7 潮響き 禍雲包みて 黒焔轟鳴せむ(短歌・解説あり)現代
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現代 4
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『来おるぞ!』
「ん♡」
淡路島の鳴門海峡に強大な九尾が現れた。潮騒の轟きが轟音のように耳を打った。九尾は邪気の黒き闇に覆われていた。その輪郭は靄のように揺らめいていた。空には黒雲が渦巻き、太陽の光はすっかり遮られていた。薄暗がりの中、黒く脈動する巨大な怪異九尾、その異形の存在感に空気が張りつめた。
九尾の前肢がゆらりと何気なく持ち上げられた。特に力を入れたとも思えない動きだった。何気なく、まるで身体の重さを忘れているかのような無頓着さで持ち上げられた右の腕だった。しかし右前肢が斜めに持ち上げられると空気にひたりと緊張が走った。
シュン
袈裟斬り―― 力を込めたようには見えない動作だった。しかしその動作は信じがたいほど鋭く、斬れ味を感じさせた。
次の瞬間、風すらも一瞬遅れて、目には見えぬナニカが大気ごと裂き、そのナニカは剣奈に向かって疾った。
本能。その一言に尽きる。剣奈の体は意思よりも先に動いた。来国光の警告にあらかじめ剣気を丹田に溜めていた。いかようにも動けるよう身体に薄く剣気を纏っていた。
ヒュッ
剣奈は地を蹴る音も残さなかった。彼女の身体は風になったかごとく宙に浮いた。
「……今のが見えたのか?玲奈?」
隣で地面にダイブした玲奈の顔が青ざめていた。玲奈には見えていた。人の見えざるものを見通す玲奈の眼はしっかりと捉えていた。九尾の前肢に纏う大きな妖気を。その前肢が生んだ巨大な真空の刃を。
「あれは……空気を裂いた…… 妖気による真空の刃。人は誰も気づけないものを、今、テメエは……」
玲奈は息をのんで視線を上げた。驚愕とともに剣奈を見上げた。この小さな少女は気配だけであの恐るべき攻撃をかわしたのである。玲奈は剣奈の恐るべき闘いの才能に畏怖した。
剣奈は九尾を見据えていた。その額には冷や汗がじんわりと噴き出していた。
「ハァハァ、玲奈姉。あれが不意打ちだったなら、ボクたちはすでに……この世にいなかったかも……。どうしてあの子わざわざボクたちに気づかせるように技をだしたんだろ?猫がネズミをいたぶるように、ボクたちをいたぶりたいの?」
剣奈は弾む息を整えもせず、目の前の敵から目をそらさず、先ほどのことを思い描いた。
「わからない。ボクにはわからない。でも……いたぶるような嫌な感じはしない……。ていうか、なんだか苦しそう……。それにしても……。あんなのを何気なく振るうなんて……」
ゴクリ
玲奈は小さく唾をのんだ。肩を震わせながら剣奈を見つめた。
「剣奈、油断すんな!ただの気まぐれだったのかもしんねぇ。そしてな。あいつの気が変わったらアタシらなんぞ一瞬だ」
「分かってる。でも……絶対に食らわない。玲奈姉はあれが見えるの?避けられる?ボク、たぶん……玲奈姉をかばう余裕ない……」
玲奈はわずかに微笑んだ。強がりの笑みだった。無理に頬に力を入れて片方の口角を引き上げた。頬はこわばり、無理に引き上げられた口角はひくひく震えた。精一杯の強がりだった。
「心配すんな剣奈。アタイにはアイツの妖気が見えるからよ。技を出すのを察知できる。見たとこアイツの技はまっすぐだ。なら避けれる。追尾されるときついけどな……」
その時である。九尾の巨大な尾と前肢の動きが静かに止まった。海峡を渡る風が咽び泣くように唸った。闇の霧に沈む水面は深紫色に輝いた。辺りは恐怖と静謐で緊迫が満ちた。
剣奈と玲奈、そして来国光も九尾の動きを凝視していた。振るわれたままの前肢はいまだ動きを見せなかった。
そして九尾の瞳に不思議な陰が差しはじめた。その巨大な狐の顔はどこか哀しげな色を見せていた。
「……なんか変じゃねぇか?アイツ、攻撃をためらってるような気がするぜ」
