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 コンコンとドアがノックされる。

 どうぞぉ、と母さんが明るい声で返事する。僕はパイプ椅子に腰かけたままドアを振り返った。

「こんにちはぁ」

 ドアを開けてこちらの様子を窺うように佐伯が顔をのぞかせると母さんは嬉しそうに佐伯に向かって手を振った。

「いらっしゃーい。あら、可愛い!光太郎も見てみなさいよ。佐伯さんったらK高校の制服が良く似合うわ」

「そんな。中学の時もセーラー服だったからほとんど代わり映えしませんよ」

 佐伯は制服姿の自分を見下ろしながら少し照れた笑いを浮かべて謙遜した。額をそっと拭うのは恥ずかしさに赤面したからではないだろう。今日は天気がすごく良い。梅雨前なのに外はもう真夏のような日差しだ。

「佐伯さん、見てあげて。光太郎も一人前にブレザーなんか着てるのよ」

「そりゃ着るさ」

「お、T学園の人だ」

 佐伯が眉を上げて分かりやすい驚いた表情を示す。

「初めて見たわけじゃないだろ」

 僕はこの春からT学園に通っている。私立だけあってブレザーのデザインも洗練されていると世間で言われることもあるが、僕はまだしっくりきていない。襟が立っている中学のときの学生服と比べて首筋がスースーして何だか心もとない感じがする。

「あたしがセーラー服なのにブレザーなんて生意気」

「何だよそれ。しょうがないだろ、制服なんだから。それより、外ってまだ暑いの?」

「うん。この時間になっても日差しはまだ強いな。でも少し風が出てきて気持ちいいよ」

「じゃあ、みんなで散歩しましょ」

 母さんはベッドから下りてサンダルに足を通した。クローゼットを開き中から麦わら帽子を取り出す。佐伯が初めて見舞いに来たときにプレゼントしたものだ。

「あ、それ!使ってくださってるんですか?」

「もちろん。気に入ってるのよ」

 母さんは麦わら帽子を被り少しつばを上げると意気揚々と歩き出した。

「よく似合ってます」

 そのまま喋りながら佐伯と母さんは並んでドアの外へ出ていき、僕は一人置き去りにされてしまう。なぜだか分からないが二人は馬が合うらしい。息子を置いて息子の友達と歩いていってしまう母さんと友達をそっちのけで友達の母親と談笑する佐伯に苦笑しながら僕は二人を追いかける。

 そんなの気にしないでくださいよ、と目を大きく見開いて手を横に振る佐伯に並びかける。

「何を気にしないの?」

 僕が佐伯の顔を見ると「あたしに訊かないで」と佐伯はその顔を母さんに向ける。

「私が光太郎にT学園に行けって勧めて、それを光太郎が実践したから二人が離ればなれになっちゃったのよね。だから、恋愛の邪魔をしてごめんねって謝ってたのよ」

「は?」

 僕は顔が真っ赤になるのが分かった。母さんは何を勝手な想像をして勝手に詫びを入れているのか。母さんの頭の中では僕と佐伯が付き合っていることになっているようだ。

「お母さん、いろいろ勘違いされてますよ」

 佐伯がきっぱりと言い切る。僕は佐伯の横で深く頷いた。しかし、心の中ではがっかりしている部分もあった。もちろん、僕と佐伯は付き合ってなどいないが、こうもはっきりと言われると少し胸が痛い。

「あら、違うの?」

「はい。光太郎君はお母さんの勧めがあったからっていうのもあると思いますけど、もっと大きな理由があってT学園への進学を決めたんです」

「ちょっと、それはいいよ、佐伯」

 僕は慌てて佐伯の袖を引っ張る。しかし、佐伯は「あたしはもう佐伯じゃないって」と言いながら腕を振って僕の手を離させる。確かに、この春から佐伯は柳田に姓が変わっている。脳外科の権威であり母さんの命を救ってくれた柳田と正式に家族になったのだ。

「光太郎君は、お母さんが倒れて手術で一命を取り留めた時に自分の無力さと医療への憧れを強く意識して、医者になる夢を持ったんです。T学園は将来の医学部進学で有名な高校なので」

「そうだったの?じゃあ、光太郎は将来お医者様になりたいの?」

 あの日、長時間の手術を終えた柳田の顔は疲れ切っていた。最善は尽くしたがどうなるかは本人の生命力次第、と肩を落としたその姿を見れば彼がどれだけ母さんのために心血を注いでくれたのか理解できた。額に汗を浮かべ目は充血し頬は殺げている。大凡精悍とは言えない今にも倒れそうな柳田の表情が僕にはとても恰好良く見えた。彼が執刀し、そして「最善を尽くした」と言ってくれたのである以上あとはどういう結果が出ても僕は納得できると思った。そして僕もそういう風に思われる人間になりたいと強く憧れたのだ。

 これが……。

 夢なのか、とそのとき僕は悟った。夢という名の島があるとするならば荒れ狂う大海原の波頭の崩れたその先に岬に聳える灯台の微かに瞬く遠い光を一瞬間垣間見た気がしたのだった。

「ま、まあそうかな」

 僕は曖昧に笑った。まだ明確に「医者になりたい」と断言できるほどそれに向けて努力をしているとは言えない。夢を口にするのはそう簡単なことではない。なぜならそれは叶えなくては意味がないと僕は思うからだ。

「それに離ればなれの前にくっついてませんから」

「あら?じゃあ、あなたたち付き合ってるってわけじゃないの?」

 母さんが麦わら帽子を押さえながら躊躇なく渡り廊下から中庭へ足を踏み出す。日差しが強く照っているが佐伯が言った通り風がそよでいて心地良い。

「そうなんです」佐伯は僕を振り返ると意味ありげな視線を絡ませてきた。「まだ、付き合ってません」

 佐伯はずるいような笑いを見せて僕の胸を両手で軽く突き離すと母さんを追って駆けていった。

 まだ?……まだ?……まだ?

 僕は立ちつくして佐伯の言葉を頭の中でリフレインさせる。


 来週、退院ですね。

 そうなのよ。家の中はどうなってるのかしら。早く退院したいけど、それを見るのも怖い気がするわ。

 確かに。三年近く男二人暮らしだったわけですからね。

 そう。よくあの二人でやってこれたわよね。


 母さんと佐伯が初夏の日差しの中にこやかな表情で歩いていく。

 僕はそれを黙って見送る。

 佐伯は母さんが麦わら帽子を被って草原を散歩する絵を描きたいと言っていた。あのジョーンブリヤンの絵具を使って。晴れ渡った空の下。明るく照らされて母さんの頬は白く淡く輝いている。佐伯が描き上げるであろう絵が僕の中でくっきりとイメージできる。

 二人の姿が不意に滲んでぼやける。通り過ぎる風が僕の目じりをひんやりと撫でていく。そのひんやりとした感覚は頬から顎にかけて一筋のラインを作った。

 光太郎。

 光太郎。

 二人が振り返って僕を呼んでいる。僕はさりげなく目じりを拭って光の中へ思い切り駆け出した。僕は後で佐伯をつかまえて今日のうちに「まだ」がいつになるのかはっきりさせようと思っていた。


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