美の黄金比率を知る日
ぼんやりと目を覚ますと、部屋のベッドの上だった。鳥の鳴き声の聞こえる、いつもの朝だ。今日は日曜日。
変な……夢を見た。サース様の……生々しい夢。
ゲームの夢を見るなんて珍しい。どんなに好きでも、サース様は夢に現れてくれなかったのに。
ふぅっと息を吐いてから、起き上がる。
机の上には昨日描いていた絵が散らばっていた。何枚も、何十枚もあるけれど……ぜーーーんぶ、サース様の絵だ。
机の上に手を伸ばし、自分で描いたサース様の絵を眺めて、うっとりと自画自賛。
繊細なお顔立ちに、悲しみと優しさの表情を淡く載せて描いたよ。ふふん。だって、冷酷に見えても内側から溢れる優しさが隠せない人なんだもの。
サース様の良さをここまで描けるなんて、我ながら天才だと思う!……まぁ自分好みに描いているから当然なのだけれども。
オタク魂というのは結構凄い。
このゲームを始めてから、毎日毎日サース様の絵を描いていたら、とっても下手だった私の画力もだいぶ上がって来た。そして、新作の予告を見てから気持ちが高ぶっていた私は、久しぶりに気合を入れて、半日かけて力作を描いたのだ。
それは、長いローブに身を包み、振り返るようにたたずむ、サース様の絵。優しく、いとおしむような眼差しで、誰かを見ている。サース様の背後には、二つの月が浮かんでいて、魔法の存在するそこは、紛れもない異世界なのだ。
渾身の力作にうっとりとしていたら、どこからか声が聞こえて来た。
『……ちょっと美化しすぎてない?』
……なんですと!?
「私のサース様になにを……!!!!……っていうか、え?誰?」
どこから声が……?
部屋の中を見回したけれど、いつもの、なんでもない自分の部屋があるだけだった。
すると、目の前に、ぽんっと音を立てて、不思議な生き物が現れた。
小さくて、子供みたいな容姿なのに羽が生えていて、白い衣をまとったまるで天使様……いや、見覚えがあるな。
『僕が見える~?』
見えちゃいけないものが、見えている気がする。
『うん、見えてるね。僕はミューラー。宜しくね』
何も見えない。聞こえない。
『ちょっと。目を逸らさないで。大事な話をしなきゃいけないんだよ~』
ひぇぇ~!
『ちょ、ちょっとぉ……』
「お、お父さぁぁぁん!」
私は部屋の中で絶叫をあげるように叫んだ。すると、階段からバタバタと音が聞こえて部屋のドアが勢いよく開いた。
「どうしたの!?砂里ちゃん!?」
「お父さ~~~ん!」
ベッドから起き上がり父親に抱き着くと、父はパジャマ姿のままおろおろとしていた。
「なに?どうしたの?」
「なにって」
振り向くと、天使がふよふよと浮いている。にっこりと笑われて、ぞわわっとなる。
「え、なに?」
「なにって……え?」
お父さんは天使を見ていなかった。キョロキョロと部屋を見回している。
私はすっと指さして、天使の位置を見てもらう。
「ソレ」
「それ?」
「何か見えない?」
「砂里の片付けをしてない部屋が見える」
「ぐっ」
昨日は渾身の力作を描いてそのまま寝てしまったので洋服が散らばったままだった。
『僕の姿は君にしか見えないよ~』
天使が言った。でも本当に父さんには見えていないみたい。私がおかしいの?急に不安になる。変な夢を見たばかりだし。
「大丈夫?熱はないみたいだけど……」
「うん……ごめんね」
そう。きっと寝ぼけているのだ。
「もう一回寝るね……」
お父さんはじっと私を見つめた後に、落書きと洋服の散らかる部屋を眺めてから、深い溜息を吐いた。ぽんぽんと頭を叩くと部屋を出て行った。
娘の頭の心配をされている気がするけれど、娘も頭を心配している。
「……もう一度寝よう」
ベッドに入り布団をかぶる。
『ちょっと話を聞いてよ~』
とうとう幻覚を見てしまった。私はもうだめかもしれない。もう一度寝たら夢から覚めるだろう。
『ね~聞いてくれないと僕が怒られるんだけど~』
幻聴。
『サースティー・ギアンに会いたくないの?』
……なんですと?
