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 自転車が揺れるたびにカゴに入れた一輪の小ぶりなひまわりがイヤイヤをするように左右に顔を振る。

 もっと優しく扱ってよ、ただでさえ暑いんだから。

 そんな声が聞こえてくるようで僕はハンドルを握る両手にさらに力を込めた。ひまわりには申し訳ないがスピードを緩めるわけにはいかない。僕にできることは汗で滑りそうになるハンドルをしっかり握り少しでも自転車の揺れを少なくすることだけだった。

 巨大に膨れ上がった夏の太陽が轟々と音を立てて熱波を送ってくる。

 その太陽を正面に見据えて突き進む自分の姿に僕はイカロスを思い浮かべる。警告を無視して太陽に近づきすぎ羽を失って墜落したギリシャ神話の孝行息子。スチール製の自転車もこの暑さの前では蝋のように溶けてしまいそうだった。

 そう言えば昨日父に「明日からまた暑くなるらしいから熱中症に気をつけろよ」って言われたんだったけ。

 確かにまとわりついてくる空気の熱さは尋常ではない。自転車を漕げば漕ぐほど体温は上昇し頭の奥がぼーっとしてくる。

 僕は一旦自転車を止め肩から襷に掛けたスポーツバッグからペットボトルのコーラを取り出した。半分ほど残っていた黒い液体を喉に流し込む。

 先ほど買ったばかりなのにすでに湯気が出そうなほど熱くなっていて甘ったるいだけで清涼感は全くない。

 病室の備え付けの冷蔵庫で冷やしなおそうかとも考えたが僕はそのままペットボトルの底を空に向けて飲みほした。身体に悪いから、と炭酸ジュース嫌いの母さんの目にとまればまた小言を言われるに違いない。

とりあえず水分補給という作業を完了し僕はペダルを強く踏み込んだ。

 間もなく五時だ。母さんはもう目覚めているかもしれない。

 僕はどんどん加速した。両手を広げればそのまま空へ浮き上がりそうなぐらいにスピードを上げた。勢いそのままに駐輪場に突進する。

 病院に駆け込み仁科葵とネームプレートの掛かった母の病室の前に立つともう一つ奥の病室のドアが開き、若い看護婦が大きな花束と空の花瓶を抱えて出てきた。

 反射的に僕は手にしたひまわりを後ろ手に回してその女性とすれ違う。彼女が手にしている絢爛たる花々と比べると僕の萎れ気味のひまわりはやけにみすぼらしく見えた。

 ひまわりの一輪挿しなど余計に病室を寂しくさせるだろうか。しかも大分くたびれてきているし。

 僕は頼りなさげに見える細い茎を弄んでひまわりをくるくると回してみる。

「可愛らしいひまわりね」

 声の方を振り返ると花束と花瓶を抱えたままの先ほどの看護婦がにっこりと笑いかけてくれた。

 僕はその笑顔に少し勇気をもらって小さく頷くと母さんの待つ病室のドアに手を掛けた。

「光太郎っ!」顔をのぞかせると待っていたとばかりに窓際に立っていた母さんが声を掛けてきた。「早く、こっちこっち」

「起きてたんだ。ごめん、遅くなって」

「そんなこといいから、早く早く」

 母さんは無邪気な声で僕を呼ぶ。それはまるで新しい洋服をデパートに買いに来た少女のようだった。窓から入り込む西日に頬を輝かせた母さん。そのコロコロと響く声は入院患者とは思えない陽気さだ。ここが病室でなく、母さんがパジャマを着ていなければ誰も母さんのことを病人だとは思わないだろう。

「ほら、あそこ」

 母さんが指さした窓外の病院の壁になにやら茶色い小さなものが見える。あの形は昆虫のようだ。

「蝉の抜け殻?」

「そうよ。きっと昨夜のうちに幼虫がこんなところまでえっちらおっちら上がってきて、ここで羽化したのよ。見たかったわね、蝉が殻を破って飛び立っていくとこ」

「そんなの」

 見たくないよ、と言いかけて僕は口を噤んだ。

 どちらかと言うと母さんは虫が苦手だったはずだ。僕がつかまえてきた小さなてんとう虫が家の中を飛び回っただけでパニックになったし、ゴキブリなんか見るのも嫌で絶対に新聞紙で叩けない。カブトムシやクワガタはそのゴキブリの親戚だと言ってきかない。そんな母さんが昆虫の羽化の瞬間を見たいと言っていることに切ない気持ちになる。

