そして事件は起こった
「本当に本当にご迷惑をおかけしました!!」
戸塚部長は深々と頭を下げ、我が家をあとにした。なんでも、すこし買い物をしたいらしい。今日は土曜日だから、12時出勤の5時帰宅。今は8時すぎだから、少し余裕がある。
「さてと、しばらく何しよっかな~」
「行ってきまーす」
「え?」
見ると拓哉が学校のジャージを着て、既に靴を履いているところだった。
「今日も部活だっけ?」
「うん。9時から4時まで。弁当代くれる?」
そういって拓哉が振り向いた。少しクルクルの髪が、開いたドアから入るそよ風になびく。
「大変だなぁ。っていうかいつの間に用意してたんだ?」
ハイ、600円。と渡す。拓哉は受け取って財布の中に入れた。学校の近所にコンビニがあるのだ。
「あの部長さん、玄関でめちゃめちゃ長い間喋ってたじゃん。その間に、ね。」
ヨイショ、と立ち上がった拓哉。やっぱり小さいな。
「あ、そういやさ。」
「どした。」
「今日じゃなかったっけ、晃たちが遊びに来るの。」
あ、そうだった。
大分前から、約束していたのだ。今日はテッツン家族と夕飯を食べることになっていた。テッツンの奥さんは恐妻だが、すごく料理が上手なのだ。
「確か5時くらいに来るんだよな。晃くんと奥さん」
「うん。おれ、早めに帰ってきとくよ。じゃ、行ってきま~す。」
「行ってらっしゃい」
そうか。テッツンたちと夕食か。なんだか少し楽しみになってくる。
「ま、掃除はしといたほうがいいよな…」
やれやれ、忙しいったらありゃしない。
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「行ってきま~す」
「行ってらっしゃい」
おとーさんの声を背に受け、おれは元気よく外に飛び出した。そのとき、女の人にぶつかってしまった。
「わ、ごめんなさい!」
「・・・」
相手の人は黙ったまま、こちらをジロリと一瞥した。
ハッキリ言おう。
かなり迫力があった。
唇は真っ赤に染まり、まゆはやたらと濃く書かれている。頬紅は異常なまでにピンクだし、マスカラはなにやら怪しげな色だ。極めつけに、物すごい匂いがした。香水だろうが、とにかくムッハーンという言葉がピッタリなほど。言葉では言い表せない。
「ほんとにすいませんでした!」
おれはもう一度誤ってから、すたこらさっさと逃げ出した。あまり長くいると、取って食われそうだったものだから。
「おはようございまーす」
一礼して道場に足を踏み入れる。中には誰もいなくて、電気も付いていなかった。一番乗りなのかもしれない。
「さみし~」
一人で呟きつつ、更衣室に入る。すると、
「…拓哉か」
「あ、山田センパイ。いたんですか」
「まあな」
3年の山田センパイがいた。この人は、唯一おれを溺愛しないセンパイだ。この間みたいにセンパイたちがのしかかってくるとき、たいてい山田センパイは何事もなかったかのように更衣している。
とりあえずおれも着替えよう、とおれは自分のロッカーに向かった。隣の金子のロッカーには、何やらオタッキーな本が入っている。10冊も。平松のロッカーにはアイドルのポスターが貼ってあった。それに比べ、おれのロッカーにはほとんど物がない。あるのは面タオルとか道着とか竹刀の部品とか、そんなものばっかりだ。
「・・・拓哉」
突然、後ろから声がした。おれはあんまりビックリし過ぎて、「はいっ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまった。
「…そんなに驚くなよ」
山田先輩がすぐ後ろに立っている。いつの間にか、道着も袴も身に付け、準備万端だ。
「すいません…。なんですか?」
俺が尋ねると、山田センパイは目をそらした。何か言いたそうだが。
「お前ってさ。親父と仲良いか?」
突然何を。
「ええ、まあ。」
実を言うと、かなり仲がいい。
「だったら…聞いてもいいか?」
「何をです?」
「お前の親父ってさ…花屋で働いてるよな」
まあ花屋っちゃ花屋だが。
「そうですね。何でそんなこと知ってるんですか?」
「いや…姉ちゃんが同じ職場らしいから。あんがと」
山田センパイはそれだけ言うと、踵を返して更衣室を出ていった。後には、何処かで嗅いだようなにおいが少しだけ漂っていた。
「ありがとうございましたっ」
部活が終わり、おれは足取りも軽く道場を飛び出した。頭の中には、今朝の恐い女の人や山田センパイの不可思議な質問なんてこれっぽっちも残っていなかったのだ。それというのも、頭の中には
