第5話 突然の出来事
そんな生活が四か月ほど続いた。季節は春をとうに過ぎ、七月に入ると周りは夏休みの話題で盛り上がるようになってきた。
正直、涼としては夏休みになると毎朝の登校がなくなってしまうので残念でしかない。
だからなのかもしれない、もう少しだけ仲を深めたい気持ちが強くなってきた。手を繋いでみたい。小学校の頃は手を繋いで登校した記憶はある。でもその頃は妹と仲良く手を繋いでいただけで、それ以上の何の感情もなかった。
けれど、その妹だと思っていた女の子は綺麗に成長し、もはや涼の中では妹ではなく好きな女子中学生に変わっていた。これが初恋だと自覚し始めていた。
涼はまた意を決して、今度は凪をデートに誘ってみることにした。
(俺はませているのか)
そう思うとまた恥ずかしさと不安で気持ちが揺らぐ。でも、一緒に出掛ける位許されるんじゃないか。他にもデートをしているクラスメートや先輩もいる。それなら俺だって…。
リビングから持ってきた、今朝投函されていたであろう水族館のアクアナイトリウムの広告を眺めた。夜7時から開催とある。7時なら遅すぎないだろうか。凪の親は許すだろうか。
それ以前に凪はどんな反応をするだろうか…。
迷いに迷った。1時間は迷っただろうか、涼はじっと携帯を見つめた後、一文字ずつ考えながらメッセージを綴った。短い文章を何度も見直してから一呼吸おき、送信ボタンを押してみる。
(今日、近くの水族館のナイトリウムの広告が入っていたんだ。夜の水族館は綺麗だろうね)
急に下心を見透かされそうな気分になって、送信取り消しをしようとした。しかしすぐに既読がついた。やばい、もう読まれた。また画面を見つめる。なかなか返信は来ない。やめておけばよかったかな…涼は急に後悔し始めた。
自己嫌悪から涼は枕に顔をうずめ布団を叩いた。何分経っただろうか。しばらくして凪から返信がきた。涼は飛び起きて画面を開く。
(それ、うちにも来てたよ。ナイトアクアリウム、素敵そうだね。お母さんに涼と行きたいって聞いたら行ってもいいって。週末の土曜日、どう?)
(もちろん大丈夫!一緒にいこ!)
返信しながらみるみる涼の顔が紅潮し、思わず枕を壁に叩きつけながら「やったー、やったー!!」と大声で叫んだ。「涼、静かにしなさい!」階下から母親の怒る声が聞こえたが、もうどうでもいい。また枕に顔をうずめて歓喜の叫びをあげ続けた。
その週の土曜日。涼は、待ち合わせの約束をした時刻の夕方六時半より早く駅に着いた。
前日から何を着ていこうか悩み続けた結果、無地の麻のシャツとジーンズといういかにも何も気取っていないように見える選択に収まった。
そして息を整え、髪と服を直して周りを見渡して凪を待つ。
少し経ってから、凪が歩いてくるのが見えた。涼は心臓の鼓動が徐々に早くなるのを感じながら、こちらに気づいた凪に手を振った。Tシャツにスキニーパンツという凪らしいシンプルな私服だったが、涼には私服姿の凪が新鮮に見えた。
電車で三十分ほどの所にある水族館には、すでに夜のショー目当てのお客さんがちらほら入って行くのがみえた。
涼は二人分のチケットを買い中へと入った。涼やかな館内のライトはトーンが落とされ水の中だけを煌々と照らしており、光を受けて悠々と泳ぐ魚たちは神秘的で幻想的で、心が静まるほど美しかった。
二人は一つずつ展示ブースをゆったりと歩きながら眺めていった。会話はほとんどなかったが、二人して同じ光景をみて感動を共有しているんだと思うと、涼は経験した事のない類の幸せが体全体にじわじわと広がっていくのを感じた。
凪は魚に見入っていた。館内が薄暗いのを好都合に、涼は横から凪の顔をまじまじと見てしまう。整った横顔、時折伏せられる長い睫毛、柔らかそうな形の良い唇、さらさらと流れるような長い髪。綺麗だ、と涼は思った。
思わず目線は更に下へいく。ぴったりとしたTシャツの胸元に目を向けかけたところで、涼は目を反らし一気に赤面した。館内が暗くて良かった。今の自分はどんな目つきをしていたかと思うと全力で反省した。