 きっと母さんにとってこの病室での生活がそれほどに味気なく張り合いに欠けるものなのだ。

「あら、ひまわり。小ぶりでかわいい!」

 母さんの笑顔が一層明るくなる。

 その表情に僕は心の中で快哉を叫ぶ。

 母親を見上げる無邪気な幼児のように健気に太陽に顔を向け続けるひまわり。それは母さんの大好きな花だ。だから僕はこの季節には通学路や校庭でひまわりが咲いているのを見つけると罪悪感に苛まれながらも必ず失敬してくる。

「あ、早く活けなきゃ」

 僕はベッド脇の四角くて細長いガラスの花瓶を掴んで洗面所に向かう。

 すっかり俯いてしまっているひまわりを水に差し部屋に戻ると白衣を着た医師がベッドの脇に立っていた。

 ベッドの上に座り血圧を測られている母さんが医師の向こうから小さく手を振る。

 僕は、こんにちは、と医師に挨拶をして花瓶を窓際に置き処置が終わるのを待つ。

 ピピピと電子音が鳴る。母さんが脇から体温計を取り出すと、医師は無言で受け取って病室から出て行った。

 入れ替わりに僕が母さんの横に移動してパイプ椅子に腰を下ろす。

「あの先生、独身かしら?」

 母さんは少し乱れたパジャマを直しながら医師が出て行ったドアに目をやる。

「さあ」

「あんなに大人しくっちゃ一緒にいても面白みがないわよね」

「でもお医者さんって儲かるんでしょ。だったら結婚したい人もいるんじゃない?」

 何の気もなしにそう言うと母さんはじっと僕の眼を覗き込んできた。

「中学生の光太郎には分からないかもしれないけど、お金じゃないのよ、夫婦って」

 将来を憂うような重い口調で言われても困るって。一般論として思いつきで言っただけなんだから。

 僕は話を変えるためにスポーツバッグの中を漁った。本屋の袋を取り出し母さんの膝の上あたりに置く。

「はい、これ」

「ありがとう。いつも悪いわねぇ」

 全然悪いとは思っていない調子で母さんがにんまり笑う。

 中身は三十代の主婦層をターゲットにしたファッション雑誌だ。毎月これを買うのが僕の一番手を焼く任務と言える。

 買い始めて二年近くになるが未だにコンビニエンスストアのレジでは赤面してしまって店員さんの顔をまともに見ることができない。しかしそんなことはあっけらかんとした性格の母さんはきっと思いもよらないだろう。

 エロ本を買うのとどっちが恥かしいかな。友達から借りることはあっても自分で買ったことはないから分からないけど。

「あら、こういうのってかわいいわね。ね?ね?」

 母さんは早速雑誌をペラペラめくり出し、気に入ったものを見せてくる。

 しかし中学三年生の僕は同世代の女子がどんな流行を追っているのかも理解の外。もちろん三十代の主婦の恰好に良し悪しを言えるほどのファッションセンスを持ち合わせているわけがない。決まって上辺だけの「そうだね」を使うのだが、母さんは僕がどうこう言うのを期待しているわけではないようだ。鼻歌交じりに次々とページを繰っていく。

 母親の若作り。見ているこっちが落ち着かない気分になるから、「母さんはもう四十過ぎてるじゃん」って毒を吐きたくなるけど、やめておく。ずっと病室でパジャマ生活の母さんにとってこの雑誌の中の世界ってどんな風に見えるのかな。そう考えるとじりじりと胸が痛い。

