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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水は方円の器に随う

作者: アザとー

「市川さんっていたじゃない、ドア開けっぱなしでトイレするおじさん、あの人ねえ、死んじゃったらしいのよ」

 僕にその話を教えてくれたのは、事務方の大橋さんだった。

 うちみたいな小さな運送会社では大橋さんが人事であり、経理であり、庶務も兼ねているから、市川さんが勤めていた時のことを、警察が確認に来たそうだ。

「それでね、私聞いたのよ、事件ですか事故ですかって、事故扱いですって、業務上過失致死、飲食店にウォークイン冷蔵庫ってあるじゃない、あれに閉じ込められて死んじゃったんですって」

 取り留めなく語られた大崎さんの話を時系列順にまとめるとこうだ。

 この会社を半年前に辞めた市川さんは、飲食業界に勤めを得た。ところがこの市川さん、本人曰く閉所恐怖症であり、車に乗るときは窓は開けっぱなし、冷房を効かせているのに部屋の窓を開ける、トイレもドアを開けたままで用を足すなどなど、神経質な人にとっては許し難い悪癖があった。

 そして、新しい勤め先の上司はこの、神経質な人の部類だった。市川さんが開けっぱなしにしたドアを、怒りながら閉めて回るような人だったらしい。

 その日は棚卸しで、市川さんはドアを開けっ放しにしたまま、ウォークイン冷蔵庫の食材をカウントしていた。そこに通りかかったのが件の神経質な上司。

「開けっぱなしにしたら、あったまっちゃうだろ!」

 怒りを込めて分厚い鉄製のドアを叩きつけるように閉めた。がちゃりとラッチの噛む音がしたと。

 もちろんこの上司に殺意はなかった。

 ドアの内側には扉を開くためのハンドルがあり、中からドアを開くことは簡単だ。ドアを閉めたが“閉じ込めた”わけではない。

 ところが、市川さんがドアを開けることはなかった。ちょうど忙しい夕方のピーク中だったこともあり、誰もバックヤードに立ち入らなかったことも災いした。

 小一時間ほどして食材の補充をしようとバイトの女の子が冷蔵庫のドアを開けると、市川さんはよく冷えた死体となって転がっていたと。

「でね、いっときは閉所恐怖症によるパニック状態で何か事故があったんだろうって処理されたんだけどね」

 他に誰も聞いている人はいないのに、大崎さんは声を顰めた。

「解剖してみたら、市川さんの体の中水浸しで、死因は“溺死”だって判断されたんだって、水のないところで溺死なんて、これってオカルトじゃない?」

 人ひとりが死んでいるのに——それも多少なりとも顔を見知っている相手だというのに、まるでワイドショーの出どころ不明なネタ話みたいに盛り上がる大崎さんの態度は、正直、僕にとっては不快だった。

 いきおい返事もおざなりになる。

「へえ、不思議ですね」

「やだ、反応悪い。あなた、市川さんと仲良かったじゃない、もっとこう、なんかないの?」

 別に仲良くは無かった。

 市川さんはコミュニュケーション能力に問題があって、僕以外は話をする相手がいなかっただけだ。僕だって仕事上の人間関係をギスギスさせたくなくて最低限の話し相手をしていただけであって、特に仲良くしたつもりはない。

 だけど確かに、この会社で市川さんと真っ当に話をしていたのは僕だけなのだから、

 側から見れば仲が良いようにも見えたのだろう。

「本当に、仲良くなんて無かったんですよ」

 僕はそう言ったけれど、大崎さんは納得しなかった。

「仲良かったじゃない、休憩時間に話してたし、ねえ、本当は何か聞いてるんでしょ?」

「何か?」

「市川さんが溺死するような、なんかオカルトな話を、よ、あの人が異常にドアだの窓だの開けて歩いていたの、あれ、何かオカルトっぽい理由があったんじゃないの?」

 女の勘というのは侮れない——だけど僕は曖昧な返事を重ねて大崎さんを誤魔化し、その場を後にした。

 社員寮の自分の部屋に戻った僕は、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。

「そうか、市川さん、死んだのか」

 缶を軽く掲げて「献杯」と呟きながら、僕は件の男を思い出していた。


 市川さんは、見てくれだけなら、どこにでもいるような"普通"のおっさんだった。

 歳は五十代なかば、背は高くもなく低くもなく中肉中背で、頭は年相応に薄くなりかけているけれどハゲている訳でもなし、ともかくこれといった外見的特徴のない人だった。

 だが行動の方は、その見てくれの“普通”さを裏切る奇行が多かった。

 市川さんがうちの運送会社に勤めていたのは冬の三ヶ月間――うちみたいな小さな運送会社では、繁忙期には人手が足りないので、短期で勤める人を増員することがある。市川さんはそうした短期契約の準社員だった。

