人形たちの哀れな微笑み
これは僕が大学生の時に執筆した小説であり、シリーズ最初の作品です。悲劇を描いているつもりでしたが、プロはホラーを感じるらしく怖いようです。
1.哀れな天使
彼らは夢を見ていた。外の世界で沢山の笑顔と出会うことを。豊かで純粋な心に触れることを。悲しみのない世界を垣間見ることを。心の翼で自由を泳ぐことを。優しさと思いやりで胸をいっぱいにして多くの人を笑わせることを・・・。
それらが叶うと信じて、この蜘蛛の巣が張りめぐった埃だらけのちっぽけな空間から抜け出すことを夢見ていた。
彼等はいつからか魔法を手に入れた。小さな胸にいっぱいの心を持って可哀想な人々に夢を注ぐ力を抱えていた。それは奇跡だったのかもしれない。
彼等にとって高すぎる場所にある開き窓には鎧戸が閉められている。そこから漏れる僅かな輝きは再びこの幽閉された場所から彼等が開放されることを暗示していた。否、もう彼等は外の世界へ放たれることを認められているのかもしれない。すでに約束された運命・・・なのかもしれない。
―――歪んだメビウスの輪の形をした運命が・・・。
そして、彼等は想った。信じることは時には奇蹟を起こすということを。例え、それが到底叶うことのないようなことであっても。
何故なら、彼等は命を持ったのだから。かりそめの体に小さなおぼろげなる魂を宿らせたのはいつの頃からだっただろうか。満月の夜、虹の架かった日、それとも彗星が接近した日だったろうか。・・・まぁ、そんなことは彼等にはどうでも良かった。
ゆっくりと封印されていたドアが開かれ、汚れた白い布をかぶった家具たちを越えてくる人影をガラスの瞳で眺めながら安堵の微笑みを浮かべた。
「例え、どんなに嫌な時だろうと困惑していようと時は流れていくんだ」
我神雫は突然そんなことを言い始めた。渋谷駅前で待ち合わせをしている時に友達で同級生、おまけに腐れ縁の槐修平が時間について語りを始めたのがきっかけだった。最近面白くないことがあったらしく我神はそんな言葉を言い放ち空を見上げている。その目はうつろで何か魂が別の世界へ行ってしまっているように見えた。
ここに30分はいるだろうか。2人は容姿が容姿だけに周りから浮いていてこんなところ(ハチ公前)に待たせる葵を恨んだ。やっと、センター通りからやってくる白銀のワンピースに大きな帽子の女性を見つけた時は安堵とともに早くこの場から去りたいと彼等は思った。場違いのファッションの3人はとりあえず適当な喫茶店の中に逃げ込んだ。
「で、言い訳は?」
槐が運ばれてきた水を一気に飲み干して葵に吐き捨てるように言った。彼女の方も慣れた様に澄ました顔で悪びれる様子もなく一口水を口に含みながら言う。
「例の男の子のことを探ってたんだけど、人形がなかなか見つからないのよ」
「奴らは賢い。そう簡単に尻尾は見せないさ。それより、今回の被害はどうどうなんだい、深刻そうだけど」
我神の言葉に葵は一瞬言葉を詰まらせて、やがてゆっくり確認するかのように話を始めた。
「記憶って、認識って人間が勝手に解釈しているだけかもしれないのよね」
その言葉を待っていたかのように哲学好きの我神が早速口を挟む。
「僕もよく夢の中の記憶と現実の記憶が混乱するときがあるし、夢の中で全然別の記憶で別の人格、別の境遇で・・・つまりまるっきり別の人間になってたこともある。記憶にない風景だって出てくることもあるし」
「だぁー、お前は少し黙っててくれ。訳わかんないこと言って。話が進まねぇ。で、葵も前置きはいいから要点だけを話してくれよ」
運ばれてきたアイスコーヒーにストローを差しながらいらいらしていた槐は2人を睨みつけた。葵は槐を一瞥して再び口を開く。
「要するにいじめが原因で自分の世界に閉じこもってしまったの。で、現実世界と空想の世界が入り混じってしまってこのままだとあの子、駄目になってしまうわよ」
「よくあることだけど本当に奴の仕業なの?人の心は弱いもの。特に最近は心を病んだ人達が増えているから目新しいこととは思えないんだけど。こういう人は理解されないことが多いからさらに悪化するんだ。あるちょっとしたことでも人によってはとても傷つくことだってあるんだ。例えそう見えなくてもね。改善するには理解してあげることが一番なんだけど、それも無理があるし、難しい問題だよ」
「我神。そんなことはどうでもいいんだ。要は強いられた悪夢からあいつを目覚めさせることが俺達の仕事だ」
喫茶店を後にしてこれからのことを話し合った。その結果、少年を取り巻く全ての原因たる彼等の仲間を見つけ出すことにした。
禍禍しい能力に対抗できるのは我神達しかいない。彼等はすでに運命付けられたシナリオを実践するしかないのだ。何故、彼等は悪夢に打ち勝つ(禍禍しい夢へと誘う能力に負けることのない)ことのできるかは本人達にしても定かではない。
それは現と幻夢の区別に極端に長けているということか、或いは極端に論理的かつ感性的な性質が原因しているのかもしれない。
因果律が全てを支配しているようにあらゆることは原因を持っている。少なくとも人はそう考えたくなる、否、そう考えなくては生きていけないのだ。虚無主義を信仰するほど我神達は強くないのも事実である。もう気づき始めているのだが感覚のみで確かな証は存在していない。例えどんな物事に対する理由であろうとも、それを証明することは人間の感覚次第である。葵を見ながらそんなことを考えていた。
人は理解、認識、感知、思考するためにはあらゆる事象、概念を都合のいいように加工してそれなりに吸収する。人の考える、感知することなんて所詮人間の考え出した妄想なのだ。定理、法則も然り、善悪、判断基準も然り、概念、常識も然り・・・。机上の空論が全てを型に当てはめているのだ。運命論も懐疑論も主観、客観ですら。そこに彼等の力は働きかける。人を夢の世界へと誘い現実と言う残酷な他人の作り上げた表面世界(社会)から心をガードする。彼等は彼等なりに弱者を救っているつもりなのだがそれは本当に助けになっているのか疑問である。我神達はその救世主を堕落へと突き落とす誤ったものと考えていた。気持ちはわかるが行為は明らかに誤りであると認識しているのだ。だから、それを阻止しようと今も行動を起こしているのだ。
まず、少年に一番警戒されないであろう我神が直接接することを考え付く。と言っても相手は人間嫌いの自閉症。そうそう易々と近づけるものではなかった。家庭教師。小学3年生には無用である。さりげなく近づき得意の虚無主義や厭世主義について語り共感を得ようか。話し掛ける時点が問題である。では、相手の心を開き相手に自分が味方と思わせる術はないだろうか。我神は1つの答えを思い浮かべた。
・・・彼の世界に入ろう。
しかし、それは明らかに不可能に見えた。現実世界の我神が空想の世界に、しかも他の人間のそれに侵入するなんてどう考えてもありえないことだ。
