魔法使いと妖精の名付け親(フェアリー・ゴッドマザー)
環境依存文字のせいで書き直す羽目になったのは秘密です。
夜の静寂に悲鳴が響きます――
「ひっ……ひ、ひいいっ! っな、な、何なんだよ、お前ーっ‼」
声の主は、黒いローブに身を包んだ不審者――美貌の王子を蛙に変えた、魔法使い。
空中を飛んで逃げ惑うその足元から、黒い影が迫ります。
ハインリヒです。
勿論、ハインリヒは空を飛べません。ですがその跳躍は、本当に重力の制約を受けているのかと疑いたくなるような……まあ、常人にはあり得ない高さと滞空時間です。
一方の魔法使いもすぐ足元まで迫られるたびに危機感を覚えて高度を上げるのですが、ハインリヒもそのたびに高く跳び、あるいは庭園の木々を足掛かりにして、なおも魔法使いに迫ります。
ですが魔法使いを怯えさせるのは、人間離れした身体能力だけではない様子。
「何だよ……何なんだよ、あいつ……た、ただの人間の癖に、あんなやばい気配……いや、本当にただの人間か?」
鬼気迫る無表情でひたすら追い掛けるハインリヒの執念は、魔法使いをも圧倒しているようです。
そしてとうとう、魔法使いの精神が限界に達しました。
「いい加減……しつこいんだよ、この化物‼」
ただの人間を化物呼ばわりしながら、魔法使いは相手に向かって手を振りかぶりました。先程ハインリヒに投げ付けられてそのままずっと持っていたガラスの靴を、今度は彼目掛けて投げ返します。
ですがそこは魔法使い、と言うべきでしょうか。その手を離れた一瞬後、ガラスの靴は黒い鞭のような姿に変じてハインリヒに襲い掛かったのです。
いきなりの出来事に、ハインリヒも固まりました。加えて今は空中です、咄嗟に避けることもままなりません。ガラスの靴改め鞭っぽい何かは、たちまちのうちにハインリヒの体に絡み付いて動きを封じてしまいました。
両腕諸共ハインリヒの胴体を縛り上げた鞭っぽい何かは、かと思えば、今度は鉄の箍に姿を変えてさらにきつく彼を締め上げます。
人間離れした身体能力を誇るハインリヒと言えど、こうなると最早なす術もなく落下して行くだけ。
そんな彼を見下ろして、魔法使いはさも楽しそうに笑うのです。
「くっ……ははっ、ははははは! 人間ごときが俺に楯突くせいだ! ざまあ見やがれ!」
夜の静寂に哄笑が響きます――
そしてハインリヒは、ただひたすらに落ちて行きます。
鉄の箍は体にがっちりと食い込んでいて、到底抜け出せそうにありません。肘から先、そして腰から下は自由に動かせますが、如何せん両腕を封じられては空中で態勢を整えるのも難しくて。
それでもハインリヒは何とか受け身を取ろうと、可能な限り体を捻り――
「あらあらあら、まあまあまあ。これは一体、どう言うこと?」
おっとりとした女性の声が驚きを現したかと思えば、ハインリヒの体は空中でぴたりと止まったのです。
続いてハインリヒの体は、訝る当人の意思を無視して再び落下を始めました。ただし非常にゆっくりとした速度で、このまま地面に落ちても怪我などなくて済みそうです。その緩やかさは、ハインリヒであれば冷静に体勢を立て直して、足からそっと着地出来たほど。
地面に叩き付けられることは免れましたが、これは一体どうしたことなのでしょう。
何度か瞬きを繰り返した漆黒の瞳は、ですが程なく妙な存在を捉えました。
軽やかに飛んで来た、光の玉――それはハインリヒの目の前で止まった、のですが。
よくよく見れば光の中、小さな人影が見えるではありませんか。しかもその人影は、三対の羽を背負っているではありませんか。
「……あなたが助けてくれたのですか? 小さなご婦人」
いくらか民俗学を齧っているハインリヒは、妖精を妖精呼ばわりする愚行を避けました。
するとその妖精(便宜上)はくすくすと笑い、
「わたくしはただの乳母ですわ」
つまり妖精の名付け親とか言うやつのようです。