「そう言えば明日から二学期ね」

 一通り目を通して気が済んだのか雑誌を閉じて母さんが少し遠い目をして微笑む。毎日院内だけの生活の母さんが今日で夏休みが最後だということに気づいていたことに僕は少し驚いた。

「そうだよ。って言ってもこの一週間毎日補習授業で学校通ってたからあんまり新しい学期が始まるって感じはしないけど」

「どこ受けるか決めたの?」

「高校のこと?」

「他に何か受けるものある?」

「そりゃそうだけど・・・」僕は少し間をとって口を開いた。「K高かなって思ってる」

 僕は近くの県立の高校の名前を挙げた。この辺りの公立の中では一番レベルが高いが僕の成績なら落ちることはないという自信はある。

「どうして?」

 意外にも母さんはまるで嫌いなピーマンを病院食の中から見つけたときのような苦い顔をした。僕の答えに納得していないようだった。

 何故だろう。僕の学力を心配しているのだろうか。

「どうしてってレベル的に大丈夫だと思うから」

「T学園じゃなくて良いの?」

 母の言葉に僕は不意を突かれたような気持ちになった。

 T学園は県内屈指の全国的にも名の知れた私立の進学校だ。僕が通っている中学校からも毎年二、三人は進学しているようだが、僕の今の成績では客観的に見て合格できるかどうか怪しい。

「ちょっと厳しいかな」

「何が?」

「俺の頭では」

「そうなの?」

「そうだよ」

「光太郎って頭いいんでしょ?」

「そんなことないよ」直球でそんな風に訊かれると否定するしかないじゃないか。「とにかくT学園は俺にはレベルが高いの」

 母さんはまだどこか不満そうだった。

 一人息子をT学園に、と期待していたのだろうか。そんな教育ママだったっけ、この人。

 正直、今、母さんにT学園って言われるまで僕はあまりその学校を意識していなかった。受験まであと半年しかない。それなのに来年どこの高校に通うかぼくはまだ真剣に考えたことがなくて、漠然とだけどK高に行くんだろうなって思いこんでいた。

「本当は、お金のことなんじゃないの?」

 そういうことか。母さんが気にしているのは、うちは余裕がないからっていう理由で僕が私立のT学園を諦めたんじゃないかってことみたいだ。

「もう少し頭の出来が良かったら頼み込んででも行かせてもらうんだけどね」

 僕は今、親に二つ嘘をついた。

 一つは頭のこと。

 今の僕の学力から判断してT学園は、全然歯が立たないってわけではない。残り数カ月、死に物狂いで勉強すれば何とかなるかもしれない。今の時点で厳しいからと見切りをつけるのは時期尚早だ。

 もう一つは意気込み。

 他の同級生も同じだと思うけど、僕は高校に対してあまり興味を持っていない。K高に行ったって、T学園に通ったって人生そんなに変わらないだろうって思っている。

 中学三年生の僕にはまだ人生の目標なんて全然見据えられていないし、こんなことをやりたいからっていう明確な志望動機を高校に対して持っていない。自分の学力レベルにあった分相応の高校。そういう物差しでしか高校選びなんてできない。だからたとえ頭の出来が良くても頼み込んでまでしてT学園に行きたいかどうかは分からない。

 母さんにT学園の名前をあげられたとき、僕の体は軽い拒否反応を示して反射的に否定的な言葉を発していた。きっと頭の中で、T学園に行くにはこれから毎日毎日しんどい思いをして机に齧りつかなくてはいけないことだとか、K高ならうちの中学校から二、三十人は行くけどT学園に入ったら知らない人ばっかりで寂しそうだとかいうつまらないマイナスなイメージを作り上げてしまったのだろう。

 まあ僕の高校進学への想いというのはこの程度のものなのだ。

 でも母さんはとりあえず納得したようだった。

「くれぐれもお金のことは心配しないでね。そういうのは何とでもなるんだから。・・・じゃあ、少し横になるね」

 母さんは瞼の重さに耐えきれない様子でベッドの中に横たわった。

 時計を見ると六時半を過ぎたところだった。

 顔を戻すともうすでに母さんは静かに寝息を立て始めていた。


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