槐はそんな我神の胸中を察して重たい口を開いた。
「今回はガキの方を後回しにしてとりあえず奴を見つけよう」
しかし、と我神は思考する。確かに悪夢の力の根源である彼(或いは彼女)を見つけて少年から離すことによって彼の状態は少なからず現実世界へと戻りやすくなる。その際の心のケアが大切であるが前向きな傾向へ向かうことはできるだろう。だが、その当人は恐らく少年の部屋に潜んでいるだろう。むやみに少年が持ち歩くには無理がある。では、少年の部屋に入るにはどうしたらいいのだろうか。
「忍び込もう」
我神らしからぬ言葉に2人は刹那硬直した。しかし、確かに的を得ていてそれしか方法がない。槐は葵と顔を見合わせて互いに頷きあった。それがこの計画の口火となった。
大田区の某所、闇が辺りを包む閑静な住宅街で槐は我神とあの少年の家の垣根の前に来ていた。葵の情報で今夜は彼は両親と実家に帰っている。お盆休みであるのだから当然と言えば当然で当分帰ってこないと推測できる。近所の家では旅行においていかれたゴールデンレドリバーが遠くの救急車に合わせて遠吠えを歌っている。まぁ、我神達には物音を隠してくれる絶好のBGMになってくれているので耳障りには感じることはなかった。
Tシャツから伸びた腕に群がる蚊を追い払いながら閉じている門をよじ登り敷地内に侵入する。庭で肩を寄せて狭い空間にひしめき合う植木を横目で見ながら我神は玄関ポーチの前まで来て途方に暮れた。玄関の鍵は当然開いているはずがない。かといって強引に鍵を開ける術を知っている訳でもなく建物の周りをただ呆然と見渡すしかなかった。
「何やってるんだ。さっさと行くぞ」
気づくと槐は庭の奥のほうに周りリビングの窓を器用に開け放っていた。流石に唖然と槐に視線をやっていると槐は我神の視線の意図を把握し悪戯っ子のようにニッと歯を見せた。どうやってガラスを割らずに掃き出し窓を開けたのかというと、軽くかかっていたクレセントに微妙に振動を加え続けたのだ。叩く物音はできるだけ小さくしたが蝉の鳴き声がカモフラージュしてくれたので辺りでそれに気づく者は誰一人いなかった。
靴を脱いで慎重に中に侵入していく。2人とも息苦しいほど周囲にピンと気を張り巡らせて目標を探った。大体子供部屋は2階にあるものだから階段を見つけると直ぐに上がっていった。薄暗い中で階段の軋む音だけが響き鼓動と共鳴している。緊張感のせいか手に汗をひどくかいている自分に我神は気づいた。息を呑み足を進めていく。一段踏むたびに軋む足音に苛立ちながらペンライトという頼りない視界に浮かぶ幻想に目を凝らした。
ごとっ。
奇妙な物音が我神達の動きを止めた。確かにこの家には誰もいないはずだ。何かの弾みで物が落ちたのか動いたのかにしても不自然過ぎる音であるし、考えられることは1つだった。
あいつだ・・・。
過敏になった神経に引っかかるのは恐怖と不安と好奇心だ。ドアに掛かる白地に緑の文字の書かれたプレートが風もないのにかすかに揺れている。
『まことの部屋』
レバータイプのドアノブにゆっくり手を掛けながら槐は唾を音を立てて飲み込んだ。指が触れた時に静電気がぴりっと刺激を送り思わずすぐに手を離して自分の指先を眺める。別に何も別状は見られなかった。気持ちが高ぶり過ぎているのかもしれないと自分自身を奮い立たせドアノブを慎重に下げた。
相手が人間だったら少しは気が楽なのに・・・。
ゆっくりと開かれたドアの隙間から中を覗く。ペンライトが舐めるように小さなスポットライトを投げかけていく。教科書の沢山挟まった勉強机、色とりどりの背表紙が目立つ漫画、布団が乱れきって半ば落ちかけているパイプベッド、棚の上で今でも戦争を起こしそうになっているプラモデルの山、そして・・・。
我神は心臓を素手で鷲掴みされたような気になり、畏怖を必死にこらえようと胸元に両手を押し付けてあるものを睨みつけた。床に散らばる漫画雑誌の上で一番奥のクローゼットに寄り掛かってこちらに不気味な笑みをもらす存在がいた。
あいつが・・・。やっと見つけた。
槐は一瞬躊躇を見せたが恐る恐る彼女の方へ手を差し伸べてく。
彼女はフランス人形だった。
アンティークのヨーロッパから伝わったものにそっくりのその人形は身に隠し持つその魔法を発しようとしている。
我神達の敵、標的の彼等は様々な種類の人形達であった。小さな魂を抱き、優しさを抱く可哀想な天使達の一人が今、やっと我神達と面と向かっている。まさしくこれは宿命といわずにいられなかった。
ペンライトに反射するその純粋な瞳はまるで心臓を一突きに貫くが如く輝いていた。その刹那彼女の小さな腕がかすかに上がったような気がした。
そのとき・・・。
「それは私の友達なんだよ。どうする気?」
後ろから舌っ足らずのあどけない声が暗闇に響いた。
その頃葵は心配そうに我神達のいる所から500メートル離れたショットバーでカクテルのグラスを傾けていた。中身は口に入れずに灰皿に細い糸のように流し入れていた。
あの子は田舎に帰っている。絶対にあの家に帰ってくることはない。なのにこの胸騒ぎは何だろうか。新たな敵が現れるというのだろうか、理由なき不安に心もとなく虚空を見つめていた。壁に掛かる悲しげなクラウンの姿の絵画に目を奪われつつもこれからの恐怖について思いを巡らせた。
ふと、奥のボックス席のリザーブの札が取られて1人のサラリーマンらしきスーツ姿の男性が入ってきた。新入社員なのかやけに若々しく上司らしき人に気を使っている。接待なのだろうか。だが、気を引かれたのは彼の持つ鞄の隙間からよく目を凝らさないと気づかないあるものが垣間見れたからである。
比較的大きなパペットである。
何故、彼がそんな似つかわしくないものをしかも会社帰りだろう時に持ち合わせているのだろうか疑問に思いながら視線を送りつづけていた。その人形からはかなりの嫌な気配を感じてくる。その発せられるオーラは前に感じたことのあり――懐かしい――どこか気になるものであった。
もしかしたら・・・。
特に注意を向けながらグラスを玩び異様な感覚に酔いしれていた。依然不安感は拭い去れなく、我神達のことを心配することだけは忘れなかった。
そのとき、ふいに嗅いだことのない香水の甘い香りが鼻についた。それはオリジナルに誰かが配合したものらしくどこのブランドのものとも似ていなかった。女性にしてはおしゃれに無頓着な葵でさえそのことが分かるのは何か別の力が放たれていたのかもしれない。
しかし、振り返っても誰も新参者はいなかった。いても気配で気づくはずだ。では、先ほどの香りはどこから漂ってきたのだろうか、葵はいくら考えても分かるはずはなかった。ただ、そのことが言い知れぬ不安をさらに増大させる結果になった。
恐怖と驚愕のあまり我神と槐は硬直し振り向くことさえできなかった。ただ、独特の甘い香りだけが後ろにいる人物を推測させる材料になり、さらに2人を混乱させることとなった。
香水の香り・・・。女性?
