8 忍ぶ恋 知らず舞ふ袖 風に裂かれぬ(短歌・解説・イラストあり)平安時代
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平安時代 4
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藻女は淡路島の南端のあばら家で暮らし始めた。朝、藻女は波音とともに目覚めた。時折渦潮の音が低くごうごうと鳴り響いた。
朝になると玉枝は海岸に海藻や貝を拾いに出かけた。盛吉は船に乗って漁に出かけた。藻女は玉枝を手伝って海岸に出かけるのが日常になった。
藻女は小さな手に冷たい水を感じながら、海藻を摘み、貝を拾って籠に入れていった。そして籠がいっぱいになると玉枝のもとに運んだ。
春の浜辺は潮の香と風の音が心地よかった。陽のぬくもりが肌を撫でた。
「みく、手を冷やしただろう」
玉枝は優しく籠を受け取った。藻女はそっとうなずいた。
「いえ、大丈夫にございます。春の海はもう暖かこうございますから」
嘘だった。春の海はまだ水は冷たい。手を、身体を冷やしながらも藻女は健気に微笑みを浮かべた。
玉枝は微笑みながら藻女の冷えた手をそっと握った。
「ありがとうねぇ、みく。お前はほんによく働いてくれるよ。幼いのに気立てがよいと、みんな褒めておったぞ」
藻女はわずかに頬を染めて俯いた。
「わたくし、玉枝さまや盛吉さまのお役に立ちたくて……」
玉枝はその口ぶりにどことなく翳りを感じた。藻女の小さな肩が春の風に少し震えているような気がした。
「みく、お前…時折、何か寂しい思いをしてはおらぬかえ?」
玉枝の声は浜の波よりも静かで小さかった。けれど藻女を気遣う優しさとあたたかさに満ちていた。
藻女は一瞬、答えに詰まった。胸の内に盛吉への想いがチクチクと疼いた。けれどそれを口にするわけにはいかない。優しい玉枝を傷つけたくなかった。藻女は玉枝の優しさにますます胸が締めつけられた。
「……いいえ。こうして玉枝さまのお側にいさせていただいて、わたくしは幸せにございます」
藻女は小さくつぶやいた。
「そう。なら良いのだけれど……オナゴは、時に胸の奥に言葉にできぬ思いを抱えるものなの。みく……、もしもつらい時があったなら、無理に笑わなくても良いのよ。私たちにその思いを伝えてちょうだいね」
玉枝は優しく微笑んで藻女を抱きしめた。藻女はしばし沈黙し瞳を閉じた。カモメは舞い、遠くに渦潮の潮騒が聞こえた。二人の影は海岸の白砂に静かに重なっていた。
藻女の心の奥深くに沈めた恋しさは、潮の流れのように藻女の胸の底でさざ波を立てていた。けれど、藻女は玉枝と過ごすこのささやかな時を大切にしたかった。玉枝と過ごす穏やかなひとときは、日だまりのような柔らかな暖かさを藻女にもたらしていた。
春の海はやわらかな青に輝いていた。波間には若いワカメやヒジキが揺れていた。凛とした潮風だった。
まだ冷たい海に浸した藻女の指先がかじかんだ。ひんやりとした海水とぬめる海藻の感触が藻女の手に残った。
藻女はじっと海藻が揺れるのを見つめていた。二双の海藻は波にたゆとうていた。絡んでは離れ、離れてはまた身を寄せ合った。
「あぁ。あの二房の海藻が私と盛吉さまならいいのに……」
藻女は悲し気に目を伏せた。玉枝は悲し気に海を見つめる藻女に気づいた。玉枝は海岸から心配そうな目で藻女見ていた。
ミーンミーン
ジージージー
夏が来た。蝉の鳴き声が響いていた。灼けるような陽射しがあばら家の隙間から差し込んだ。
玉枝は浜辺で洗濯物を干していた。藻女はその側で貝を選り分けていた。藻女は桶に張った海水の中に手を入れて一生懸命貝を選別していた。
ふと藻女の手が止まった。彼女は水に手を浸したままぼんやりと桶に映る太陽を見ていた。
「大丈夫か。みく?」
盛吉がぼんやりしている藻女を気遣った。彼は桶の水に手を入れて藻女の手をぎゅっと握った。
ビクッ。藻女の身体が震えた。「あぁ……盛吉さま……。盛吉さまの手のぬくもり……あたたかい……。ずっと、ずっとこうしていたい……」
