卒業パーティは二回行われた
「卒業パーティーで婚約破棄を言い渡した王子は、身分を剥奪され平民として鉱山送りになったそうです」
我が婚約者殿が本をぱたりと伏せて告げた瞬間、彼女の横顔にふわりとした陰が差した。
いつもの柔らかい表情のまま、それでいて、わたくしなにかやってしまいました? とでも言いたげな眼差しが、宝石のようにきらりと光る。僕はその表情が好きで、これをみると何もかもに「仕方ないなあ」と言ってしまいそうになる。戦いの前から白旗を振って降参だ。たとえその本が僕が買って先に読ませてあげた最新刊であろうとも、全部良いよ。何も問題ない。君が美しいことが罪ならばそうだけど、無罪が判決されるまで僕が弁護にまわろう。
「君の後に読む約束だったけど、もしかして凄いネタバレを投げつけられたのかな?」と軽く笑ってみせると、彼女は小鳥のように首を傾げて「読むほどの価値はありませんよ」と言う。
「それを決めるのは僕だね……」と返したそばから、婚約者殿は右手を軽やかに掲げ、“チョキン”と小気味よい動きを作ってみせた。まるで庭園で花を摘むみたいに無邪気で、けれど口から出る言葉は容赦がない。
「愚かな王子様は断種して鉱山送りですわ」
その声音は澄んだ鈴のように上品なのに、内容だけは妙に物騒だ。けれど僕は知っている。このイタズラめいた笑顔は、幼い頃のおてんばだった頃の名残で、外の世界には決して見せない“彼女の本当の顔”だということを。
普段の彼女は、絹のように静かな淑女そのものだ。姿勢は優雅で、振る舞いは完璧で、教師からも“お手本”として推薦される理想の令嬢。だが僕の前では……その完璧な仮面の下に隠している、子供みたいないたずら心や奔放さを惜しげもなく晒してくれる。
だからこそ、その仕草ひとつに胸が締めつけられるほど愛しさがあふれ、同時に僕の想像力は悲鳴をあげた。
「な、何かをチョキンとする仕草は……やめてくれ。想像してしまう」
思わず眉を寄せて訴えると、彼女はゆっくりと首を傾け、小悪魔のように唇を弓なりに上げた。青い瞳が楽しげに細められる。
「あらあら、断種では足りないかしら?」
さらなる追撃。
わざと上品な声音で、わざと楽しそうに。僕を困らせたいのか、笑わせたいのか……全部なのだろう。ふたりの間にしか通じない“残酷な冗談”は、他人が聞けば眉を顰めるだろうが、僕にとっては蜜のように甘い。それだけ僕を信頼してくれている証拠だからだ。それを言っても僕は彼女を否定しないし窘めたりもしない、楽しく話をしてくれる……2人で積み重ねた時間が、僕たちにそういう信頼関係を築かせた。
まったく、恋は盲目という先人の言葉は確かで、本当に厄介だ。こんなふうに心臓を掴まれて、文句ひとつ言えない自分が、誰よりも幸せな愚か者なのだから。
「お子が作れなくなりますわ。撒き散らす危険はありませんよ」
「『その処遇に同情した侍従が代わりとなり、王子は生殖能力を失うことなく市井へ降りた。そしてそこで出会った女と世帯を持ち、この子供は正当なる王家の血を引く者だ』……と、それっぽい子供を用意して旗印にしよう」
「あらあ〜〜……」
貴族の政治なんて夢物語を書く作者には一生理解できまい。………と、僕なりのフォローを入れると、婚約者殿は「作者は男爵家の者ですよ」と事もなげに言った。僕のフォローは一瞬で無に帰したらしい。「ああ、なるほど。二ヶ月後には男爵家がひとつなくなりそうだ」と軽く肩を竦めることしかできなかった。
貴族が怒るときは罪そのものより“馬鹿を晒したこと”に怒る。誇りとはそういうものだ。
ましてや男爵家の者が平民レーベルで本を出しているなど、脱税と虚偽の流布の合わせ技で即日家取り潰し案件だ。平民作家の稼ぎ場を荒らすなど、なんて悪辣な者だろう。