少年の一家は今実家に帰郷している。すると親戚か特に親しい知り合いか、家政婦か、それとも・・・。
「その子に手を出したらただじゃ済まないからね」
その声は明らかに若い女性である。例え振り返ったとしても正体が分かるわけでもなく、ただ次の行動を考えるのに精一杯だった。
「泥棒さん・・・な訳ないよな。あんただれ?」
比較的度胸のある槐が声を掛けてみた。
「泥棒は貴方達の方でしょ」
そうっと我神は勇気を出して振り向いてみた。そして、そこに見たものに思わず驚嘆の声を上げてしまった。それを見て槐も後ろを振り向く。槐でさえも唖然として立ち尽くした。
「き、君は・・・」
我神の声にならない声が溜息とともに漏れて現状を物語るように沈黙の空間の中に溶けていった。
ノスタルジアに浸っていた葵は人形を持つ謎のサラリーマンの後を追っていた。都会が眩しく星空を隠していることがこれほど残念に思えたことはなかった。こんな郷愁を感じる夜は(何故郷愁を感じているのかは彼女自身分からない)快い自分の部屋で好きな音楽でも聞いていたいと思いながら好奇心と使命感によりパペットの行く先を追っている自分が奇妙に思えた。少なからず普通の人間なら奇妙な行動ではあるが,彼女にとっては存在理由であり、運命であり、義務であるような気がしていた。そう、あの時のように・・・。
葵にはかつて大切な友達がいた。小さな人形である。名前はない。葵は最後まで彼女に名前をつけなかったのだ。それは彼女にIDを与えたくなかったのか、人形に人間のような存在意義を見出したくなかったのかもしれない。特別な存在であり、唯一の心を許せた存在なのに対し距離を置いている所があった。
その小さな味方はある日気づいたのだ。その能力は人を駄目にしてしまうということを。そのときから、葵は小さな天使達の力を封印し、人々を幻から現実へ連れ戻すという運命が定まってしまったのだ。
その当時の唯一の友達は葵に一言言ったことがある。
「私達のような誤った哀れな人形を助けて。そして彼等によって心を閉ざした心弱い人間を助けて。もう・・・」
それが彼女の最後の言葉であった。
それを契機に葵は決心をしたのだ。自分がいくら犠牲になっても、彼女との約束を果たそうと。それが自分の生きる目的であると思い込もうとした。
かつての今はなき友人を思い出しながらサラリーマンがたどり着いた萎びたアパートまで来てしまっていた。学生が多く住んでいそうな、いかにも安そうな木造2階建てである。そこまで来て葵は一度我神達と合流しようと来た道を戻り始めた。
夢に打ち勝つ彼等なら今頃事を終えているだろうし・・・。
我神達は背後にいたのはなんと例の少年だった。
川上 誠。
確かに田舎で郷愁に浸っているはずの彼があらぬ声を発しつつ目の前に存在していた。混乱から抜け出すように2人は頭を振って互いに目を合わせて身構えた。
彼の様子がおかしいのは一目瞭然だった。麻薬中毒者のような表情で両手をだらんとぶら下げて異様なほど猫背だった。
何故、これほどまでに恐怖と不安を感じるのかは分からない。今までなかったことだ。
この少年の状態も異常過ぎて今までのケースとは異なる。詮索をしている間にも少年は誰かに操られているように話を続ける。
「私の世界をなくさないで。幻想は生きていく上でどうしても必要なの。それが存在理由なの。幻夢がなくなったら、私は存在しなくなる。私には何1つなくなってしまう」
その言葉には強い意思が感じられた。その意味を理解できたかどうかはともかく我神は勇気を振り絞って言葉を放った。
「君は逃げているだけなんだ。逃げ回っているだけでは何1つ変わらないんだ。何かを始めるためにはまず行動を起こさないと」
すでに2人にはどんな言葉も少年の心の奥には届かないことは分かっていた。何しろ自分の精神を守るために第2の精神を作り上げているのだから。
・・・そう、今の彼はかりそめの人格なのだ。崩壊しやすい精神の保護が生み出したもう一人の川上誠。否、すでに誠ではない別人である。
「女っぽいと思ったらこいつ多重人格か」
「槐も気づいた?おそらく人と接する時にこの人格が現れるんだよ。ただし、気になることもあるんだけど」
我神は感覚的に察知していた。多重人格、精神分裂病、パラノイア、鬱病。そんな言葉では片付けられない底知れぬ畏怖なる力が存在していることを。誠の少年らしからぬ含み笑いに似た表情は心中に何を潜ませているか見当もつかない。歩み寄る姿は小学生低学年のそれではもはやなかった。
「おい、惑わされるな、行くぞ」
槐のその言葉を口火にゆっくり流れていた時間は急に早くなった。さっと人形を無造作に掴むと矢継ぎ早に我神の袖を引っ張りながら少年を突き飛ばして一目散に走り出した。
「待ってくれ!」
彼の悲痛な叫び声を背中に玄関から抜け出して闇の中に紛れていった。まるで殺人気に追われているかのような形相で全速力で住宅街を駆け抜けてある小さな公園で足を止めた。息を整えながら手にあるフランス人形に視線を落とした。誘拐されたにもかかわらず微笑を絶やすことはなかった。
雲が晴れたのか月が妖しく、かつ、美しく魔力を放ち続けている。昼間の子供たちの痕跡をひとつ残さずに公園は静まり返って恋人たちすらいない。この空間が彼等には異様に感じられるのは夜の公園という場所だけが原因しているのではないだろう。
ベンチにフランス人形を優しく座らせると我神は哀れみとともに溜息をついた。使命だと分かっていても無垢な天使を封印する時はやはり心苦しいものがある。槐は少しはそんな気持ちは持ち合わせているのだろうが微塵もそんな様子を見せはしなかった。手を伸ばして彼女を頭上高く掲げた。街灯のスポットライトに照らされて彼女は最後の時を覚悟しているかのようにただ黙って従っている。もう、魔法を使うことなく抵抗する気さえ失っているようだ。