布団をまくり跳ね起きる。
「会えるの?」
私も現金なものである。
そう言えばこの謎の天使も昨日の夢に現れていた。これは夢の続きなのかもしれない。またサース様に会えるのかもしれない。
恋に恋するお年頃。
サース様に恋したことに後悔はないけれど、幻覚を見てしまうなんて。夢でもいいから会いたいだなんて。私はもうだめなのかもしれない。
『僕はミュトラスの使いの一人。ミュトラスの力を使う者との橋渡しをするんだ』
「ミュトラスって……ゲームの中の神様の名前だよね」
『そう。ゲームをやりこんでるからよく知ってるね』
なぜ私がやりこんでることをご存じなの。
『ミュトラスは神、と言われる概念に近い者。ミュトラスの力は、稀に現れる聖なる者にしか使えない。ミュトラスの力を使うものは、ゲームの中では聖女と呼ばれている』
「ヒロイン……」
『ゲームの中ではそうだね。でも。今は君のことだよ。聖女砂里』
――聖女砂里。
「なんですと?」
『聖女に選ばれました。良かったね!君が大好きなゲームの世界に行けるよ?』
フランクな口調で話す神の使いの言葉はうさんくさすぎる。
「行ける……?」
『うん。君の部屋をあの世界と繋げておいたから』
繋げておいたから。
「ふぇ!?どこ?ここと!?」
『そこの向こうが良さそうな気がして、繋げておいたよ』
「そこの向こう」
神の使いは押入れを指さしている。……押入れ?
バタン、と勢いよく押入れのふすまを開けると――――
「え…………?」
押入れは、確かに存在していた。入れてあった荷物はそのままそこにあって、私の着替えもそこに仕舞われている。
だけど、その押入れの奥の壁が無くなっている。
壁の代わりに、見知った風景が広がっていた。塔のように高くそびえたつ城は、毎日毎日プレイし続けた、あのゲームの世界の中のもの。
押入れの向こう側に、ゲームの世界が広がっている――
「繋げたってどういうこと?」
『ここからあちら側と行き来出来るよ』
まじか。
「この夢はいつまで続くの?」
『無期限だよ』
「無期限?」
『君が望めば閉ざすことは出来るけれど……』
「望みません、止めて下さい」
『この場所、に特定した場だから、扉を変えたくらいじゃ場は動かないけれど、この家自体を建て直したら場はなくなるよ』
「えぇ……」
『そうしたら新たな場を違う場所に作り変えればいい。君ならそれが出来るのだから』
「……」
なんだか分からないけれど、なんだか分かったような気持ちになる。
「ここから行き来できる……」
『うん』
駄目だ、頭のキャパシティーを越えている。
「ちょっと寝るね」
『えっ』
ベッドにぱたりと倒れ込んだ私に、ミューラーは話し掛け続けていた。
『ちょっと~』『まだ説明終わってないよ』『ねぇ、聖女の話しないといけないんだけど』
でももう私は限界で。
夢を見ることもなく眠ってしまったのだ。
起きたら夕方だった。
謎の天使はどこにもいなかった。
顔を洗って部屋に戻り、ごくり、と唾を飲み込んでから押入れを開けた。
夕焼け空を見た。美しい城を囲う街並みが、とっても綺麗だなーと、現実を逃避するように思う。
(……)
しばし放心した後に、私は思い直すようにぱちりと瞬きをしてから、その情景を改めて見直した。
――どうやら間違いなく、この目に映ってる。
(夢、じゃない……)
夢かも知れない、というか、本当は夢でしかありえないんだろうけど。
夢なら覚めないうちに、夢に溺れたい。
(ちょっとだけ、ちょっとだけだから……)
私はむくむくと抑えられない欲望が湧き上がって行くのを感じながら、押入れから着替えを取り出す。
少し考えてから、動きやすそうなズボンとシャツと薄いパーカーの上着にした。
外が見えている情景を見ながらでは着替えにくいので、一度ふすまを閉める。
着替え終わるとリュックにペットボトルなどを詰めて、準備万端。と思ったけど靴がまだだった。玄関にそーっと靴を取りに行く。
私は、意を決するように押入れのふすまに手を掛け、開けた。
荷物を少し部屋の中に移動させて、人が通れるくらいの空間を開ける。
いざ!っと押入れの中にもぐりこむ。
押入れの中は、いつものような湿気がこもったような匂いがしていたのだけど、壁があったはずの場所から顔を出したとたんに空気が変わった。
雨上がりの空気のような、瑞々しい澄んだ空気が私を包みこんだ。
ひょこっと体全体を外に出すと、そこは、学園の屋上なのだと分かった。
細やかな細工の付いた柵が張り巡らされていて、白い床が広がっている、何度もイベントがあったから良く覚えてる場所だ。
屋上だからずっと空と城が見えていたんだ――
後ろを振り返ると、そこには押入れと同じくらいのサイズの扉があった。
私が出て来たことで閉まってしまっていたけれど、もう一度開けたら押入れに繋がっているのだろうか?