『うむ。わしらを殺るつもりならすぐさま追撃を食らわせれば良いじゃろに』
「クニちゃ、玲奈姉、ボク、あの狐さんが、あの子が寂しがってるように感じるんだ。あのね、玲奈姉と初めて向き合ったときに似てる。攻撃してくるんだけど、それは本心じゃないような」
「さてな、そっちのアタイの記憶はこれっぽっちもねぇからな。そん時、アタイの片割れが何考えてたなんざわかんねぇよ。案外オメエの勘違いじゃねぇの?アタイの片割れはオメエに毒を浴びせてニヤニヤしてたんだろ?」
「うっ、そ、そうだけどぉ……」
剣奈は返答に詰まった。玲奈は剣奈をからかいつつ何かを感じた。それは邪気に心を奪われた者同士の共感だったのかもしれない。玲奈の心の奥を違和感がかすめた。
「おい、アイツ……アタイたちを……」
「うん」
剣奈はじっと九尾を見つめ返した。
「攻撃はしてきた。直撃されたら確かに殺られてた。でも……。どっか……迷ってるみたい……」
『封じられし古き魂はの、しばしば迷うのじゃ。……しかしの。こやつめは――」
来国光は九尾の様子をうかがいながら静かに言葉を紡ぎ始めた。
その時である。来国光の言葉が終わらぬうちにそれは突如として九尾の内奥から溢れ出した。黒かった。禍々しかった。黒き邪気――それは夜の海よりも深い闇。その邪気が、九尾の身体を満たしていた邪気が、九尾の胸元からぶくぶくと沸き上がった。そして九尾の全身をさらに厚く覆った。その黒靄はドクリドクリと禍々しい脈動を始めた。
その瞬間、九尾の顔貌が歪んだ。九尾の瞳は意思の力を失い、凍てつく怨嗟の色に変わった。
『!!っ 来おるぞっ!』
「ん♡」
「なんだありゃあ!」
来国光が叫んだ。剣奈は来国光の警鐘に反射的に剣気を丹田にためた。玲奈が驚愕に満ちた声をあげた。
その時である。
ソレがきた。
グオォォォォォ!
九尾は大きく口を開け、吼えた。そして高密度の妖気を喉奥に溜めた。わずかの溜め。そして九尾は喉深くからナニカを噴いた。激しい咆哮とともに。
空間を軋ませてナニカが押し寄せた。地を裂き、海風を弾き飛ばす黒き一撃――その圧力が二人と一振り、その場にいた全員の死を告げた。
玲奈は高密度の妖気が九尾の胎内深く生み出され、それが上昇していくのを見た。喉奥にためられていくソレを見て九尾の口からナニカが放出されると読んだ。
玲奈は必死に妖気の流れ、そして九尾の筋肉の動きと顔の向き、さらに視線の先を読んだ。ソレの軌道を瞬時に読んだ。
玲奈は走り出した。全速力で走った。地面を強く蹴って疾走した。
ブオォォォォォォォッ!!
ソレがきた。玲奈は斜面下に向けて必死に跳躍した。尖った岩が玲奈の服を裂き、肌を裂いた。しかし玲奈はそんなことは一切考慮しなかった。
玲奈は湿った地面にダイブして体を投げ出した。泥と潮の感触にまみれながら必死に手で後頭部を覆った。
「くっ……! けっ、剣奈ぁぁぁぁ――!!」
剣奈は跳んでいた。九尾からソレが放たれる前に気配を察した。
「ナニカがくる。とてつもないナニカが」
何が来るのかはわからなかった。しかし強烈な死の予感は剣奈の身体を貫き、鮮烈させた。
剣奈は跳んだ。なぜ跳んだのか剣奈自身にもわからなかった。しかし本能が告げた。そこにいてはダメだと。
剣奈は跳びながら強烈な殺気をまとった九尾を見た。そして強烈な違和感に襲われた。
「あの子、あの子……!違う。さっきのあの子じゃない。何かに……何かに吞まれた……」
『感じたか。剣奈よ。わしの心に触れる闇――あれは九尾ではない。慣れ親しんだナニカよ」
「ん♡」
剣奈は息を切らしながらもさらに剣気を丹田にためた。ちらりと疾走する玲奈を見やった。
「玲奈姉は大丈夫。ちゃんと避ける」
『この邪気の気配は懐かしいのぉ。わしはこやつを知っておるぞ。こやつ……恐ろしく強い……。気を抜けば魂ごと持っていかれるぞ。気を抜くな!剣奈よっ!』
海峡の闇の中、空気が黒く染まった。ドクリ。剣奈の鼓動がひときわ高く鳴った。
グオォォォォォォォッ!!