「時は熟した。我が時代は終焉を告げた。裁きを与えるものよ。哀れな天使をもとの虚なる存在へと帰すのだ。我々は過ちを行ったのではない。大いなる流れに、時の風に従ったのだ。それだけは忘れないでほしい。まぁ、次元低き思考という解釈しか持たぬ人間に全てを理解しろとは言わない。カオスとローは会い入れないが大いに関係している。人間の概念が全てではないのだ。それが分かれば我が存在の意味が少なからず見えてくるはずだ。そのときは我々は皆この世に存在してはいないだろう。お前等は苦悩に暮れるしかないのだ」
突然話し出した彼女の言葉は我神達には重たすぎるほど深くのしかかった。槐は鼻をすすりながらライターを取り出すと静かに人形に裁きの炎を灯した。焦げ臭い匂いが回りに漂う。目を閉じて無に帰ることを喜ぶかのように彼女はゆっくりと原型を崩しつつ煙となって天に上っていった。不完全な存在の最後は悲しく、我神達の頬を濡らした。
「存在ってなんだろう・・・」
我神の言葉は大きな意味を持っていた。その後の沈黙が1つの使命を完了させたことを示していた。しばらく真っ黒に燃えた残骸に視線を向けて2人は感慨に浸った。
葵は少年の家に来ていた。救急車やパトカーが止まり周辺を騒がせている。葵は野次馬の中に入って近くの人に状況を尋ねてみた。
「何でもここの家の子供が一人で風呂場で血だらけになっている所を、父親が発見したんだそうだよ。でも、子供は今、母親の実家にお盆で帰っているはずなんだって。だから、父親にしたらまさに寝耳に水だろうな」
何故、少年は一人で遠く離れた新潟から帰ってこられたのだろうか。一体、何を目的に・・・。葵は動揺を隠せなかった。恐らくは近くに刑事がいたら直ぐに職務質問をしただろう。それより、我神達はどこで何をしているのだろうか。ここで何が起こったのだろうか。鈍った思考能力をフルに活用してこの場の状況を考えた。そして一つの結論が脳裏によぎった。
―――これも、彼等の仕業に違いない。
とにかく、大勢の人間が集まっているこの場から我神達を見つけ出そうと、懸命に辺りをきょろきょろと見回した。すると、そこに偶然だろうか、あのサラリーマンが来ていた。家がそう遠くではないにしても偶然の二文字で片付けるにはあまりにもしっくり来ないものがあった。特にそう思わせる原因となったのは彼が持つ小さなバックパックから顔を密かに出しているパペットである。男の子の姿をしていてをしていて愛らしいその容姿は誰からも好かれるはずのものだが、そこから発せられる独特の嫌悪すべき雰囲気がどことなく怪異なるものを感じさせる。
それは恐怖に似た感覚かもしれない。
彼は他の人形達と違い血生臭さが漂い、恨み妬みに似た感情を人間に持たせるようだ。これはかなり厄介なことである。それでなくとも彼等は魔法を持っているのであるから。
葵は人形達のそのような感覚を感じ取ることができた。だから今まで彼等の所在を突き止める事ができていたのだ。
もしも、我神と槐が成功しているとしたらこの事件、あの小さな悪魔の仕業かもしれない。あの主人であるサラリーマンを操って何故かは分からないが少年を苦しめたのだ。ただ、少年との接点を持たぬ人形がどうしてそんなことをするのだろうか。とにかく、我神達の姿を目で探し出そうと思った。
何故だろうか。木角和馬はこの言いようも表せない不安と恐怖に苛立ちを覚えている。それはいつからかと記憶をたどっていくと、今朝会社に出勤してきたときからである。アルコールが入っているので思考が曖昧になり少し頭痛がするが、サイレンの回る紅い光を見つめながら考えていた。
転勤して初めて紹介されたデスクの引出しを開けた時から彼の人生の転機を迎えていた。少し汚れた気持ちの悪いパペットが入っていたのだ。他の先輩社員に聞いても誰も知る者はいなく、前に使っていた人のものでもないらしい。
そこにあるはずのないものがあったのだ。
その人形はどことなくある少年に似ていた。小学生の弟の良太の同級生の川上誠である。
良太が学校でいじめの対象にしているという先生の指導があったらしいが両親は硬く口を閉ざしているので良く事情は知らない。しかし、最近の子供は歳相応という固定概念が効かなく程度のわきまえぬことをやっているらしい。これも精神の現代病というべきなのだろうか。
もともと、わがままな子だった良太は自分の気に入らないことがあるとすぐに爆発する性分であった。時には捨て犬さえ川に落としてしまうことすら平気でやってのける、兄の和馬ですら恐怖を感じる子供なのだ。単に何一つ知らないといってしまえばそうなのかもしれないがあのいじめだけは正直言って震えが来てしまうほどだった。
あれは数ヶ月前のことだろうか。大学最後に研究室の皆で飲み会を開いた帰りのことだった。もう12時で辺りもすっかり人影もなくなった頃に家の近所の公園の横を通りかかった時に彼等を見たのだ。良太と誠が街灯の下で何やら険悪な雰囲気をかもし出していたのだ。
パシッ。
乾いた音が静寂に包まれた公園に響いた。口から血を流しながら誠は笑っている。その引きつった笑顔がけなげで同情的で哀れに感じられたがかえってそれが良太の機嫌を悪化させた。
凄まじく鈍い音が繰り返されてお腹を押さえながら誠は倒れた。
「今度は金をもってこいよ」
その光景が小学生低学年のしていたものとは信じられず和馬は何もできずにただ立ち尽くしていただけだった。酔いもすっかり冷めて全てが悪夢に感じられた。冬の肌差す寒さの中の出来事だった。
それ以来、良太とは口も利かず避けるようになっていた。和馬は今でも辛苦の中で立ち上がって服についた土を払って歯を食いしばりながら帰る誠の姿が瞳に焼き付いている。
「何で助けてくれなかったの?」
鞄の中からそんなあどけない声がした。すぐに鞄を見て空耳だと自分に言い聞かせた。人形がしゃべるはずがない。まして、誠のあの時の気持ちを代弁する訳がない。あの時の罪悪感がそうさせたのだ。両親の放任主義が招いた弟の堕落に最後まで和馬ですら手におえなくなっていた。
