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 母さんはベッドで静かに寝息を立てていた。疑いや偽り、裏切りといった人の醜さなど知らないような悲しいぐらい穏やかな寝顔だ。

 眠っている時、人は誰もがこんなに柔らかで無垢な表情をしているのだろうか。

 両親はいつも僕が目を覚ます前に起きていて、僕が寝入る頃もリビングにいた。だから一人っ子の僕はこれまで家の中で誰かが寝ているのを見ることはなかった。ペット禁止のマンション住まいなので犬が寝そべっている姿すら目にすることがない。

 丁度二年ほど前に母さんが交通事故にあって入院することになってから僕は毎日のように母さんの寝顔を見るようになった。

 眠っている母さんはいつも口角が少し上がっているような優しくてあどけない面ざしをしている。その顔を病室で見下ろすたびに僕は少し寂しいような切ないような気持ちになる。

 母親を看病するなんてもっともっと先のことだと思っていた。僕自身が年を取り、その分母さんも老齢になって入れ歯を使い腰が曲がり膝が痛くなって、そうなって初めて「母さんももう年だから仕方がないよ」と諦めとも言える笑いを浮かべ昔の思い出を語り合う。そんな介護の場面は朧に想像することができたが、小学校を卒業して間もなく病院通いが始まるとは思ってもみなかった。

 青白くかさついた感じはあるがまだ十分に若々しい肌をした母さんが病室のベッドで横になっているのを中学生の僕が眺める。それは間違いなく目の前にあるのに今でも現実として受け入れがたい、否定したくなるような景色だった。僕にとっての母さんは家で僕の帰りを待っていてくれる温かくて柔らかい存在であるはずだったのに。

 一時間ほど経っただろうか。母さんはゆっくりと目を覚ます。

 僕を見つけると軽く目尻を下げて、ありがと、と口を動かす。

「光太郎、何かあった?」

 内心ドキリとするが表情は変えない。

「どうして?」

「泣いたんじゃない?目が赤い」

 女という生き物はどうしてこうも洞察力に長けているのだろうか。母さんにしても、沙織にしても、佐伯にしても。ときにその鋭い観察眼で僕を全身麻酔がかかるほど驚かせる。

「ちょっとゴミが入ったんだよ。外は風が強くてさ」

「そう。ならいいけど」

 母さんはじっと僕に注いでいた視線をゆっくり動かし窓を見やる。ベッドから見えるのは光をキラキラと反射させる青々とした葉っぱだけだ。

「少し散歩でもしようか?」

 母さんと二人で歩くのは気恥しいのだが、狭い病室に二人きりでいるのは今日に関しては気づまりだった。

「外は風が強いんじゃないの?」

 母さんは窓の外を眺めている。木々は大して揺れていない。

 僕はぐっと返事に窮したが頭を巡らせた。

「風は南からだから中庭なら大丈夫だよ」

 母さんは上体を起こしちょっとうんざりした顔を僕に向け首を横に振った。

「暑そう。日焼けしたくないし」

「たまには外に出た方が身体にいいんじゃないの?」

「じゃあ、日焼け止め買ってきて。あと、帽子もね。つばの広くて可愛いやつ」

「わがままだな」

「そう言えばこないだ買ってきてくれた雑誌にいいのがあったんだ。あんなのがいいな」

 どこに載ってたかな、と母さんは雑誌を取り出しぺらぺらとページをめくる。

「何で俺がそんなの買ってこないといけないんだよ」

 僕は慌てて思いつきで言ってしまったことを後悔していた。

 ファッション誌で取り上げているようなものがどこで売っているのか僕は全く見当もつかない。しかも女性モノを買うなんて恥ずかしくてできるはずがない。

 麦わら帽子でね、花柄リボンがついてるんだけど。母さんはもう僕の言葉に耳を貸そうとせず、ぶつぶつ独り言を言いながら雑誌の写真に没頭している。

 僕は母さんを止めることを諦めてパイプ椅子から立ち上がり冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注ぎ一気に飲み干す。

「光太郎」

「何?」

 僕は喉が渇いていたらしい。空になったコップに再度麦茶を注ぐ。

「私のことが重荷になってたらごめんね」

 母さんの言葉にびっくりして振り返る。

「何言ってんだよ。重荷だなんて・・・」

「あ!これこれ。こんなのが欲しいの。かっわいいな」

 母さんは僕に喋る隙を与えない。笑っているのか泣きそうなのか分からないような無理やり歪めた感じの表情で僕に雑誌の一ページを何度も指さした。

 母さんを悲しませるような自分ではいけない。それだけは絶対に許されない。僕は自分の少し張りを失っていた心に活を入れた。


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