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 僕と佐伯は廊下から教室の中を覗き見た。誰もいないことを確認してサッと忍び込み、自分の荷物を手にすると素早く廊下へ出て下駄箱を目指した。

 クラスの誰にも会いませんように。

 口の中でぶつぶつつぶやきながら小走りで階段を降りる。冷え切っていた身体が少しずつ温かくなってくる。

 結局クラスメイトの誰にも見つからず僕と佐伯は靴を履きかえ自転車置き場に辿り着いた。

「あー、良かったぁ」

 僕が自転車のかごに鞄を入れ大きく息をつくと佐伯が不機嫌そうな声を出す。

「何であたしたちがコソコソしなくちゃいけないのよ」

 僕と佐伯は結局授業が終わって放課後になるまで屋上で風に吹かれていた。梶田先生に呼びだされて授業をさぼって何をしていたのか、みんなに訊かれてもどう答えたものか分からなかったからだ。

 とりあえず今日さえ乗り越えれば何とでもごまかすことができると僕は思っていた。

 しかし、地上十五メートルあたりを吹き過ぎる秋の風を心地よく感じていられたのははじめの十五分ぐらいのものだった。美術準備室でのやり取りで高ぶっていた身体の熱が放出されていくと次第に僕と佐伯は扉で風をよけて身を寄せ合い小刻みに足踏みしたり手で身体をさすったりした。

「もう、こんなところで時間潰してられない。訊かれたら本当のことを言ってやればいい」

 寒さにうんざりして教室へ帰ろうとする佐伯を僕は必死になだめた。

 日が傾き気温がどんどん低下していくのを僕たちはまさに肌で感じていた。

 やがて授業の終わりを告げるチャイムが流れた。

 眼下に現れた生徒の中には薄手のコートを羽織っている者もちらほら見えるなかで防寒のためにと佐伯に学生服の上着を献上していた僕は懸命に胸や腕を掌でこすって熱を起こしながら人の波が消えるのを待ったのだった。

「顔色悪いよ。風邪ひいたんじゃない?」

 横で自転車を漕ぐ佐伯が少しも心配する風でなく指摘する。

 お前のせいだ、とも言えず僕は黙ってペダルに込める力を強くした。

「ちょ、ちょっと、そんなに速く進めない」

 佐伯は自転車のハンドルに掛けるようにして持っている大きな紙袋が風で前後左右に揺れるのを制御するのに四苦八苦していた。

 その紙袋には佐伯が僕の母さんに選んでくれた麦わら帽子が入っている。

 僕は校舎から生徒がいなくなるまで屋上で待つことの条件に今日佐伯を母さんが入院している病院に案内することを約束していた。

 僕はずっとどういう風に佐伯を母さんに紹介するか頭を悩ませていた。

「やっぱりここか」

 病院に着くと佐伯は建物を見上げて嘆息した。

「ここら辺で大きな病院って言ったらここぐらいしかないだろ」

「それはそうだけど」

 あんなにせがんだくせに彼女がここへきてどこか困惑気味に見えるのはどういうわけだろう。

 院内に入ると佐伯は僕の腕時計を覗きこんできた。

「今、何時?」

「もうすぐ四時半」

「お母さんって何時に起きるんだっけ?」

「あと十分ぐらいかな」

「じゃあ、少しあのあたりで待ってようよ」

 佐伯は受付前の待合用に並べられたベンチを指さした。

「個室だから病室で待ってようよ。俺はいつもそうしてる」

 せっかく見舞いに来てくれたのにせわしなく人が行き交うロビーで待たせては申し訳ない。

 しかし、彼女は少し冷やかな目で僕を見た。

「あたしは光太郎じゃないから」

「どういう意味?」

「光太郎は家族じゃん。あたしは赤の他人。勝手に寝顔見るなんて失礼なことできない」

「そんなこと気にしないよ」

 いつも自分本位の考え方をする佐伯がそんな乙女チックなことを言うなんて僕は少し笑ってしまった。母さんが寝顔を見られたからって怒ることなんてない、と思うのは思いやりに欠けているのだろうか。