話題が続き、「婚約破棄といえば第三王子の事ですが」と彼女が言うので、「第三王子? そんなものはこの国にいないよ」と返すと、彼女は本の中の“第三王子”の話だと説明してきた。
「彼にはどのような罰が妥当でしょうか? 首を落とす? 火であぶる? 裸にして馬に引かせ、石のつぶてを投げつけましょうか」
普段穏やかな彼女からは考えられないほど過激な選択肢が淡々と並ぶ。
そのギャップが……胸に悪い。本当に悪い。好きだ。あまりに好きすぎて新しい扉が軋んだ音を立てて開きかけたが、どうにか理性で閉じて鍵をかけた。鍵は脆い。いつか折れるだろう。
「妥当な罰となると……」と考え、僕は指をひとつ鳴らして答える。
「『第三王子はいなかった』。そんな愚かな者は、いない。だから誰も罰を受けないだろうね。ただし、栄えあるパーティの場を穢した愚か者には罰が下るだろう。その亡骸は処刑場に続く見せしめの道に永劫飾られるだろう。名前の無い犯罪者として」
水晶に閉じ込められた犯罪者たちの亡骸は、僕たち貴族にとっては季節の花と同じような感覚だ。
夏のデートはもっぱらそこへ行く。ひんやりと涼しいし、花は多いし、飾られた死体たちは選りすぐりの美形ばかり。
心臓を抜いて宝石を嵌め込んであるのも芸術性が高い、と僕たちは本気で思っている。僕たちの世界では、死と処罰は季節の花や美しくカッティングされた宝石と同じように観賞される。
それが正しいのか?─────少なくとも、僕はそう疑ったことはない。国家運営の素晴らしい見世物だ。我々の納めた税が正しく使われている証拠である。
「現実ってつまらないものですわねえ……」と婚約者殿が嘆息し、僕はその横顔にひそやかな愛を覚えながら、「そういうものさ。そうだ、久しぶりに見せしめの道に行こうか? 新しいものが入ったらしい」と誘った。
「肌寒いかしら」とつぶやく彼女の横顔に胸が弾む。
「なんて丁度いいんだ。愛しい君にドレスを贈る権利を下さい」
「ええ、愛しい貴方。貴方の思うままにわたくしを飾り立てて」
ああ、本当にどうしようもなく好きだ。胸の奥が甘く焦げつくように、もう逃げ場もないほどに。
もしこの世に神が存在するのなら、きっと僕は誰よりもその祝福を受けているのだろう。だって、僕の最愛の人が、僕が彼女を想うのとまったく同じ熱量で、ためらいもなく僕を想ってくれている。その事実は、彼女の瞳を覗き込むだけではっきり分かる。
春の空のような清々しい青の瞳。その透明な青一面に、僕の顔が静かに揺らめいているのを見るだけで、指先がわずかに震える。どれほどこの景色を求めてきたのか─────その答えが、喉元まで込み上げて息を熱くする。
きっと僕の瞳にも、同じように彼女の横顔が映り込んでいるのだろう。世界全体がふたりの輪郭だけで満たされていくようで、まるでこの世に僕たちふたりきりしか存在しないのではと錯覚してしまうほどだ。
どちらともなく手を取って、しばらくぼんやりと見つめあっていた。
指を、掌を通じて、鼓動が静かに伝わりあう。その些細な温度に、どうしようもなく幸福という毒が染み込んでいく。
そこへ、控えていた使用人が「ご準備が整いました」と淡く声をかけてきた。僕たちは揃って小さく息をつき、ふたりの世界にそっと終止符を打つ。
さて─────水晶漬けになった金髪碧眼の、美しい愚か者を見に行こうか。
あの場所は毎年この時期、僕のいちばん好きな色で彩られる。もちろん、婚約者殿の瞳と同じ、美しく深いブルーの花々だ。青が風に揺れれば、彼女が微笑んだように感じられて、胸がくすぐったくなる。
僕たちの卒業パーティーを穢した“名前の無い犯罪者”。年齢は僕たちと同じくらいで、顔立ちの整った少年だった。
けれどその名札には名前がなく、代わりに罪名だけが残されている。