 僕は市川さんとペアを組まされて、彼を助手席に乗せて走ることになったのだけれど、市川さんはトラックに乗っている間中、絶対きっちり漏れなく窓を全開にしていた。それも神経質すぎるくらいに。

 トラックに乗る時、市川さんはまず僕が乗ってエンジンをかけるのを待つ。エンジンがかかったのを確かめると最初にドアを開けて、その状態で窓を全開にする。それから車に乗ってドアを閉めるという手順を、毎回きっちり守っていた。

「どうしてそんなことをするんですか」と聞けば「ごめんなあ、閉所恐怖症で、窓閉められると息が詰まっちゃうんだわ」と謝られたけれど、あれは僕に言わせれば閉所恐怖症なんかではなく、“閉塞恐怖症”だった。

 窓がない空間や、狭い場所には絶対に入らない。当然、エレベーターには乗らないし、トイレに入ってもドアは開けっぱなしだ。

 うちの休憩所は簡素なプレハブ小屋で、その隣にレンタルの移動式便所が置いてあるのだけれど、扉が開いてるなと思って閉めようとすると、中で用を足している市川さんと目が合う、なんてことが何度もあった。

 休憩所に入ってくる時も、薄い引き戸を開けっぱなしにする。プレハブの中はでっかい灯油ストーブをガンガン焚いてあっためられているが、そのあったまった空気が開けっぱなしの扉から吹き込んできた風に一気に吹き散らされて体感温度が一気に下がる。そのせいで休憩中のむくつけきおっさんたちとトラブルになることも度々あった。

「おい、市川、ちゃんと戸ぉしめろや!」

 怒鳴られると、市川さんはペコペコと頭を下げる。

 市川さんは声を荒げたりすることのない、温厚な人だった。

「ごめんごめん、すぐ出ていくから、ちょっとだけ我慢したってください、ほら、俺、閉所恐怖症だから」

 実際に市川さんは気を遣ってか、休憩室にずっと居座るようなことはなかった。弁当を食うのも吹きっ晒しの中、そこらに転がっているパレットを椅子がわりにして食ってたし、暇を潰すのも表に座って、ぼんやりと空を眺めていることが多かった。

 だから市川さんには車内で親しく話をするような相手が一人もいなかった。

 ある時、休憩中のおっさんの一人が、実にくだらない悪戯を思いついた。

「なあ、市川がいる時にさ、ちょっと戸ぉ閉めてみん?」

 周りはゲラゲラ笑いながらそれに同調した。

「やめてやれよー、閉所恐怖症だって言ってんのにさー」

「あんなん気の問題だろー、むしろショック療法で治っちゃったり?」

「それに、気の病気ってことはさ、別に死ぬような病気じゃないわけでしょ、ちょっと脅かすぐらいいいじゃん?」

 僕はそういうくだらない遊びには興味がない。だから悪戯に参加もしなかったし、だからといって止めることもしなかった。

 おっさんたちは休憩所横の移動式トイレで大便をしている最中の市川さんを狙った。

 移動式トイレは和式で、大便をするときは扉に背を向ける形になる。

 市川さんが閉所恐怖症であることを慮っていた僕は、彼が戸を開けっぱなしで踏ん張っている姿を見かけても目を逸らしてみないふりをしていたが、確かに背中を無防備にこちらに向けて、隙だらけだなあと思うことはあった。

 実行役のおっさんは三人、それぞれが足音を立てないようにできるだけ砂利の薄いところをそおっと歩いて、トイレの周りにピタッと張り付いた。三人とも無邪気に笑っていた。

 それから足音よりもさらにそおっと扉を閉めて………途中でそれが加速してバタンと強くドアが閉められたのは、多分中にいた市川さんが気付いたからだろう。

「おい、おい、お前等も手伝え!」

「なになに!」

「中に市川がいるんだってさ!」

 休憩中だった奴らが面白がって駆け寄り、四方からトイレを押さえつける。中にいる市川さんが相当暴れているのか、華奢な作りの簡易トイレはみしみしと音を立てながら大きく揺れていた。

 簡易トイレは臭いを逃さないように密閉性が高く、換気のために背面の上の方にガラリがはめられているのだけれど、それがバリっと外れて市川さんが顔を出した。

「助けて、助けて」

 彼はちょっと洒落にならないくらいに必死の形相だが、盛り上がっているおっさんたちはそんなことお構いなしだ。

「だ〜いじょうぶだって、落ち着きなよ、市川〜」

「狭いだけで、別になんともないだろ、ほら」

 僕は少し離れた場所でこれをみていたのだが、市川さんのあまりにも鬼気迫る様子に「これはやばい」と感じて、社長を呼びに行った。

 だからこの後に何が起きたのか、詳しくをみてはいない。

 ただ社長を連れて戻ってくると、簡易トイレは倒れて辺りに糞尿の匂いが漂っていた。そして市川さんは、砂利の上に寝かされて心臓マッサージをされていた。

「死んだのかっ!」

 社長が叫ぶと、市川さんはごぷっと水を吐いて息を吹き返した。トイレの汚水ではなく、陽の光にキラキラと煌めく清水だった。

 念のため医者に見せると、強いパニックによる一時的な心停止だろうと診断されて、それからおっさんたちは市川さんを腫れものみたいに扱うようになった。無視したり意地悪をしたりはしない、けれどどこかよそよそしく遠巻きにする雰囲気があって。