(晃たちに会える)
ということしかなかったから。
晃はおれより3つ下の色白な男の子である。運動神経が良くって、よく公園を走り回っている。身長は小さい方だが、それはおれも同じなので気にしない。ちなみに、おれの見立てではイケメンだ。
ダッシュで家についた。アパートの時計を見ると、4時15分。部活が終わってから15分しか経っていない。おれは階段を駆け上った。
家のドアの前に立つ。鍵はいつも首にぶら下がっているから、もたつくことはない。鍵を開け、ドアを開く。
「ただいまっ…」
突然首筋に衝撃が走り、おれは倒れた。何が何やら分からない。仰向けに倒れたとき、強烈な顔が目に入った。赤い口紅。濃いマスカラ。そして鼻をつく、嫌なにおい。
朝の女だ。
「お前っ!」
女はニヤニヤと笑う。もう一度体に衝撃が走り、それきりおれは意識を失った。
「あれ?」
晃が拾ったのは、松竹梅中学校のカバンだった。名前を書くところには、逵 拓哉とハッキリ記されている。
「おかーさん、これ、拓哉くんのだよ?」
「あら。ホントねえ。」
テッツンの妻であり、晃の母でもあるさやかは首を傾げた。
何故か、拓人と拓哉が二人で暮らすこの部屋の前に、拓哉のカバンが落ちているのだ。
「ピンポンしてみましょうか」
ピーンポーン。
呼び鈴を鳴らしても、返事はなかった。時刻は5時ピッタリ。この時間なら拓哉も帰っているからと、誘われたのだ。それなのに。
「拓哉くん?」
さやかは思い切ってドアノブを回した。すると、アッサリと開くではないか。
「どうしたんだろう?」
晃が不安げな声をあげる。さやかはまたもや首をかしげ、お邪魔しますと部屋に足を踏み入れた。
「拓哉くん?」
声をかけても返事はない。どの部屋をのぞいても、人影はなかった。
「おかーさん、拓哉くんどこ行っちゃったの?」
晃が不安げに声を上げた。もう10歳だというのに甘えん坊で困る、とさやかはいつも愚痴を零すのだが、今はそんなことを言ってられる場合ではなかった。
「大丈夫よ、きっと。何か事情があるんだわ。一応電話しておこう」
少しだけ、不安な気持ちが膨らむさやかだった。
「え?」
「拓人?」
隣で驚いた声を挙げた拓人。いつものほほんとした拓人が、一体何に驚いたというのだろう。
「はい、はい…分かりました。」
拓人は携帯を切ると、頭を抱えた。
「拓人、どしたんだ?」
「テッツン…」
そう呻いて、こちらを見上げる。明らかに様子がおかしい。
「拓哉が…いないんだって…」
消え入りそうな声。全く。拓哉くんだって13歳だ。まだ5時だし、友達や先輩に誘われてフラフラと出かけてしまうことだってあるだろう。何をそんなに心配するんだ。
「大丈夫だって、拓哉くんだって中学生なんだし」
「ちがーーーう」
何が。
「カバンが家の前にほっぽり出してあって、鍵も開いてたんだと。拓哉は晃くんたちとの夕食を楽しみにしてたんだ、出かけるはずない。何かあったんだよ!!」
拓人が気も狂わんばかりに呻いている。どんだけムスコンなんだ。とあきれていると、
「拓人クン!!」
戸塚部長だ。昨日と同じスーツ。
「大丈夫?拓哉くんが居ないの?」
やれやれ、今の話をすっかり聞いていたらしい。
「いいわよ、早退しても。何かあったら大変でしょう?」
おいおい。どうしてどいつもこいつも拓人に甘いんだ。
世の中は理不尽だ!!
「いいんですか、部長!」
「ええ。昨日の借りもあるし。」
そういってペロリと舌を出す。あぁ、やっぱり美人だ。普通の男なら少しはぐらっと来るもんだが、拓人にはこれっぽっちも関係ない。なんせ、息子が最優先なのだから。
「都島。あんたも行っていいわよ」
「え!?良いんすか?」
「うん。そのかわり、」
耳元に口を寄せる。
(どうだったか教えなさいよ)
(了解ッス!)
かくして、都島と逵の花屋コンビは会社を後にした。
そのときである。
プルルルル・・・
拓人の携帯電話が鳴った。
「なんだよ、全く」
拓人が舌うちをして、電話に出る。
「もしもし…?は?・・・ちょ、なに言ってんだよ。・・・おい、おい!」
はて。
どうしたんだ?と尋ねると、拓人は唇をわなわなと震わせてこういった。
「あの女…許さん!!」
そう言って、駅へと走り出す。
「待てよ!!」
足には自信があるんだ、これが。
「何があったんだよ?」
「話す暇はない。警察を呼んでくれ。」
「はあ?」
「こりゃま荘の向いのアパートの405号室。」
拓人がさらに加速し、おれは置いてきぼりになった。
風が足元にからみついて空へと昇って行った。