二話 幸運とその世界の入り口
しわしわのおじいちゃんな医師が1人の小さな病院、というより診療所。たまに娘さん夫婦(どちらも医師免許を持っている)が子連れで手伝いに来てるくらいで、あとは持病などの患者さんが数人ちらほらとみえるくらい。
それが我が家行きつけ、片道徒歩3分の田中診療所だ。
あのメールがきたときはここがヒットしたことに驚いたけど、よく考えたら小さい子や待ち時間の長い人もいるから導入しても不思議じゃないのかもしれない。というか、そんなに賑わってるようには見えないのだけど、導入費とかは大丈夫だったんだろうか。
そんなことをつらつら考えながら門をくぐり、ガラスの引き戸を開けて中に声をかける。
「おじーちゃん、こんにちはー」
「おぉ、こんにちは。元気じゃったか?」
「ん、元気だよー」
ちょうど休憩していたらしいおじーちゃんこと、田中医師とそんなやりとりを交わす。「そうかそうか」とおじーちゃんがのほほんと言うまでがまとめて挨拶だ。
「そうかそうか。だったら元気に外で遊んでなさい」
「はーい、ってそうじゃなくて。おじーちゃん、病院に新しい機械入れなかったー?」
「うん? 新しい機械?」
おじーちゃんは湯飲みを片手に考える格好。その間に診療所を見回して新しいものがないか探してみる。
私が右手の奥に新しいドアを見つけるのと、おじーちゃんが湯飲みを机において思い出すのとがほとんど一緒だった。
「おぉ、そういえば4月ほど前じゃったか、香津美がなんぞ難しいことを言っとった。かいせんとか、ねっととか、よく分からんから好きにさせたが」
「なるほど、あのドアの向こうだねー。入っていー?」
「ええぞ。確か、香津美が人を居らせとるはずじゃ、その人に聞きなさい」
「はーい」
返事をしてドアに向かう。4ヶ月前、かなり最近に設置されたものということは、つまり最新式の本体ということだろうか。考えながらもとりあえず、曇りガラスのはまった外開きのドアを手前に引き開ける。
ちなみに香津美というのはおじーちゃんの娘さんのことだ。話によれば旦那さんと一緒にかなり大きな病院に勤めている凄腕の医師らしいが、この診療所で見る姿はのほほんとしたいつまでも若い幸せな奥さんといった感じ。のほほん、とした雰囲気は、遺伝?
そういえば、子供さんもどっちかっていうと癒し系の雰囲気だった、と思い出しながら、滑らかに開いたドアの向こうに一歩を踏み出す。
「おや、こんにちは」
「あ……こんにちはー」
そこには何台かの巨大な機械を背景に、白衣を着たお兄さんが立っていた。手には何かのチェック用紙とペン。見知らぬ人だ。そこそこに若くて笑顔がなんだかへらへらした感じ。
「“Lucid Dream”に何か御用かな? それなら悪いけど少し待ってほしい。今簡易メンテ中なんでね」
「はぁ……分かりましたー」
こちらが何か言う前に言われて、私はおとなしく引き下がる。壁際に並べられたいくつかのパイプ椅子を見つけて、その端っこに腰掛けた。
……“Lucid Dream”って確か明晰夢って意味だったような。VRは意思のある状態で見る夢のようなものだから、機械の名前にしては直球というか分かりやすいというか。
そうやって待っていると、数分もしないうちに白衣の人は戻ってきた。
「お待たせしたね。僕は菓咲舟斗、“Lucid Dream”のメンテナンス要員兼田中診療所担当者だ」
メンテナンス要員の肩書きが先に来たあたり、この4ヶ月は暇だったようだ。
もしかして私が始めての利用者じゃなかろうかと思いつつ名乗り返し、先日来たメールのことを話す。そしてそのためにここの機械を使いたい、と。
「『Fragment of "The World"』、か。えーと……ああ、確かに今日からサービススタートだね。ところでそのシリアルだけど、今持ってるかい?」
途中で携帯電話のような端末を操作して情報を確認した菓咲さんは、1つ頷くとそう言ってきた。あのメールをプリントアウトした紙を取り出すと、にっこりと笑顔になって体をずらした。
