序章 雨の夜にも星
――Keine Rose ohne Dornen.
棘のないバラはない。
何度目だろう。横殴りの衝撃が駿の脇を掠めた。
すんでの所で直撃を避けるも、風圧で身体が吹き飛ばされる。まるで、映画のように派手に二回転したところで、壁にぶつかって止まった。
痛みで霞んだ視界の先に見えたのは、歪んだ日常だった。縦横無尽に伸びた茨が、教室を繭のように覆っている。度重なる攻撃で破壊しつくされた教室は、机や窓ガラスの残骸で酷い有様だった。まとわりつく熱気と胸が詰まる程の青草の匂いには吐き気すら覚える。
(まだだ。まだ、時間を稼がないと)
駿は腕時計に目を走らせる。タイマーが5分を切った。しかし、仲間からの合図は来ない。
――ならば、何とかして少女の注意を惹きつけねば。
傍に放り出された竹刀を拾って立ち上がる。口元から伝う血を拭って、ふらつく足を何とか奮い立たせた。茨の猛攻を受け続けた制服は、彼方此方が擦り切れ、血が滲んでいる。幾度となく打ちすえた身体は傷だらけで、少しでも気を抜けば倒れてしまいそうだ。それでも尚、立ち上がる駿の姿に、繭の中心に佇む少女は艶然と微笑んでみせた。
「思ったより、丈夫なのね」
澄んだ声に併せて、彼女を守るように伸びた茨が揺れた。
既に満身創痍の駿に対し、少女には傷一つない。白黒フィルムで映したように色褪せた世界の中で、相対した少女だけが、日の光のように輝いている。
「そうですね。自分でも驚いてます。普通なら、背骨が折れてるかも」
「強がりも、ほどほどにしないと死んじゃうけど?」
「強がり?」
衝撃で割れてしまった眼鏡を外して、駿は無理矢理笑顔を作った。彼が作り得る中で、最高にふてぶてしい笑みを。
「強がりなんか、してないです。それとも、怖じ気づきましたか。『茨姫』たる貴女が」
駿の口に上った単語に、へえ、と少女が目を細める。
「私が童話だと知って尚、生身で向かってくるその無謀さ。感心するわ」
「それはどうも。素直に褒め言葉として受け取っておきます」
少女は、値踏みするように駿を見た。幼い見た目に似合わず、瞳に浮かんだ光は、底知れぬ冷たさを含んでいる。底冷えする視線は、支配者のそれだ。
ここに至るまでのやりとりで、駿は確信していた。自分の力では、どう足掻いても少女に適わない。
張り巡らせた無数の茨と、実体化した身体。茨姫《Dornroschen》と名付けられた彼女は、空間をねじ曲げ、自分の領域を作り出すだけの強力な力を有している。油断すれば、あっという間に彼女の領域に「取り込まれて」しまうに違いない。
だから、今の駿に出来ることといえば、ひたすら彼女の興味を自分につなぎ止め、時間を稼ぐことだけだった。
「さて、もう一試合、お手合わせ願えますか、姫」
「まだやるの? そんな身体で」
「ええ、勿論です」
「呆れた。グリムの力を使う気がないのなら、何度やっても、結果は同じだと思うけど。学習能力がないのかしら」
「やってみなきゃ、わかりません」
駿は再び、竹刀を構えた。剣道など体育の授業でやったきりだから、持ち方も構え方も適当だ。それでも、ありったけの攻撃の意志を宿らせて、再び走り出す。
「無駄よ」
少女が、黄金色の髪を鬱陶しそうに払いのけると同時。
一際甲高い音を発して、茨が駆け抜けた。駿の足下の地面に亀裂が走り、爆ぜる。足場を失った身体は、バランスを崩して勢いよく倒れ込んだ。あやまたず飛来した二本目の茨が足に絡みつき、身体が宙に持ち上げられる。抵抗する間もなく壁へと叩きつけられた。
「大きな口を叩く割には、呆気ないわね。素直に童話に頼れば、こんなことにはならなかったのに」
少女は、雪花石膏で出来た彫刻のように整った顔をかすかに曇らせた。
「そうでしょうか」
嘆息した少女に、くぐもった声で駿が応える。
「まだ殺されたわけじゃない。僕はまだ、戦えます」
床に着いた手に、渾身の力を込めて起き上がる。軋む身体の痛みは、吐き出した言葉で無理矢理意識の外へ押し込めた。
「ふうん。最初は、ただの命しらずかと思ったけど、違うみたい。素敵よ、貴方」
少女の薔薇色の唇が弧を描いた。翡翠のような瞳が輝くと、応えるように茨がざわめく。
「童話でも悪魔でもないただの人間が、ここまで食い下がるなんて。認めるわ。貴方は私の敵、よ」
「……光栄です」
駿の竹刀を握る指に力がこもる。見た目は細く、頼りない茨だが、幾度も命を刈り取る程の一撃を繰り出してきたのを知っている。傷つきながらも、こうして立っていられるのは、ひとえに彼女の気まぐれ故だ。
「その頑丈さと、無謀さに敬意を表して。全力で排除させて貰うわ」
少女が腕を差し出すと、茨が一斉に駿の方向を向いた。鎌首を挙げた茨の数は、すでに十を超えていた。身体中の器官が直ぐに逃げろと叫び声をあげ続けている。武器も、防具もおよそ身を守るものは何もない。それでも、今、膝を折るわけにはいかない。震える膝を叱咤しながら、必死で言葉を紡ぐ。
「望む、ところです」
「良い返事。一撃で潰れないでね」
少女が細腕を振り下ろすと共に、茨が唸りを上げて向かってきた。
咄嗟に竹刀を掲げてなけなしの防御をとるも、一撃でもぎ取られた。
二本、三本。衝撃で吹き飛んだ身体を猛追する茨の群れ。次々と襲い来る魔手は肉を切り裂き、神経を咬み千切って骨を擦る。内側から、炸裂する痛みと共に熱い血潮が吹き出すのを感じた。
無数の狂針に足を、腹を、胸を、腕を貫かれ、激痛が意識を焼く。
(まだ、まだ、倒れるわけには……)
駿が意識を手放しかけたとき、腕時計のアラームが静かに約束の時を告げた。
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