「そんなこと言ってるから光太郎はもてないんだよ」

 その発言の方がよほど失礼だ。僕は憮然とベンチに歩を進め先に腰を下ろす。

 佐伯はあたりを見回し壁際に設置された自動販売機に向かった。ホットの紅茶を二つ買ってきて一つを僕に投げて寄越す。

「ありがと」

 僕がポケットから財布を取り出すと「いいよ、いいよ」と佐伯が制する。

「ジュース代なんか請求しないよ」

「見舞いに来てくれたんだから俺が出すべきだし」

「いいよ、そんなの。あたしが無理やり押しかけたんだから、そのお詫び」

 ありがと、と僕は口の中で小さく礼を言った。佐伯がくれた紅茶は僕の身体だけでなく心まで温めていくようだった。ずっと寒さと緊張感に縮めていた心身がほぐれていく。

 僕は缶を両手で挟むように持ちながら佐伯の様子を見た。

 彼女はどこを見るという風でもなくぼんやりと前を向いたままちびりちびりと紅茶を飲んでいた。

 やがて時計は五時近くになり僕たちは腰を上げた。

「喜んでもらえるかな」

 俯き加減の佐伯は彼女らしくない消え入りそうな声だ。

「何を?」

 佐伯は手にした大きな紙袋に目をやった。

「麦わら帽子」

「そりゃ喜ぶよ。すごく気に入ると思う」

「見てないくせに何で分かるの?」佐伯の射るような視線に僕は身を竦ませる。「あーあ、やっぱりもう一つの方にすればよかったな。あっちの方がリボン可愛かったかも」

「佐伯らしくないな」

 また怒られるかな、と覚悟の上だったが佐伯は僕の言葉に一瞬驚いた顔をしただけですぐに、「そだね」と頷いた。

 逆に僕はすでに腹を決めていた。

 男勝りとは言え女の子であることは間違いない佐伯を会わせたら母さんのテンションがどうなるかは目に見えていたが、それも親孝行なんじゃないかと思っていた。今後こんなことはなかなかできないだろう。佐伯には申し訳ないが今日だけは母さんに息子が初めて紹介するガールフレンドの役を担ってもらおう。

 病室の前に立つと僕は間を置かずにノックした。変に気持ちを整えようとして時間をかけると逆に緊張感が高まってしまいそうだった。

 しかし、中から返事はなかった。

 再び腕時計に目を落とす。この時間なら起きているはずだけど。僕はもう一度ノックをしてからゆっくり扉を開いた。

 ベッドの上で母さんはいつものパジャマ姿で座っていた。目は開いていたが、少し様子がおかしい。

「母さん?」

 起きて間もないからぼんやりしているのだろうか。見ているようで何も見ていないような焦点の合っていない感じの目つきで向かいの壁を眺めている。

「こんにちはぁ」

 様子を探るような上ずり気味の佐伯の挨拶にも母さんは応えなかった。

 母さんはこんな顔をしていただろうか。

 虚ろな目。張りのない肌。深く刻まれた皺。

 昨日とは明らかに違う。まるで玉手箱を開けたように一晩経っただけで十歳も二十歳も年をとったようだった。

「母さん?……どうかした?」

 ベッドの脇に立ち母さんの顔を覗き込むようにして大きく声を掛けると漸く母さんが僕を見てくれた。

「あら、光太郎」

「あら、じゃないよ。起きたところなの?ぼんやりしちゃって」

「そ、そうなのよ。ちょっと変な夢を見てすっきり起きられなかったの。どんな夢だったか忘れちゃったけど。あら?」母さんは僕の肩越しに佐伯を見つけたようだ。急にその表情が色を取り戻し明るさを湛える。「あらあら?もしかして光太郎の、えっとこういう場合何て言ったらいいのかしら」

「友達だよ。友達」

 僕は苦笑して佐伯を振り向いた。

「こんにちは。佐伯と申します。突然お邪魔しちゃってすいません」

「いいのよ、そんな堅苦しいこと。ほら、こっちに来てここに座って。光太郎。ぼんやり立ってないでお茶淹れて。冷蔵庫にケーキあるからお出しして」

 息子が初めて異性の友達を連れてきた。案の定そのことに母さんは明らかに舞い上がっている。

「はいはい」

 僕が棚の上のポットの湯量を確認していると佐伯が椅子に下しかけた腰を上げ、「私がやるわ」と寄ってくる。

「いいよ、俺がやるから」

「でも」

「いいのよ、佐伯さん。今どきお茶淹れるぐらいできないような男はだめよ」

 いいからいいから、と母さんに袖をつかまれた佐伯は、じゃあお言葉に甘えて、と椅子に戻った。

「これ、つまらないものですけど」

 佐伯の月並みな言葉に僕は急須にお湯を注ぎながら、クククと少し笑った。

 母さんに紙袋を手渡しながら佐伯が拗ねるような睨み方で僕を見上げる。今まで佐伯に睨まれたなかでは一番怖さが伴っていなかった。

 僕たちは上がっていた。舞台の上で芝居をしているような感覚だった。決められた台詞があるわけではないのにまるで筋書きがあるように一つ一つの動作が、言ってみれば嘘くさい感じがした。