背後にあった大きな機械は、薬のカプセルを人間1人が入れるくらいの大きさに拡大し、120㎝ほどの四角い箱に立てかけたような形をしていた。菓咲さんは箱の上の部分を持つと、ガコ、と手前に動かす。蝶番でもついていたのか滑らかに開いた箱の内側には、平面部分にキーボードと画面がついている。
なんだこれ。と思っていると、菓咲さんの方が先に口を開いた。
「サービスが始まるまでまだ少し時間があるから、その間に機械のレクチャーをしておこう」
反対する理由はないので頷いておく。
説明としてはすでに知っていた時間の制限についてと、終了30分前に警告が流れ、4時間が過ぎると強制切断されること、ゲームに関する課金はネットマネーによって行うこと、そしてVR本体“Lucid Dream”の利用代金は併設されている施設及びゲームソフト会社に請求するため、プレイヤーが使う分には無料であること、後は常識の範囲で利用することだった。
なお、さっき新しく引き出したキーボードと画面は、今回のメールのようなシリアルコードを入力する際に使うらしい。“Lucid Dream”には現在サービス中の全てのゲームタイトル、そのそれぞれ専用のページが用意されていて、ゲームタイトルで検索して打ち込めばいいんだそうだ。
とりあえず『Fragment of "The World"』で検索し、思いのほかシンプルなそのページに『Free to There』で使っていたIDとパスワードでログイン。プリントしたメールの文面と視線を行ったり来たりさせながらシリアルコードを入力した。1秒と待たず『特典が付与されました』との文面が浮かんだので、ログアウトして入力端末を四角い箱に戻す。
「ちなみに、4時間が過ぎると強制切断されて1時間再接続できないけど、自分で落ちれば1分後には再接続できる」
「なんという裏技。ってかそれ時間制限の意味ないんではー?」
「そのための病院だ。さらに、機械の中に食べ物を持ち込むことはルール違反だけど、僕に預けてもらって機械から身を乗り出して食べるのはセーフ」
「これまたなんという職務怠慢ー。いいのか担当者」
「君はまだ学生のようだしこれから長そうだから、このサービスは特別一回につき100円でどうだ」
「なんだかすごく後ろめたいけど明日からお願いしますー」
最後の会話に不穏なものを含みつつも案外普通の説明が終わると、『Fragment of "The World"』のサービス開始まで10分を切っていた。私はそのまま利用すると答えて、薬のカプセルを人間が入れるくらい大きくして斜めに固定したような、真っ白な機械のふたを開けた。
中には不思議な色のマッサージチェアのような椅子が1つだけ。入り込んで触ってみると、ジェルのようなものを詰め込んでいるようでぷにぷにだった。円形の本体にあわせて曲がっているふたをスライドさせて閉じ、その座り心地最高の椅子に深く腰掛ける。
真っ暗になった機械の中、正面のふた裏にいろいろな注意事項が映し出された。ふたのロックは内側からしか外せないこと、体調に異変があった場合と時間超過の場合は強制的に追い出されること等。
それが終わると今度は装置の使い方が映し出される。私はそれに従って頭にヘルメットをかぶったり、手首に血圧計のバンドを巻きつけたりとごそごそ動く。
チェック項目をすべて満たすとしばらくじっとしているように言われる。ジェル椅子に体重を全部預けて待つこと数秒、『問題なく起動準備が完了しました。ゲーム名を発声することでダイブを開始します』という文字列が並ぶ。
「……いよいよ、か」
いきなり膨らんできた期待と緊張を、深呼吸をすることで追い払う。
それでも期待が勝って残る中、私ははっきりとした発音を心がけてゲーム名をコールした。
「『Fragment of "The World"』!」
引っ張りすぎだと。そのとおりですごめんなさい……