余談だが……最近、公爵令嬢が婚約者を探しているらしい。そこでふと思い至ったのだけれど、僕の弟などどうだろう。年齢は少し下だが、僕に似てそこそこ美形だし、家柄にしても性質にしても申し分ない。
僕の人生で数少ない“自信を持って勧められるもの”のひとつだ。弟には荷が重すぎるかもしれないが……まあ、そのあたりは本人の努力次第ということで。
最後にひとつ思い出話をしよう。
見せしめの道には、水晶漬けにされた死体の前に小さなネームプレートが立てられていた。そこに刻まれていた罪名は……『真実の愛』。
その眩暈のするような言葉を目にした瞬間、僕たちは揃って膝から崩れ落ちそうになった。笑いすぎて、使用人の腕にすがらなければまともに立っていられなかった。
突然の不意打ちとは、こういうものを言うのだろう。婚約者殿が僕の耳に唇を寄せ、くすりと笑って囁いた。
「俺は真実の愛に目覚めた! 婚約破棄を言い渡す!」
わざと低くしたその声があまりにも楽しそうで、また息が止まるほど笑ってしまった。1度笑うと中々止まらない僕を、彼女はこうやってからかってくる。貸し切りにしていて本当に良かった。あんな顔、身内以外に見られていいものじゃない。
恋というものは、時に残酷で、時に可笑しくて──そしてどうしようもなく甘い。
僕の真実の愛が、法にも世界にも、そして神々のまなざしにさえ認められるものでよかったと心の底から思う。
もしそれらが僕たちの前に立ちふさがる壁だとしても……僕はそのすべてを越えて彼女を選んだだろう。だが現実は、むしろその正反対だ。世界は静かにうなずき、神々は祝福を落とし、法は何ひとつ僕らを罰しなかった。まるで“それでいい、そのまま進め”と言わんばかりに。
いや、考えてみれば当たり前の話だ。そもそも“真実の愛”とは、そうしたものなのではないか?
権力にも倫理にも裁定にも屈さず、ただまっすぐに貫かれ、差し出されれば誰もが美しいと頷く……そういう、選ばれたものだけが抱ける特権的な炎なのだ。
すべてに祝福され、すべてに肯定され、誰の前に差し出しても誇れるような、清らかで満ち足りた光の形……それこそが“真実”の名を冠するにふさわしい。僕たちの愛は美しく、穢れず、誰にも曇らせられない。
……否、僕はむしろ信じている。この愛自体が世界を照らしているのだと。
そもそも、世界とは僕たちのために用意された舞台装置のようなものではないかと時々思う。
王侯貴族がどれほど気まぐれに法を振りかざそうと、断罪も処罰も、生死さえも──僕たちの愛の前ではただの背景にすぎない。
僕と彼女が並んで歩けば、残酷な見せしめの道でさえ風景画の一部となり、処刑された美しい死体でさえ僕たちのための飾り付けに見えてしまう。
愛という光があれば、世界の歪みはすべて輪郭が柔らかくなる。
人々は僕らを咎めないし、神々は沈黙したまま祝福を降ろす。
誰も反対しない。誰も止めない。
まるで、僕らの歩む道にだけそっと絹の敷物を敷いてくれているように。
だから僕は確信している。
これは僕たちの物語であり、世界はただその続きを見守っているのだと。僕が彼女を想い、彼女が僕を想うというただそれだけで、万物の秩序は喜び、天は姿勢を正し、地は静かに従うのだと。
そう考えると、この水晶漬けの愚か者のネームプレートに刻まれた罪名は、やはり誤りなのだろう。
あれは文字通りの皮肉であり、見せしめの飾りであり、この国の職人たちが作り上げた美術品にすぎない。本物の“真実の愛”など、そこには欠片もない。
─────“真実の愛”を罪にできるほど、この世界は傲慢ではないはずだ。
世界は僕らに抗わないし、神々は僕らを咎めない。
僕らの愛は罰ではなく、祝福の側にある。
そしてその揺るぎない確信が、今も僕の胸の奥で静かに熱を灯し続けているのだ。