九尾がニヤリと笑みを浮かべた。嫌らしい笑みだった。そして九尾は大きく口を開いた。牙がぎらりと光った。そして放った。黒く禍々しく染まった恐ろしい高密度の妖気の塊を。
どしゅううううううっ!
「くっ……! けっ、剣奈ぁぁぁぁ――っ!!」
九尾は剣奈が跳躍するのを見た。存分に見た。そして跳躍した剣奈に放たれた強大な死の咆哮。
それは剣奈に向かって一直線に放たれた。玲奈には見えた。剣奈がそれに呑まれる様を。
そして剣奈の姿が消えた……
九尾の放った恐るべき高密度の妖気に剣奈は呑み込まれた。
そして一瞬にして蒸発した……
玲奈の目にその瞬間が深く刻まれた……
……………………
◆今日の短歌
しほひびき
うれひこもらせ
きゅうびほゆ
まがくも つつみて
こくえん ごうめいせむ
潮響き
憂ひ籠らせ
九尾吼ゆ
禍雲包みて
黒焔轟鳴せむ
◆短歌の解説と込めた想い
九尾は剣奈たちに恐ろしい攻撃を仕掛けてきます。けれど剣奈たちは九尾がどこか本気ではないように感じます。そしていぶかしみます。
剣奈には九尾が深い悲しみに包まれているように見えました。
ところがその次の瞬間、九尾の胎内から黒い邪気が沸き起こります。その黒く禍々しい邪気は九尾を呑み込んでしまいます。
意思を奪われた九尾は恐ろしい死の咆哮を放ちます。剣奈はそれにのみまれて一瞬にして蒸発してしまったようでした。
第一句、冒頭初句は「潮響き しほひびき」です。海に逆巻く潮の響きを思い浮かべました。
ただ潮の轟音だけでなく、その響きに剣奈たちの運命の、命運の? 幕開けをいざなうような、運命の嵐に翻弄される前兆のような。そんな気持ちで詠みました。
第二句は「憂ひ籠らせ うれひこもらせ」です。この七話まで読んでくださった皆様にはご理解していただいてると思いますが、九尾はこれまで一度も騒乱を起こそうと思ったことはありません。
今回も邪気に無理やり押し入られ、身体を操られて、剣奈たちに攻撃を浴びせてしまいました。
九尾の心は憂いに包まれてしまいました。またやってしまった。望まぬ騒乱がまたここに。
九尾は悲しみを抱きます。九尾の秘めた深い哀愁、悲しみの内省を表そうと詠みました。
第三句は「九尾吼ゆ きゅうびほゆ」です。ままならない自分の気持ちを胸に九尾は悲しく空に咆哮します。その様は堂々としつつもとても哀しげです。
第四句は「禍雲包みて まがくもつつみて」です。煮え切らない九尾にごうを煮やした邪気は潜みし胸より出でて九尾を吞み込みます。
その様は不吉なのですが、その闇の広がりは禍々しくも美しいです。そんな邪気の様子を雲に例えて詠みました。
黒雲や闇雲も考えたのですが、夏風的には禍々しい邪気のイメージから禍雲を選びました。みやびやかでありつつ、禍々しい。そんな雰囲気を出そうとしました。
最終句、第五句目、絶句は「黒焔轟鳴せむ こくえんごうめいせむ」です。最初は「黒焔轟鳴絶響す こくえんごうめいぜっきょうす」を韻の響きで七文字の音節にできないかと思いました。
ですが、さすがに無理がありました。「黒焔轟鳴せむ」の最初の「こく」を一音節、「えん」までで三音節、「ごう」「めい」で二音節。ここまでで五音節。それに意志・推量を強くあらわす「せむ」をつけて合計七音節。
口に出して読むとすんなり七音節でおさまりました。
九尾の恐ろしい死の暗黒ブレスの圧倒的な迫力と、凄惨なおどろおどろしさ、美しさ、無常感を表せていたらいいなぁと思いました。
…………
潮響き
憂ひ籠らせ
九尾吼ゆ
禍雲包みて
黒焔轟鳴せむ
潮響き まがくもつつみて
黒焔ごうめいせむ
夏風