藻女は潤んだ目で盛吉を見上げた。盛吉の面差しは娘を心配する穏やかな父親のものだった。
「ごめんなさい……。ちょっと……ちょっと、ぼんやりしてたみたい。日差しがとても強かったから……」
藻女は無理に笑ってそう言った。その時、ふと玉枝の視線を感じた。
玉枝は心配そうに、けれどどこか苦しい感情を押し込めたような、ちょっと寂しような、それらがないまぜになったような表情を一瞬浮かべた。
しかし次の瞬間、玉枝はあたたかな笑顔を見せた。
「暑かったね。あとは義母さんがやっとくから。義母さんに任せて。みくはおうちで休んでなさい」
「……ありがとう……ございます……。ごめんなさい……お義母さん」
藻女はか細くそう言ってあばら家に駆けこんでいった。夫婦は心配げに娘の様子を見つめていた。
ザザァ、ザザァ
秋になった。海辺に流木が打ち上げられた。親子三人はそれを拾い集めた。そして寒くなる夜のために薪を積んだ。
薄暮の浜辺に小さな焚火の明かりがともった。波音とともに潮の香りが漂っていた。
盛吉は獲れたての小魚を竹串に刺して炎にかざした。玉枝は里芋を灰のそばで温めた。
やがて魚のやけた香ばしい匂いと、里芋の焼けるほのかな土の薫りの湯気が立ちのぼった。
「ほら、みく」
盛吉はホカホカの里芋を取り出して娘の前に置いた。藻女は里芋の皮を指先ではがして口に入れた。
「あふぅい。おいひぃ……」
里芋のほくほくと熱く、やさしい甘さが口に広がった。盛吉と玉枝はそんな藻女の様子をみて微笑んだ。
風が秋草を揺らし、遠くで鳥が鳴いた。海と山の恵みを囲みながら、一日が静かに終わろうとしていた。
藻女は幸せそうに盛吉と玉枝を見上げた。二人はにこやかに娘を見つめていた。
ビユゥ、ビユゥゥ
冬になった。打ち寄せる波が白く砕けた。凍えそうな寒さがあたりを包んだ。家の隙間からも冷たい風が忍び込んだ。三人は膝を寄せ合って鍋を囲んだ。
「家族はいいねぇ。温かい」
玉枝が優しく微笑んで言った。盛吉は静かに笑顔でうなづいた。二人のまなざしは優しく藻女を包んだ。
藻女の胸の奥には、誰にも言えぬ思いが積もっていた。
「このまま時が止まればいいのに……」
藻女は夜に浜に出かけて一人で星を見上げた。潮風が目に染みた。涙が滲んだ。
明日にはまた日が昇る。海藻を摘み、炊事を手伝い、洗濯を手伝う。そして盛吉の背中を見つめながら生きていく。そんな日々で良い。
胸は痛くて、痛くて、とっても痛いけど……。でも幸せ……。この島の、淡路島の四季とともに二人と生きよう。そして二人をここで看取ろう。このかけがえのない時間を大切にしよう。
いずれはまた一人になる。永い永い旅になる。けれど、この思い出があれば一人でも生きていける。
でも……
「盛吉さまが好き…… 好き…… 好き……。辛い。でも幸せ……。いっそこのまま海の水に溶けてしまいたい。私の命も消えてしまえばいいのに……」
星は、そっと藻女の心を照らしていた。
……幾度か季節が巡った
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ある春の朝、藻女は板の隙間から漏れる朝日のまぶしさに目を覚ました。寝ぼけ眼のまま淡い光に包まれてぼんやりしていた。
潮騒の匂いが柔らかな布団からほのかに香った。
カタン
藻女は海辺からの物音に誘われた。そっと布団を出て海辺に向かった。
盛吉が海辺で漁の支度をしていた。盛吉の腕は日に焼けて赤銅色だった。太く逞しかった。分厚い胸と背中がはち切れんばかりだった。雄々しい姿だった。
「あぁ」
藻女は熱い吐息を漏らした。あの逞しい腕に抱きしめられたい。あの逞しい胸に顔を埋めたい。あの逞しい身体で全身を包んでほしい。盛吉さまに抱かれたい……。
藻女はふらふらと盛吉に吸い寄せられるように近づいていった。
「みく」
藻女の脳裏に玉枝の優しい笑顔が思い浮かんだ。「お義母さんは裏切れない」。藻女は唇をギュッとかみしめた。そして己の気持ちをギュッと封じ込めた。
ツツゥー