「まあ、ありがとう。何かしら」嬉々として受け取る母さんが中身を見てシナリオ通りさらに喜びを表すのを期待していた僕は次の一言でこれが陳腐なドラマの焼き直しではないことを思い知る。「麦わら帽子?」

 母さんの声に隠しきれない戸惑った色が含まれている。

 何故だろう。欲しいと言っていたのは母さんなのに。

「お気に召さなかったですか?」

 こんな不安そうな眼差しをする佐伯を見たことはなかった。

 母さんはすぐに、ううん、と首を横に振る。

「そんなことないんだけど、もうすぐ秋も終わるこの時期にどうしてこれかなって」

「そう、っすよね……」

 どういうことだよ、という八割は責めるような、残りの二割は助けを求めるような顔で佐伯が僕を見上げる。

 こんな目で見られては頼み込んで買ってきてもらった僕の立つ瀬がない。

「何言ってるんだよ。母さんが麦わら帽子が欲しいって言ってたんじゃないか」

「私が?そんなこと言ったっけ?」

「言ったよ」僕は無実を証明するために大げさに呆れ顔を作った。「俺が母さんに散歩を勧めたときに日焼けが嫌だからって雑誌の中からこういう花柄のリボンが付いた麦わら帽子が欲しいって俺に見せてたじゃないか」

「確かに雑誌を見て、いいなって思ったのはあった気がするけど……光太郎に言ったっけ?でも、光太郎が言うんだから私が言ったのかぁ」

 母さんは小首を傾げる。顎に手を添えて頭の中を整理しているような表情に嘘は見当たらない。

 母さんは本当に忘れてしまったのだろうか。記憶に引っかかりもしない程度のあの場限りの軽い思い付きだったのだろうか。

「でも、これすっごく可愛い。ありがとう、佐伯さん。この季節だって日焼けはするからこれで安心して散歩ができるわ」

 少し無理やりな感じもするが胸に抱き頭にかぶって見せてにっこりと気に入ったことを示す母さんに少し場が和む。ありがとう、と繰り返し頭を下げる母さんに佐伯も自然な笑顔で受け応えできていた。

 忘れてしまったものは仕方がない。重要なことは母さんが喜ぶかどうかだ。

 僕は少しほっとした気分で冷蔵庫のドアに手を掛ける。中を覗き込んで僕はまた少し背中を寒くする。

「母さん、ケーキなんかないよ」

 庫内にはケーキどころか果物一つ冷えていない。缶コーヒーが二本寂しそうにうずくまっているだけだ。

「え?嘘?お隣の部屋のおばあちゃんからいただいたのが確か丁度三つあったと思ったんだけど」

「嘘なんかついてないよ。なあ、佐伯」

 ベッド上の母さんから冷蔵庫の中は死角になって見えない。僕は冷蔵庫の前から身体をずらして佐伯から見えるようにする。

「空っぽ……だね」

 少し言いにくそうに母さんと冷蔵庫に交互に視線を配りながら佐伯がつぶやく。

「ほらね」

 母さんはそれでも納得がいっていないようで口元に手を当て記憶を辿るような顔つきになる。

「おかしいわねぇ」 

 しかし、ないものはない。

 僕は急須から湯呑にお茶を注いで佐伯と母さんに手渡した。自分の湯呑も持って二人に加わり椅子に腰を掛ける。三人でお茶を啜る。あると言われていなかったら何とも思わなかったかもしれないがケーキがないだけで何とも侘しい気持ちになってくる。何かお茶うけになるものはないかと考えているのは僕だけではないようだった。