確認のために扉を開けてみると、案の定押入れの荷物と、その奥に私の部屋の光景が見えた。
――ここが帰りの道になる。
ということは私は学園生活を覗き見られると言うこと……?
即座にゲーム脳に切り替わる。
とはいえ、ここが本当にゲームの世界なのかもまだ分からないけれど……。
私は誰もいない屋上にそろりと立ち上がると、階段へ続く扉を開け、下に降りることにした。もうすぐ夜になる。学園に残っている人はいないかも。この時間なら寮の食堂、もしくは娯楽室に集まっているはず。
そう思いながら階段を下りていて、ふと、研究室の存在を思い出した。
魔法研究室。サース様は、授業が終わった後も、自分の研究をそこでさせてもらっていた。確か別棟にあるはずだ。
(それにしてもリアルだな……)
歴史ある校舎。響く足音。雨上がりの夕方の空気。
(本物みたい……)
校舎を出ると、暗い中庭を抜ける。ゲームの中で通った別棟にはすぐに着いた。こわごわと忍び足で中に入り廊下を歩いているうちに、明かりが漏れてきている部屋があるのに気が付く。
――誰かがいる……。
心臓がばくばくする。
もうすぐ夜になる静かな学校の中に、残っている人がいる。
まさか、と、思いながら、足音を立てないように廊下を歩き進むと、少しだけ開いた扉の向こうに、『彼』が居た――
息が吸い込めなくなって、心臓が止まるかと、思った。
雑多に置かれた実験道具の向こう側に、使い込まれた古い机を前にした、悩ましいように眉根を寄せて書類に向き合っている、サースティー・ギアンの横顔が見えた。
漆黒の瞳には真摯な色を浮かべ、聡明な思考の中から紡ぎ出す言葉を選ぶようにペンを握りしめていた。腰まで伸びる長い黒髪は、上品な黒いリボンで束ねられ、艶やかに輝くように彼を覆っている。
長い睫毛の下の、宝石のような瞳の輝きをほんの少し揺らめかせるだけで、私は息が出来ないほどときめいてしまう。
――――本物。なんだよね。
本人…………なんだよね。
私は叫び出しそうな口元を必死で押さえる。
(サース様。サース様。サース様………!!)
もう三年。大好きで。恋して。毎日幸せにしてもらっていた彼が、いる。
ぼろぼろと涙が溢れ出る。鼻水をすする音が出てはいけないと思いながら必死でハンカチで押さえた。
(夢でもいい。こんなにも素敵な夢を見させてくれてありがとう神様……!)
私はこんな時だけ神様に全身で全力で感謝を捧げる。
彼に出会わせてくれて。恋をさせてくれて。そうしてこの目で、彼の横顔を見させてくれて、私はこんなにも幸福です!
涙でかすんでサース様が良く見えないことに気が付いて、私は涙を止めるのに必死になった。
(今この目で見ずしてどうするというの……!)
というか、カメラは、ビデオはどこ?
彼の雄姿をどこに残したらいいの?
そう思いながら、昨日のなごりで持ってきてしまったスケッチブックのことを思い出し、鉛筆と一緒にリュックから取り出した。
描くしかない……!