それにしても今ここでその誠が何者かに襲われたらしい。何かの因縁だろうかコンビニ帰りの和馬がそこに居合わせたのだ。ぼうっと突然火の手が上がった。そしてみるみる家全体を包み込んでしまった。
「どうして君はいじめるの?」
鞄の中の人形が直接和馬の頭の中に話し掛けてきた。彼は混乱した。どうして?俺じゃない。良太だ。
「良太はとっくに死んだじゃないか。いじめていたにはお前だ」
違う。大人の俺が子供の、弟の同級生をいじめる訳がないじゃないか。
「記憶の混乱さ。自己暗示にかけて記憶を書き換えをしてしまったのさ」
俺を惑わすな。悪魔よ。
和馬は炎に燃える家の中に突然駆け出していった。全ての悪夢から逃れるように。誰もが幸せを求めている訳じゃないのだ。そんな声が彼の耳に反響して消えていった。
「仕事が終わった」
葵は一人の青年が燃え盛る炎の中に飛び込んでいくのを見届けてそう呟いた。我神達が姿を現せてこの光景を見て愕然としている中で葵は一通り話を聞かせた。その話に釈然としないがとにかくターゲットは少なくなってきた訳である。
「自らを主人もろとも葬り去るなんて」
「邪悪な気を発していたんだろ。かえって都合が良かったじゃないか。邪悪で強い奴らは俺達にも手におえないかもしれないしな。もっとポジティブに考えようぜ。この仕事はそれでなくとも気が滅入るんだから、割り切んなきゃやっていけないぞ」
良く事情を知らない槐はそう言って葵の気を紛らわそうとしたが感受性が強く感覚の鋭い葵には無意味だった。
その刹那、我神の脳裏にあるヴィジョンが映し出された。小さな少年がその兄らしき青年に叫んでいる。手には不気味なパペットを握り締めている。
「僕を殺して・・・」
その人形は父親が5際の誕生日の時に買ってきたものだった。その3日後にそれが遺品になることも知らずに飛び跳ねて喜んだものだった。
「お願いだから、僕を殺して」
青年はまるで意識が彼方へ飛んでいっているように夢遊病の如く少年に近づく。手には剥き出しの果物ナイフがしっかり握り締められている。
「僕は心が弱すぎたんだ。勇気もない。自分で死ぬ度胸もないんだ。こんなにも毎日が苦しいのに。ただ、生きていくだけで胸が張り裂けるくらいこれ以上ない苦しみを味わっているのに。・・・だから、殺して」
青年は我が弟の胸に光り輝く刃物を勢いよく突きたてた。緋色の液体が広範囲に飛び散り全てを混沌に染めていった。そう、この空間はもうすでに不条理の塊で満ちていた。
青年は悟った。そうか、虐められていたのは弟の方だったのだ。両親は弟にはひどく厳しすぎていたのだ。じゃあ、自分の記憶は精神の自己防衛作用で作り変えられていたのだろうか。自分は他の存在、他の世界に関与していたのだろうか。自分の存在は確定していたのだろうか。自分は存在していたのだろうか。
青年は静かに涙を一筋流して手を胸に押し付けてその場にうずくまってしまった。
我神は我に返って頭の中を整理してみた。結局全てがあるべき方向へ進んでいるのだと実感して何気なく空を見上げた。こんなにも明るい地上ですら星空は見えない。しかし、それでも悪い気はしなかった。知らないうちに涙が溢れてくることも気づかずに。
「無論、これからだってそうさ。僕らはやらなければいけないんだ。例えどんな胸糞悪いことであってもね」
我神はまるで全てを悟り、受け入れたかのようにそう言い残した。いつまでも月夜の中で地獄と夢に彩られた屋敷は燃えつづけていた。全てを天に浄化させるように。
2.心を壊した堕天使
見渡す限り白銀の大地が広がっている。前方には急斜面がそびえていて斜面林が綿帽子をかぶって肩を寄せ合っている。背後には道を挟んで平地が走りそこに大きな洋館がひっそりと孤立して立っている。夏には畑が広がるその周りも今は白亜の平地と化している。
その洋館は初期の一般的なアメリカ住宅風で雪に埋もれていた。ポーチ付近だけは雪かきがされていてかろうじて出入りが可能であった。
その屋敷から少し離れた道端で一人の少年が雪が積もって道路脇にめり込んで倒れていた。その横でもう一人のニット帽の少年が彼を激しく揺さぶっている。
「おい、寝るな。死んじまうぞ」
しかし、いくら声を掛けても返事一つない。それどころか微動だにしない。倒れている少年はダウンジャケットにジーパンでスノーシューズをはいている。キャップの鍔が雪に突き刺さっているので間抜けな帽子に見える。
「寝るな」
その声は雪に包まれた静寂な空間に広がって溶けていった。
揺さぶっているニット帽の少年はブランドもののブルーのサングラスをかけて黒にバックプリントのジャンパー、古着のジーパンにローテクのスニーカーといった姿である。
彼の名前は槐修平といって、倒れているのは我神雫である。二人とも同じ大学の学部、学科の1年生でいつも一緒にくっついていた。もともとはお互いに特に意識はしていなかったのだが同じクラスで顔を合わせるうちに話をするようになったのだ。それは双方に共通した何かを持っていたのかもしれない。
冷たい風が強く吹き抜けていき二人を包み込んだ。もう一度修平は大きな声で雫に叫んだ。
「起きろ。寝るんじゃない」
すると、しばらくすると一人の女性が白のダッフルコートをまとい大き過ぎる荷物を抱えてやってきた。そして、二人を横目で一瞥して一言口を開く。
「いい加減遊んでないで行くわよ」
「へーい」
すくっと二人は起きあがると体についた雪を払った。埋もれていた雫は息を荒くしながらやっと声を出した。
「ギャグも命がけだよ。死ぬかと思った。・・・もしかして、面白くなかった?」
「寒いんだよ。冬の東北だけに」
後ろから修平の声が聞こえたが二人は聞き流した。震えながら雫は女性の後に続く。そしてさりげなく抱える鞄を持ってあげた。
「馬鹿みたい」
「もう少しくらいいいリアクションしてくれない?」
そのあとに修平がやってくる。
「何だよ、その荷物。引越しでもする気か」
