしませんでしたわ。姫様が一人で暮らしていた時間の方が長いくらいです」
国家的育児放棄ですね。
「わたくしもこのように小さな体ですし、魔法も万能ではありませんから……。
それに姫様ご自身が、他の者に任せることをよしとしませんの。わたくしもお食事の準備や身支度を整えて差し上げることは出来ますけれど、姫様はそれすらご自分でなさろうとするのですわ。つい先頃も一人で森の奥に入り込んで、熊を一頭仕留めてお帰りになりました」
「……え?」
今、何と申されたか。
ぎょっとして固まるハインリヒに、妖精は困ったような溜息で返します。
「いくら日々の糧を得るためとは言え、仮にも一国の姫君がそのような血腥い真似をせずともよろしいのに……」
「いえ、『血腥い』以前に危険では? たった一人で熊を仕留めるなんて、わたしだってなかなか骨が折れる作業ですよ? それをあのように華奢な姫君が……」
「うちの姫様は自活能力に優れていますもの」
殺傷能力の間違いでは。
「ですから蛙の一匹や二匹、どうってことありませんわ」
「それが事実なら、むしろうちの王子が今晩の食卓に上がりそうで、すごく嫌なのですが」
「それは心配ないと思いますわ。姫様も言葉が通じる相手は食べようとしませんもの」
「……そうですか……王子が『けろけろ』とか言い出さなくて何よりです……」
ハインリヒの声から少しばかり力が抜けているのは、きっと気のせいではないのでしょう。
ところで。
あの姫が噂通りの魔女姫ではないにしても、王族としては規格外の野生児であることは確かなようです。
となると、ハインリヒ――に限らず、王子に仕える身としては、不安要素が一つ。
「不躾な質問ですが……姫君はどれほどの教育を受けられたのですか? 今の王子はあの方に大変ご執心ですが、それだけでは……」
ただでさえアホな王子に、何も考えていない妃が来ては困ります。いえ、王子もまったくの暗君と言うわけでもないのですが、ハインリヒや父王、大臣達から見ると、心許ないのは確か。
舞踏会で姫が見せた立居振舞いは淑女として合格点でしたが、王妃となればそれ以上のものが求められます。
「そうですわね……城も姫様に限っては政略結婚に使うつもりはないようですから……。
でなければこんな所に閉じ込めて、放置もしませんわ。舞踏会の招待状だって、姫様の分だけ握り潰そうとしていましたもの。わたくしが見つけたからこそ、あの夜があるのですわ。
姫様は社交的な場が苦手なんですけどね」
にも拘らず妖精が姫を引っ張り出したのは、“王女として生まれた以上生じるはずの権利”を与えたいがための親心……あるいは「うちの姫様が一番可愛い」主張ゆえ。
「一度でいいから、あのようなきらびやかな世界を体験させてあげたかったんですの」
見た目ほど綺麗な世界でないことは、空気を読んで黙っているハインリヒです。
「そしてあわよくば、素晴らしい殿方に姫様を……と、思っていたのですが。
予想以上の大物が釣れましたわ‼」
「だとしても、堂々と言うことですか」
将来有望な青年達を狙う女性達(およびその保護者)の水面下での戦いは、王子に害がない限り見て見ぬふりをしているハインリヒです。
まあ、ハインリヒ目線ではアホの子な王子ですが、美貌の王位継承者はそれだけ女性達に狙われているわけで。
それ抜きにしても、王妃となる女性には様々なものが求められます――話が戻ります。
政略結婚無関係の姫は、王妃教育を受けていません。彼女の将来に思いを馳せ、妖精は眉を寄せて首を傾げます。
「姫様は飲み込みが早いですけれど、それでも今から頑張って間に合うかしら?」
「まあそれ以前に、王子の呪いも解けなければ……」
ハインリヒも王子の未来に思いを馳せ、溜息を。
王子の価値があの美貌しかないとしても、せめて人の姿であれば、まだよかったのです。ですが今の王子は蛙の姿、余程の賢君でもない限り、廃嫡の危機。
「もう少しの辛抱ですわ。きっと王子が姫の心を解きほぐして、呪いも解いて下さります」
「……あの見た目でですか……」
ハインリヒ、本日何度目かの溜息。
その吐息がやむと、ほぼ同時。
ハインリヒの――彼の体を締め付ける鉄の箍が、光を放ちました。
訝る間もなく、鉄の箍はその光の中に溶けるように――いえ、それ自体が光の粒子となって、ハインリヒから離れて行きます。
「まあ! 呪いが解けましたのね!」
妖精が喜色を浮かべる一方、ハインリヒは久々の自由に戸惑いますが。
その間に鉄の箍だった光の粒子は一か所に集まり、そして最後にひときわ強く輝いて消えました。
光が消えたそこに現れたのは、ガラスの靴――
「……これは……?」
「ですから、呪いが解けましたのよ! 今頃は姫様達も……ふふふ、今駆け付けたら、お邪魔かしら?」
「いや、呪いが解けたのはいいのですが……え? で、でも、どうやって……?」
非常時でも沈着さを崩さない従者として知られるハインリヒですが、今の彼は珍しく混乱中のようです。
すごく楽しそうにしていた要請は、そんな彼に不審顔。
「まあ、従者殿。あなたが自由を取り戻した以上、同時に王子も元の姿に戻ったと言うことですのよ。嬉しくありませんの?」
「ですから、呪いが解けたこと自体は構わないんですが……。
だとしても、何故?」
「それは勿論、王子が頑張ったからですわ」
「いえ、そうではなく!」
話が進みませんね。
「乳母殿……わたしの記憶が確かなら、呪いを解く方法は『王子が姫君からの口付けを受ける』こと、ただ一つだったはずですよね」
「ええ。あの忌々しい魔法使いが組んだ呪いには、古来より伝わる愛の力で対抗するしかありませんでしたから」
妖精は何でもないことのように頷きます。
ですが、それすなわち、
「いくら姫君が蛙を苦手としないにしても、口付けはかなりハードルが高いと思うのですが」
実は解呪法を聞いた時も、同じことを言ったハインリヒです。更に「わたしは無理ですよ!」と顔を引き攣らせもしたハインリヒです。
だと言うのに、この妖精と来たら。
「ですから、愛の力ですわ!」
「無理がありませんか?
で、でも、このガラスの靴もちゃんと元に戻ってますし……呪いが解けたこと自体は、確かなんでしょうけど……」
ハインリヒ、混乱中。
「……え……えぇ~っ……い、一体何があったんです、姫君……いくら何でも、蛙に……。
……………………………………………………………………………………
っ、まさか! 王子の見た目が蛙だったから、そのまま食べようとして⁉」
「姫様は蛙の踊り食いなんてしませんわ!」
ハインリヒ、混乱中。
その混乱を止めたのは、突然響いた女性の悲鳴。
ハインリヒは安定が崩れると派手に転がるタイプです。
次話投稿に際し、最後に一行付け加えました。