彼女の唇から赤い雫が一筋流れた……。
盛吉は藻女が近づく気配に気がついた。彼は振り返って藻女を見た。
藻女は慌てて唇を拭った。盛吉は満面の笑みを浮かべて藻女に話しかけた。
「みく!わしは漁に出かけるでな。玉枝を守ってあげておくれ!」
「はい。盛吉さま!」
藻女は痛む胸をそっと抑えながら盛吉の船出を見守った。船が遠く小さくなるまでずっと舟を目で追いかけていた。
シャラン
藻女は瞳を閉じて顔を上げた。太陽を仰いだ。両手をわずかに広げて静止した。
浜辺の白い砂浜にわずかに両手を開いて瞳を閉じて佇む藻女。それはとても美しい光景だった。
シャラン
藻女は舞い始めた。かつて天竺や中国の後宮で皆を魅了した美しい舞いだった。
藻女は粗末な着物を身につけていた。白粉も紅も身に着けていなかった。素の姿だった。
それでも、いや、それだからこそ、藻女のたおやかな美しさは際立った。
彼女の舞はゆるやかで派手な動きはなかった。音楽を奏でるのは波の潮騒と渦潮の響き、そして風の音だけだった。
しかしそれが一層、この世のものとは思えぬ幽玄のような雰囲気を醸し出した。この世のものとは思えぬ優雅でたおやかな動きだった。
舞が終わった。
止まっていた時が動き出した。
パンパンパンパン
手を打ち鳴らす音が聞こえた。
「素晴らしい舞いよ。こんな片田舎にはもったいない。そなた名は何という?」
「藻女でございます」
「みくずめ、藻女か。それはまた。そなたには似つわしくない名前じゃのぉ」
男は傲慢な笑みを浮かべて言い放った。男は好色な目つきで藻女の身体をじっとりと見つめていた……
…………………………
◆今日の和歌
しのぶこひ
なみのはてへと
きみぞゆき
しらずまふそで
かぜにさかれぬ
夏風
忍ぶ恋
波の果てへと
君ぞゆき
知らず舞ふ袖
風に裂かれぬ……
夏風
◆剣巫女九尾・短歌イラスト 忍ぶ恋 風に裂かれぬ…… 第8話
◆解説 込めた想い
藻女は忍ぶ恋を抱えて盛吉が海に出ていくのを見送ります。波の果てに船が消えていきました。切なくて、切なくて、切なくて……。
藻女は自覚がないままに舞いをおどってしまいました。それがとある男の目に留まってしまいます……
昔日編の次回の話になりますが、それが盛吉・玉枝夫婦との別れにつながってしまいます。
藻女は激しく慟哭して後悔します。後になってもたびたびこの時のことを深い後悔とともに思い出します。
「どうしてあのとき、舞いをしてしまったのか……」。
そんな彼女の切なくも、激しく深い後悔を想って詠んでみました。
一句目、初句は「忍ぶ恋 しのぶこひ」です。藻女の抑え切れない秘めた恋心を詠いました。
二句目は「波の果てへと なみのはてへと」です。三句目は「君ぞゆき きみぞゆき」です。
海の彼方にはるか遠くに去っていく盛吉を見て、藻女は深い悲しみにとらわれます。
愛するあなたが遠くに行ってしまう。あなたと別れたくない。胸が痛い。苦しい。そんな藻女の感情を込めました。
また盛吉が遠いところ、波の終わる先、もはや手の届かない世界に去っていくイメージも込めました。
四句目は「知らず舞ふ袖 しらずまふそで」です。藻女の心は抑えきれない感情に支配されます。そんな彼女は忘我の境地に陥り、知らぬ間に昔慣れ親しんだ舞いを踊ってしまいます。それはとてもたおやかで美しい舞いでした。
五句目、絶句は「風に裂かれぬ かぜにさかれぬ」です。藻女の舞いは通りかかった男を魅了してしまいます。
そのことによって藻女と家族は抗えぬ風(運命)に割かれます。藻女と二人との袖(縁)が引き裂かれてしまいました。
この絶句、初めは「風に離れぬ」としました。ですが表現が弱く、うまく感情が乗りません。そこで「裂く」という、より強制性を持った暴力的な表現に変えました。
以上のように、袖、波、峻風の情景と無意識の舞いによって運命に引き裂かれる無念を詠みました。
………………
忍ぶ恋
波の果てへと
君ぞゆき
知らず舞ふ袖
風に裂かれぬ……
しのぶ恋 しらず舞ふそで
風に裂かれぬ
夏風