「女の子はいろいろ物入りなの。まぁ、生憎、女の子と余り付き合ったことのない貴方達には分からないでしょうけど」
彼女は修平と雫とは違い大学生ではない。雫も修平も彼女のことは知らない。出会いは大きな草原で彼女は青空を仰いでいたところに雫達が通りかかった時である。その時はまさか彼等に彼女が声を掛けるとは思ってもみなかった。
「貴方達は能力を持っている。力を貸してほしい」
それが彼女の第一声だった。
名を葵とだけ名乗ったので彼等はそう呼んでいるが深く追求したことはなかった。
屋敷の中へ入った葵は修平たちを従えて玄関ホールを通り抜けてリビングルームに歩いていった。すると、そこには石油ストーブの匂いが立ち込めた薄暗いアンティークな空間が広がっていた。毛長の絨毯にクリーム色の壁紙に飾られる名画の模写が6枚あった。
マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ルノアール、そして・・・。
ストーブの前の安楽椅子には老人がゆっくりと風に揺れていた。彼等の存在に顔を向けずに気づくと真っ白な顎鬚を撫でつつ穏やかに口を開いた。
「息子はまだ帰らんよ。ご友人なら悪いがそこのソファに腰掛けて待っていてください。なぁに、街に買い物に出かけているだけですから直ぐに帰ってきますよ」
三人は困った顔をしてソファに腰掛けた。
「本当にやるの?」
弱々しく雫が訊いた。
「人は夢の中だけでは生きていけない」
「でも、今が幸せなら・・・」
「現実へ連れ戻すのが私達の仕事なの。前にも話したと思うんだけど、この人は10年前に奥さんに先立たれてから心の保護のために若くしてなくなった息子さんの存在を想像の世界の中で蘇らせてしまったの。ここまでなら何も告げなくていいの。
・・・でも、彼等を解放してしまうことだけは阻止しなくてはいけないのよ。このまま夢の中にいると彼は力をつけてしまう。この人は彼等の源なのだから」
葵の話は無理があり、未だに雫は半信半疑だった。修平は老人の前に行き優しく声を掛けた。
「あんたの息子はもうこの世にはいないんだよ。彼は思春期特有の精神の不安定な状態に陥ってしまって自らの命を絶ってしまったんだ」
すると、葵は手で修平を制して怯える老人の前に身を屈めた。彼は徐々に底知れぬ見えぬ畏怖を感じつつあるらしく、それは現実への(悲劇からの)恐れであったのかもしれない。
「息子は買い物だよ。昨日だって私のためにコートを買ってきてくれてな。誕生日だったんだよ。あの子は優しい子でね。小さい頃から私に気を使ってくれて・・・。3歳の頃だったかな。近所の子から洋菓子をいただいた時も全部食べたいところを我慢して半分私の手の中に入れてニッと笑ったんだ。今にも目に焼け付いているよ。6歳の頃、私が40度くらいの熱を出して倒れた時にずっと付き添ってくれて濡れタオルを小さな手で取り替えてくれて・・・。びしょびしょだったが一生懸命だった」
葵は首を横に振って悲しげに老人の両手を握り締めて静かに語り始めた。
「息子さんは17歳の時にある心の変化があったの。よほどご両親が溺愛したのね。突然一度に子供から大人に精神的に成長したの。普通なら徐々に大人になり、様々なものを知っていくのだけど、彼はずっと子供のままだった。それがある日気が付いて、知ってしまった。自分の中を知りすぎてしまったの。人間の意識が、意識、無意識共に深く掘り下げてしまって精神的に潔癖症になってしまった。自分が当たり前と思っていたことが悪いこと、誤ったことと意識をして自分を最終的に邪悪な存在と思い込んでしまった。
・・・本当にピュアだったのね。自分の存在意味も存在価値も失ってしまって自己否定をしてしまった。
彼に大人のずるさ、図々しさが早く生まれていれば良かったのに」
すると、雫は口を挟んだ。
「よく分からないけど、心の迷いによって自らを葬ってしまったんだね」
「あの子は・・・あの子は・・・」
老人の脳裏にある光景が静かに浮かび上がってきた。真っ暗な2階の部屋でぶら下がる少年の姿。カーテンレールに結び付けられたビニールロープ。彼のための誕生日プレゼントはその時床に落ちて音を立てて崩れた。そして何もかもが終わり、全てが始まった。
止まっていた時間がゆっくりと動き始める。忘却の彼方より記憶の欠片を手繰り寄せてしまったのだ。
オープンになった心は再び深い傷を受けて老人の濁った瞳からゆっくりと涙が一筋流れた。
「私の味方は、依存できるものはもう誰一人いないのか。私はどうして生きていけるのだろうか」
地よりも深い溜息を吐いて静かにゆっくりと目を瞑った。
「とうとう独りになってしまった」
急激に現実という辛苦へと堕ちて行った老人はそれっきり動かなくなってしまった。腕がだらんと垂れ下がり力を失せて小さく揺れた。孤独が老人の心を喰らってしまったのだ。
静寂の中薄暗い部屋に柱時計の時間を刻む音だけがただ虚しげに響いていた。涙を吹いて立ちあがった葵は俯く雫の肩を優しく叩いた。
「本当にこれでよかったのかな」
すると、修平は雫の腕を掴んだ。複雑なその表情からはやりきれない思いが感じられる。
「夢は、幻想は人にかりそめの幸せを与える。しかし、それは虚空なんだ。無なんだ。実際には存在しないものなんだ。逃げているだけでは何も解決しないし前を向いて歩いていかなくては本当の苦しみを拭い去ることはできない。
・・・あの爺さんは良くても他の人が堕落していくんだ。あいつらがいる限りな」
葵は無言で屋根裏の方へ向かった。雫は頷くと修平の肩に手をのせた。
「これは良い悪いじゃない。彼等を無に帰すということなんだ」
それが雫なりの心の整理の方法であった。
玄関ホールで待つこと10分。息を激しく切らせて葵が戻ってきて言った。
「もう、彼等は一つもなかった。次へ行きましょう。これ以上犠牲者を出さないために」
すると、修平があることに気付いた。
「もう、あの爺さんは逝ったんだぜ。奴らの力は失せただろう」