ですが言われてみれば、そのおっとりとした中年女性の外観は育児能力、延いては家事全般へのスキルが高そうです。顔立ちや体形だけを見れば姉妹や従姉妹にクレアおばさんやステラおばさんがいそうですが、ゆったりと体を覆う白いローブや薄い羽根のせいでしょうか、その辺のおばさんよりは魔法使いのおばさんのイメージ。手にした杖を振って「びびでばびでぶー♪」とか歌いそうです。
そんな妖精乳母は、ハインリヒを縛める鉄の箍を見て首を傾げました。
「それで……これは一体、何事ですの? その鉄の塊、わたくしが姫様に贈ったガラスの靴ですわよね? どうしてこんな姿に……?」
――と言うことは。
色々と問い質したくなったハインリヒでしたが、まずは相手の疑問に答えることにしました。
「……どう説明したものでしょうね。
確かにこれは元々ガラスの靴だったようです。ですがそれを履いていた姫君が――」
話を聞いて、妖精はキレました。
「っ……あ、あの忌まわしい魔法使いが……!」
「……ををう」
体に見合った小さな光の玉は、彼女の怒りを表すようにスパークします。下手に触れれば軽い火傷では済まなさそうで、ハインリヒも軽く気圧されて。
昏い表情で俯く妖精は、ですが気持ちを落ち着けるように小さく溜息を零しました。
「あれが飛んで行くのは見ましたのよ。関わって碌なことにならない相手ですから、無視しましたの。
……それなのに……よりにもよって、姫様の靴を持つ殿方に、害をなしていただなんて……!」
また光の玉がぱりぱりと火花を散らしました、が。
「王子殿下も被害に遭われましたのよね?」
「ええ。わたしよりも重症です」
何せ蛙にされましたからね。
一方のハインリヒは――鉄の箍でがっちりと体を締め付けられていますが、まあ、それだけと言えばそれだけです。両腕が自由に使えないので、日常生活にいくらかの支障はありますが……王子の世話くらいは問題ないでしょう。この従者の基準では、王子の世話が出来るレベルなら問題なし、です。
ところで。
「乳母殿は魔道の心得があるご様子。もし差し支えなければ、我が主の呪いを解いては戴けませんか?」
途端、スパークしていた光の玉は、目に見えてしょんぼりと萎みました。
「……わたくしだって、出来ることなら今すぐにでも解いて差し上げたいですわよ……かの王子殿下と言えば、近隣諸国では知らぬ者のいないほどの美貌ですからね」
つまりその美貌を失った王子に、存在価値は――
口に出すのはさすがに控えたハインリヒです。
「それを抜きにしても、あの魔法使いに苦しめられている人を、見殺しになんて出来ませんわ。
ですが悔しいことに、わたくしの魔術では、あの男には到底敵いませんの……すぐに呪いを解くのは、さすがに無理ですわ」
「……時間をかければ可能なのですか?」
妖精は「『すぐに』解くのは無理」と言いました。その辺り聞き逃さないハインリヒです。
溜息混じりに項垂れた妖精ですが、ハインリヒに問い返されて、おずおずと首肯しました。
「ええ……恐らく、ですが。
まずその鉄の箍は、元々わたくしの作ったガラスの靴。そして従者殿、その箍を嵌められたあなたは、王子殿下にとって唯一無二の存在」
「えーあの面倒な王子の唯一なんてやだー」
さらりと黒い本音を吐く従者。
無表情で放たれた棘のせいでしょうか、妖精は一瞬固まりましたが……まあ、聞かなかったことにしたようです。
「その繋がりを利用すれば、呪いを解くことも可能でしょう。
ですから従者殿、まずは殿下とご一緒に姫様の所までお出で下さいまし。わたくしはその間に準備を整えておきますわ」
「お力添え、感謝いたします」
鉄の箍に嵌められた不自由な状態でしたが、ハインリヒは妖精乳母へ丁寧に一礼。
妖精は力強い頷きでそれに応じると、「では早速!」と夜空の彼方へ飛び立って行きました。
尤もその姫君がどこの誰かを知らないハインリヒが呼び止めたため、光の玉は数秒もしないうちに舞い戻ることになりましたが。
次回からは王子が頑張る予定……