 僕は市川さんと組んでいる以上、おっさんたちのように市川さんを遠ざけることができずにいた。必要以上に親しくなるつもりはなかったが、助手席に座る市川さんから“複雑な事情”を聞くことが何度かあった。

「俺、こんなんだから、一つ所に長く勤めらんないんだよね」

 聞けば市川さんは職を転々としているそうで、今回も契約の三ヶ月ちょうどで辞めるつもりなのだと。

「だってさあ、なんか俺がいると、空気悪くなっちゃうでしょ」

「その閉所恐怖症を治療すればいいんじゃないですか、しばらく仕事しないで、傷病手当とかもらって、きちんと治療すれば」

「あー、みんな親切にそう言ってくれるんだけどねえ、これ、治らないんだわ」

「治りますよ、まずは病院に行ってみましょうよ」

「ん〜、そうだな」

 そんな会話を何度か繰り返すうち、ある時、市川さんがポツリと言った。

「これ、病気じゃなくて呪いなんだわ」

 僕はそういったオカルトの類を信じるタチではないけれど、話の腰を折らないように否定はしなかった。

「呪いですか、どんな?」

「“水”だよ、もうずっと何十年も、水漏れしてるんだ」

「どこが? あ、入居したら必ず水漏れさせる呪いとかですか?」

「そんなわかりやすいもんじゃないんだよ、俺だけ、俺の耳にだけ、こう、ずっとな、水が漏れてる音がするんだよ」

 僕はそれを、恐怖症ゆえの心理的な幻覚の一種だろうと解釈した。

「あー、だから窓とか開けて歩くんですね、なんか水が溜まっちゃう気がするとか、そんな感じ?」

「いや、実際に水はあるんだよ、俺を中心に、ずっと水漏れしてた分が溜まってんの、俺が動くと周りの“入れ物”に応じて形変える感じでな」

「ふ〜ん、そうなんですね、ところで、寒いので窓、閉めません?」

「すまないな、閉所恐怖症なんでな」

 そんな感じで僕は呪いなんて信じはしなかったけれど、話自体は心のどこかにひっかかるものがあった。

 そういえば市川さんは、滅多に座らない人だった。あれは座るのが嫌いだとか立っているのが好きだとかではなく“顔を窓よりも下にしない”ための行動だったのだろう。もちろん窓が開いていることが大前提ではあるが。

 つまり、市川さんには水が見えていたのだ。幻覚だろうが、それが見えている本人にとっては実在する水と同じなのだから、十分に恐怖の対象となり得る。

 一体それはどのぐらいの水量だったのか。

 市川さんは『何十年も水漏れしている』と言っていた。

 例えば数秒に一回、水道の口からぽたりぽたりと垂れるほどの水量だったとしよう。最初のうちは溜まっていることもわからない、本当に小さな水たまりができるほどの水量だったとしても、それが積み重なり、何十年も溜まり続けていたならば………

 それだけの水が“入れ物”の大きさに合わせて押し寄せてくるわけだ。例えば小さくて密閉された簡易トイレに中ならば、市川さんはきっと、ざあざあと押し寄せてくる水に飲み込まれる幻覚を見たことだろう。

 だから、簡易トイレが倒れるほど必死にもがいて暴れて、そこから抜け出そうとした。

 ところがウォークイン冷蔵庫は、薄っぺらいプラスチックでできた簡易トイレとは違う。壁に埋め込まれるようにして固定されているから、暴れようが叩こうが揺らぐことはないし、扉は分厚い金属製で窓の一つすらなく、完全に密閉された空間だ。

 そこに一気に水が流れ込んでくる幻覚は、一体どれほど恐ろしいことか………

 市川さんは幻想に押しつぶされて死んだのだ。

「全く、気の毒に」

 僕は市川さんの最後に同情して、2本目の“献杯”を開けた。


 ところで、2日ほど前から水の音がするのだが。

 それはステンレスのシンクに水滴が落ちる音なのだが、キッチンの水道はしっかりと閉まっているし、その蛇口からは水の一滴も垂れていない。

 念のため洗面所も、風呂も確かめたが、どの水道も問題なし。

 あるとしたら他の部屋だろうか。

 ここは古い低層マンションで、上の階の住人がトイレを流したりすると、その音が配管を伝って聞こえてきたりする。多分、そういう感じの、他の部屋の音が聞こえているのだろう。

 だが、管理会社には問い合わせておくべきかもしれない。

 なにしろその水の音はずっと間断なく、規則正しく、昼も夜も聞こえているのだから。



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