二度と出会えるか分からない。私の世界で一番の美の黄金比率。
それ以上でも以下でもなく。
心を唯一ときめかせる、完璧なその美しさを、この手で書き留めずしてどうしようというのか。
スケッチブックを開くと、私は一心不乱に彼の横顔を描き始めた。
真剣な表情で書類に向き合っているように思えた彼は、それでも時々何かを思い出すように悲し気な表情をする。その表情は、私の心をズキンと痛ませる。
息が出来ないほどの愛おしさが湧き上がった。大好き……と思う気持ちが全身を支配するよう。
時折、どこか優し気に微笑むような眼をする瞬間もあった。
ゲームの中では、無表情なクールキャラとして描かれていたから、そんな表情は気を許したあとのヒロインの前でだけするものだったけれど、一人でいるときならば素の表情をするんだな、と私ははじめて知った。それだけで神様に感謝するほど嬉しい。ゲームの中で私が知っていたサース様は、本当に本当にここにいるんだって、実感する。
(やっぱり、サース様なんだ)
胸が熱くなった。
長い睫毛を伏せるようにする、その一瞬の表情だけでも、ドキドキと胸がときめいて、一枚一枚、この瞬間を切り取るようにと私は彼を描いた。
長い間、彼に恋して来た、私の思いを全て出し切るように。
私は今目にしている彼の姿を、この手の中に落とし込もうと、まるで執念のように何枚も何枚も描き続けた。
……そう、何枚、も。何時間、も。
「………おい」
なんだかとってもいい声が私に話しかけて来ていたけれど、私は今スケッチに忙しかった。
「今忙しいです」
そう答えたら。ひったくるようにして、私のスケッチブックが奪われてしまった。
床につっぷすようにして描いていた私は、顔を上げて、目の前に立つ長身の青年を見上げた。
背がとても高かった。学園の黒い制服を着ている彼は、細身で、けれどスタイルがとてもよく、美しい顔立ちをしていた。
彫刻のように整った気品のあるお顔が私を見下ろしていた。
冷ややかな視線が、人の心を凍らせるようだと思った。
彼は興味もなさげに、手にしたスケッチブックをパラパラとめくると、その描かれているものを見つめて、目を見開いた。
「……なんだ、これは……」
不機嫌そうだった表情が驚愕に変わる。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばした、透き通るように色の白い、漆黒の瞳の青年。彼の名前は、サースティー・ギアン。
整い過ぎた顔立ちを歪ませるほどに、その手にしたものは彼を困惑させていたのだろう。けれど私は、そんな見たことのない表情にもときめいてしまう。
無表情な彼が揺れ動かされる表情など、数えるほどしかゲームの中では描かれていない。
でもそりゃあ素にでもなるだろう。だって彼は今見ているのだ。
20枚程は描かれている、今さっきまでの自分の顔のスケッチを。
――そんなものを見たら誰でも恐怖で心臓を凍らせる。
(いやあああああああああああ……!!)
速攻で推しに見つかって、速攻でストーカーバレとか、絶望を通り越して今すぐ死にたい。
私は身をひるがえして全力で駆けだそうと……した。
「待て……お前は誰だ?」
両肩をがしっと掴まれてしまった。簡単に捕捉されてしまう自分の非力さをいまこそ恨む。
「わ、わたしは……」
どう言って逃げようかと思いながら、顔だけぐるっと後ろを向いて、サース様を見上げた。
目の前には漆黒の瞳が私を見下ろしていて……え?
もしかして今私サース様の視界に入ってない?
こんな時なのに、訳も分からず心に歓喜が湧き上がるうぅぅぅ……自分に眩暈がしそうだ。
「……わたしは、通りすがりの、ものです……」
「……」
言葉の意味を飲み込む時間をかけた後、彼の瞳に不快の色が浮かび上がっていく。
「……ふざけているのか?」
冷ややかな眼差しと、どすのきいた低い声と、肩に感じる彼の体温。なんだか香水みたいな良い香りもするし、五感で感じとる推しのフェロモンの破壊力。ああ、もう私は気絶しそうだ。
一刻も早く逃げなくては。抱き付いてしまうかもしれない。
「私は……さすらいの絵かきです……!」
彼の目を見ていられなくて、目を瞑りどなるようにそう言った。すると私の声の大きさに驚いたのか、肩を掴んでいた彼の手の力が弱まった。
「…………絵かき?」
呆然と呟く声が聞こえる中、私は全力で駆けだした。
遠くから、どうしようもなく胸をときめかせるイケボが聞こえてくるけど、待つことなんて出来ない。
必死で走り、中庭を抜け、校舎に辿り着くと階段を駆け上がる。屋上までの距離が果てしなく長く思えた。
追いかけてきている様子は、なかった。
ばくばくとする心臓を抑えられないような気持ちになって。
私は一刻も早く押入れに逃げ込もうと思っていた。
屋上に辿り着くと、やっと安心した気持ちになり、押入れに続く扉を開け部屋に戻る。
精も根も尽き果てて、私はばたりとベッドに倒れ込んだ。
『ミュトラスの乙女……説明聞いてよ……』
眠りに落ちかけていた私に、そんな声が聞こえて来た気がしたけれど。
もう、そんな幻聴も聞き取れないほどに、私の心は疲れきっていた。
(確かに今日は美の黄金比率を生で知ったのだけど、とても私なんかじゃ描き切れなかった。あの美しい人をずっと見ていたい。でもそれ以上に恥ずかしさに耐えられなかった。見つめられたら心臓が止まる。死んじゃう。現実のような夢だったなって思った日。4月27日日曜日)