「いいえ。力は弱まっても完全には消えていない。人間には残留思念があるようにね。今は彼等を処分していくしかないわね」
「あの人に夢を見せていたものは?」
ノブを回してドアを開けた雫が振り返って尋ねた。ドアの隙間から肌を刺す冷たい空気が再び3人を襲った。思わず雫と修平は襟元を掴んだ。葵は首を傾げて少し考えるとぽんと手を叩いた。
「この屋敷の中にはなかったよ。きっと、手放したものの中の幾つかの力が遠くから作用していたのかもね。さぁ、行きましょう」
外は曇天となり今にも雪が降ってきそうな雰囲気であった。
―――妖気が空気に満ちている。
しばらく歩いているとやっとバス停に辿り着いた。雪の上を歩く音と上着の下の汗だくな状態から早く逃れたいと思いつつも白い塊を吐きながらびしょ濡れのベンチに腰を下ろして一息ついた。雫はフードをかぶる葵を見て思いきって尋ねた。
「どうして彼等のことやあの老人のことを知ったの?」
直ぐには答えず白い息の行方を目で追って彼女はゆっくり口を開いた。
「私も彼等の被害者なの」
その答えに驚愕して修平も葵の方に視線を向けた。
「私は5年前に父から人形を買ってもらったの。今から思えば無気味なオートマタでフランス人形がワルツを踊ってオルゴールがそれに合わせて綺麗な音色を奏でるものだった。幾千もの感動を与えてくれる不思議な彼女にいつしか愛着が湧いてきていつも一緒だった。
こう見えても私は極度の寂しがりやで恥ずかしがりやだったから、独りで遊んだり、空想の世界で遊ぶこともあったの。勿論友達と遊ぶこともあったわよ。でも、ほとんど自分の世界に浸ってたの。現実逃避していたのね。理想世界で心を慰めていたのもあの娘の仕業だったなんて。恥ずかしがりやで心の弱かった私は不意に夢の世界で疑問を抱いたの。例え何があっても所詮自分の空想の世界。自分の自由になるけどそれって、何もないってことだよね。虚しくなってしまったの。さっと現実に引き戻されて幻想とのギャップが辛かった。空想への逃避は人を駄目にするとこのとき思ったの。何も解決にならないし、どうにも変わることなんてないのだから。没頭してはいけないのよ。あの娘もそれに気がついたの」
バスが白い煙を立ててやってきた。乗り込むと乗客は誰もいなかった。前の方に座ることにした。葵の隣に座った修平は寒そうに窓の外を眺める彼女に訊いた。
「さっき、あの娘って言ってたけど人形だろ。意思があるってことか」
「勿論。意思を持った人形は能力を持つ。すると、自由に移動することさえできる。ただ、それは作り手の思いの力によるの。人間の思念と共に宿る魂がこの奇蹟を生んだのよ」
すると、後ろに腰掛けていた雫が身を乗り出してきた。バスは暗闇に包まれている。窓に映る姿は子供のようだった。
「どうしてそんなに奴らのことを知ってるの?」
葵を見ていた修平ははっとして雫の方に振り返り視線で何かを訴えた。雫はゆっくりと微笑み首を横に振った。
「本人に聞いたの。あの娘はいろいろなことを教えてくれたわ。あの人が20体の人形を作ったこと。息子の死と共に屋根裏に押し込められて、そこで魂を得たの。そしてあの人が力の根源でありクリスマスの夜にあの娘達を旅立たせたことも」
「で、でも、何故自分の存在を否定して消滅させるようなことを言ったんだ」
修平が勢い良く言葉を放つ。
「気付いたのよ。さっきも言ったけどね。彼女は自分達のしていることは過ちだって。人に幸せを与えていた天使ではなく悪魔で、存在してはいけないって。
・・・もともとあってはならない幻想だったのかもしれないわね。可哀想な人々を救うつもりだったけど、実は自分達が可哀想な存在だったのね」
「何かあの亡くなった老人の息子さんみたいだね」
悲哀な表情の雫が薄暗い中遠くの移り行く雪山の連なりを覗き込みながらそっと呟いた。
「あるいは・・・」
そこで葵は深い溜息をつく。
「彼の魂が各々の人形に入ってしまったのかもしれないわね。人間なんて不条理なものだから・・・」
葵の膝には一冊の手帳が乗っていた。老人の息子の遺品の一つであるそれの最後のページが開かれている。そこには未完成の詩が綴られている。まるで全身に激痛が走る中で書かれたような文字が当時の彼の精神的苦痛が窺える。
『霧のような悲しみと 雪のような羨望を ガラスの胸に抱きつつ
幸せ目指して生くものを 虚なる瞳で見つめてる 明日なる地獄に目を反らし
幻想の中で生きていく 同じ苦しみ抱くものに 生きる意味をを伝えたい
同じ思いを抱くものに 死への憧れ止めたい そして、い 』
自分で自分を追い詰めた少年の最後の言葉である。涙の跡が痛々しくその言葉を修飾している。どんなレトリックな言葉でも彼の思いを伝えきれるものはないだろう。
バスは独特の油圧ブレーキの音を響かせながら終点のバス停に入っていった。近くに隣接する駅舎に入ると50分に一本の電車を待った。雪が少しずつ降り出してくる頃にはようやく電車が彼等の前に口を開けた。列車に乗り込むと雫と修平はお互いに目を合わせる。葵について何か意思の疎通をしているようだ。
「天上天下唯我独尊。典籍にもあるように人は奢ると視界を失う。その逆はなお大変だ。なぜなら、気付かぬものを気付かせることは可能だが、知りすぎたものを整理するのは至難の業。しかも、それが概念の範疇を越えていたら限りなく不可能だ。概念の変化は困難であるからな」
「修らしくない言葉ね。何が言いたいの?」
修平を横目で睨む葵はどことなく怯えを見て取ることができた。
「人を信じる、信じ続けることほど難しいことはない。でも、もっと難しいのは自分の信じていることを過ちだと認めること、信じていることと違うことを信じることなんだ」
まるで、修平の言葉に続ける様に雫も口を開いた。
「どうしたのよ、二人とも。らしくないことばかり言って」
「なぁ、人形は20体。お前のオートマタはどうした?」
厳しい表情で修平は尋ねる。