「何かお菓子はなかったかしら。それにしてもおかしいわね。私が寝てるうちに光太郎がケーキ食べたんじゃないの?」

「なわけないだろ。食べるにしても三つも無理だよ」

「そんなことないでしょ、育ち盛りなんだから」

「甘いものは苦手なの」

「生意気言っちゃって。シュークリームの食べ過ぎでお腹壊して病院行ったくせに」

「何年前の話を持ち出すんだよ」

 僕と母さんのやり取りを微笑を浮かべて見守っていた佐伯もさすがに見かねたのか助け船を出してくれる。

「あのぅ、お茶だけで十分ですから。すぐに、えっと、お暇だっけ?しますし」

 佐伯がそう言っても母さんは息子が連れてきたガールフレンドに良いところを見せたいのか僕に何度も、下の売店で何か買ってこい、と指示し、僕が腰を浮かすと佐伯が押しとどめるという展開を二度三度と繰り返した。いい加減やり取りに飽きてきた頃に、母さんが再び目を輝かせ始めた。

「佐伯さんって」

「はい?」

 母さんが心の中で舌舐めずりしているの分かる。母さんが訊きたいことはあれだろう。

「美術が好き?」

 やっぱり。こうなることはここに連れてくると佐伯に約束したときに覚悟していた。しかし、いざ直面すると僕は俯くしかなく、顔を湯呑に埋めた。お茶はもうなくなっていた。

「好きです。光太郎の、あ、いや、光太郎君のおかげでこの学校でも美術部に入れました」

「あら、佐伯さんって転校してきたの?」

「はい。この二学期から」

「そうだったのぉ。へぇえ」

 母さんは意味ありげに語尾を伸ばして僕に視線を絡ませてくる。僕は脇の下に嫌な汗をたくさんかきながら、さらに一層背中を丸めた。

「どうかした?」

 佐伯が僕の様子を怪訝な表情で窺う。「何でもないよ」と逃げを打ち僕は立ち上がって急須にお湯を注いだ。

「二学期から転校って大変ね。困ったことがあったら何でも光太郎に言ってね。この子、ちょこまかと動き回るのは得意だから」

 言いながら母さんは僕に湯呑を突き出す。

「ネズミみたいに言うな」

 僕は湯呑を受け取りながらぼそっと小さな声で反抗した。

「いつも光太郎君には助けてもらってます。勉強も教えてもらっちゃってますし」

「そうなの?光太郎。しっかり教えて差し上げなさいよ」

「はいはい」

 僕は生返事で母さんのと僕の湯呑に二杯目のお茶を注いだ。

「せっかく仲良くなったんだから高校も同じになるといいわね。そっちの方が楽しそう」

「たぶん同じになるんじゃないかな」

 僕は半ば開き直って母さんに湯呑を突き返した。

「ほんとかよ、光太郎」突然佐伯が僕の隙だらけの胸元に食いつかんばかりに詰め寄ってくる。その勢いに僕は思わず腰を引いてしまう。「あたし、受かりそう?受かりそうなの?」

「あ、ああ。この調子なら大丈夫だと思うよ」

 少し無責任な発言だっただろうか。しかし、佐伯の努力はすごい。席を並べて勉強していると彼女の受験に対する真剣さがひしひしと伝わってくる。

 彼女は明らかに学力を上げていた。家でもかなりの時間を勉強に割いているのだろう。今の調子で頑張ればきっとK高校に合格するに違いない。

「K高校にすごく有名な美術の先生がいるんです。だからあたし、なんとか合格したくって」

 舞い上がり気味の佐伯の説明を聞いてなぜか母さんが少し目元の表情を曇らせたように見えた。

「K高校だと」母さんは顔を佐伯に向けたまま確認するような視線を僕に寄越した。「光太郎と離れ離れになっちゃうんじゃないかな?」

「俺もK高校だよ」

「あれ?そうだったの?T学園受験するんじゃないの?」

 僕は深くて暗い井戸の底を見ているようだった。わずかに差し込む淡い光がゆらりゆらりと反射する水面に、張りのない肌、麦わら帽子に戸惑う母さんの顔、空っぽの冷蔵庫が次々と浮かび上がる。

 目の前にいる母さんが手を伸ばしても到底届かないところにいるように思えてならなかった。僕は気づいていた。ケーキを貰ったという隣の部屋のおばあさんは先月亡くなっている。今日の母さんは記憶に混濁した部分がある。こんなことは今までなかった。

 これが良い兆候であるはずがない。

 僕は母さんや佐伯に気づかれないように懸命に足元から這い上ってくる悪寒に耐えた。足首を目に見えない何者かに強く握られているような感覚だった。


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