「あの娘は自らに火をつけたわ。焼却炉に飛び込んだあの瞳は今でも網膜に焼き付いているわ」
刹那、葵の目に涙が光る。
「あと、マリオネットの内の一人が東京にいて少女を自閉症へと陥らせていたのを助けたのよ。そのとき、その娘はすでに12体がこの世から消滅したことを聞いたわ。2体はその後封印した。その次に貴方達に出会ったのよ。その後一体を封印したわね。」
「パペットが自ら燃え盛る家に飛び込んでいったっけ」
「そして、俺達と共に一人の少年を救ったろう」
「虐められっ子の。覚えているわ。確かフランス人形だったわ。あと一体ね」
「フランス人形とパペットは封印した。じきに力は失せるだろう。あと一体、そう、あと一体で悪夢が終わる。俺達の悪夢が・・・」
電車はゆっくりと駅へ滑り込み3人をプラットホームへと降ろした。険悪なムードのまま駅前の小さな喫茶店に誘われるように入っていった。修平は先を歩き一番奥のボックス席に座った。そこはトイレの近くの角にあたり人目につきにくいところであった。
修平は溜息をついてしばらく沈黙を保ったまま遠くの窓ガラスを眺めた。その憂鬱そうな瞳に鏡と化して地味な店内を映すガラスが一層言い表せぬわだかまりとして反射している。
雫は隣の修平に自分から話をしてくれというような視線を送った。
この店には似合わぬシャンデリアが気まずい雰囲気を少しでも和ませようとしている。愛らしいウェートレスが来てオーダーを聞いてその場を去った。
「さっきの話、どういう意味?」
葵が沈黙からやっと切り出した。腕と足を組んでいた修平はサングラスをはずして鋭い三白眼で睨みつけた。
「お前自信が奴らの仲間なんだよ。その力を自分自信に掛けてしまったんだ。人間でありたいという望みでお前自信が人間であるという幻想にとらわれたんだ。記憶を変化させて辻褄を合わせてな」
葵は目を見開き唇をわなわなと震わせて手をテーブルに置いた。雫はまるでこの場の全てを拒否するかのように目を伏せてじっと動かないでいた。彼女の心の崩壊の痛みを知っているだけに耐えるだけで精一杯だった。
「何を言ってるの。私のどこを見ても人間じゃない。他の人だって私を見ても・・・」
「お前は蝋人形だからだよ」
修平の怒鳴り声が店内に響いてウェートレス達が一斉にこちらを見た。かまわず修平は大声で叫び続ける。
「出来のいい蝋人形は人間そっくりでぱっと見じゃ誰も気付かないんだ。お前はあの老人の若くして亡くなった息子のあの世への恋人として作られたんだ。一番、あの人の想いが込められた人形なんだ」
その噴出される言葉に彼女はあるヴィジョンをフラッシュバックさせていた。忘れられていた遠い思い出。禍禍しい現実の欠片達。大きな屋敷で失った娘の代わりとなって大事にされてきた偽りの幸せと虚構なる現実の狭間で揺るぎ無い使命を持つまでの定まらぬ、しかし、恵まれていた空間と時間。全てが彼女の腕の中に集まっていく。
葵は偽りの記憶と幻想を抱き続けていたのだ。彼女は自分の失われた過去を追い求めていたのだ。気付いた時には一体の人形と友達になっていた。義母のくれた偽りの味方。
彼女はいろいろ教えてくれた。自分のことも。この世界のことも。悲しみ、苦しみ、憎しみに妬み、切なさや憤り。そして、自分達が忌まわしき力を持っていて心に迷いのある人々を救う為に夢の力を使っていることも・・・。
その他の葵に関しての情報はその他には何一つ教えてくれずいくら問いても口をつぐんでしまうのだ。別に深い意味はなくただ本当に何も知らないのか、わざと黙っているのかは分からない。彼女が今の状態でいることが彼女にとって幸せであると想っているのかもしれなかった。人形達には純粋な心しかなく、人を陥れたり、嘘をつくことが苦手なのだ。極一部を除外して。そして・・・。
最後に、一息ついて水を一気に飲み干すと立ちあがって一言叫んだ。
「お前は主人を殺したんだよ。望まれざる存在、存在してはいけないんだよ!」
彼女は心を砕かれたことで元の美しく精巧な人形へと変化した。ガラスの瞳からは一筋の涙が流れていった。気付くと雫の瞳にも純粋な液体が浮かび、そして修平も視界を潤ませていた。彼は再びサングラスをかけると一言呟いた。
「これで本当に全てが終わった」
自己否定された彼等の方が哀れな存在であったという2人の意見は本当だったのかもしれない。2人は喫茶店の前に止めてあったRV車に向かって歩き出した。
「どうして僕達は悪夢に勝つ力を得たんだろう。強い精神なのかな」
「いいや、逆に弱いのさ。だから、何かに依存してしまったらそれなしには生きていけなくなる。それが大き過ぎる存在になってしまう。それが怖いから何にも依存しないように頑なに突っ張って頑張ってしまってるんだ。精神が弱いから何かに依存しようとするのが一般的だが、それさえもできないくらい畏怖を感じている。俺達はとことん弱っちいのさ」
「いつかは強くなれるのかな」
「いいや、決して今の存在から逃れることはできない。変化は定まらぬ枠組みの中だけにありうるんだよ。人形がどんなに力を使っても人間になれなかったように。夢を見て醒めることが最大の畏怖だということを分かってしまっている俺達に何も状況を変えられる術など持ち合わせていないのさ」
「全ては諦観の中にあるんだね」
「外からの暖かい力があれば・・・もしかしたら」
雫は闇夜を見上げた。まるで星屑など存在しないかのような闇に微笑みを浮かべた。もうじき答えが訪れる。それはいいものか悪いものかは分からない。しかし、修平から逃げるように空を見上げながら前へと歩き出した。冷たい空気が心地よく感じながら。
完
自分でも懐かしいと思う作品です。約20年前に執筆しているだけあり、古いと感じる要素があります。
この作品から僕の今の作風が始まりました。
この頃はこの話はシリーズではなく、ここで終わりの作品でした。それが今のように変化するとは考えてもみませんでした。
一番、灌漑深いものです。