一歩ずつゆっくり歩を進め、クラゲの展示コーナーまで来た。ほの暗く澄んだ青色の水の中で、光に照らされながらも、自ら発光しているようなクラゲ達がゆったりと揺蕩う光景にまるで時の流れが止まったかのような錯覚に捉われた。
涼が引き込まれてしまいそうな気分になった時、凪が呟いた。
「どこの世界の海も、こうやって風に荒らされることなく凪いでいるといいのにね…。」
凪の言葉の意味を考えようとしたが、涼は「うん…。」と返すのが精一杯だった。
そして二人は言葉を発することなく水の中に見入る。ふわりふわりと揺らめくクラゲに涼の心もふわりふわりと揺らめいていった。そっと涼は凪を見る。
すると、凪もこちらを見ていた。
頭では理解できない何かの感情が涼を支配した。二人は見つめあったまま微動だにしない。どのくらいの時間そうしていたかもわからない。
涼の手が自然に凪の手を握っていた。クラゲの浮遊感に憑りつかれたのか、凪の美しさに魅入られのか、涼は酔うように凪の頬に自分の唇を当てていた。
凪は少し大きく目を見開いて涼の目を見つめる。しばらく見つめ合った後、はっと二人は正面に向き直り無言になった。そのまま二人は言葉をどう交わしていいか分からないまま、手を繋いで水族館を後にして行った。
翌朝、涼は自分のベッドで目が覚めて、改めて昨日の事を思い出そうとした。あの後どうやって帰ったのかはっきり思い出せない。
ただ、記憶の中で凪の頬の感触だけが鮮烈に蘇った。恥ずかしさと嬉しさと強烈に増してくる凪への愛しい感情を、まだ中学生の涼は上手く整理できないでいた。
布団から出る気にもなれず、そっと自分の唇をなぞっていた。母親が階下から何度か呼ぶ声がしたが、寝た振りをして聞こえなかった事にした。心配した母親が一度部屋を覗きに来たが、寝かせておいてほしいと一言頼み、その日は一日ベッドの中で過ごした。
月曜日の朝、涼はやっとベッドから起きてシャワーを浴び、学校へ行く準備を始めた。
凪をいつも通り迎えに行こうかと考えたが、気恥ずかしさが先立ちどうやって凪と顔を合わせたらいいのか分からい。涼は、凪と一緒に通学をし始めてから、初めて一人で登校した。
教室に着くといつも通りの朝が始まる。やっと日常のモードが涼の心を少しだけ我に返らせた。
かといって土曜日の事を忘れられるはずもなく、結局ぼーっとしてしまう。教壇では担任が夏休みに向けての課題や注意事項を説明していたが、頭に入ってこない。いいや、また後で圭に聞こう。涼はまだ幸せの余韻に浸っていたかった。
長い一日が終わり、帰り支度をしていると、圭が心配そうに尋ねてきた。
「お前、今日どうしたんだよ。ずっとぼーっとして。体調が悪いなら保健室に行けば良かったじゃないか。部活はどうする?」
「あーごめんごめん、ちょっと家で色々あっただけだよ。」
「何だよ。親が離婚でもするのか?」
「あはは、違うよ。全然違う。体調はいいけど部活、今日は休むよ。部長に伝えといて。」
「珍しいな、お前が部活さぼるなんて。もしかして凪と何か関係あるのか?」
涼はドキリとした。
「え?な、凪?何もないよ。何で?」
相変わらずこの幼馴染は感が鋭い。涼はどうはぐらかそうかと、働かない思考回路を必死に動かしていくつか言い訳を巡らせていると圭は言った。
「今朝、凪の担任に連絡があったみたいだよ。お前、知らないの?毎日一緒に通学してるのに。何か、夏休み前だけど長期休暇を取るとか取らないとか…。多分そのまま夏休みになるんかな。」
「え、何それ。知らない。今日決まったの?」
涼は頭が真っ白になった。今朝、凪に連絡もせず先に登校したからだろうか。
いや、土曜日の事が原因なんだろうか。中学生にしては大胆な行動をとってしまった事が、凪にショックを与えたのだろうか。
雰囲気は良かったと思っていたが、それは勘違いだったのか…。
「いや俺もよく分かんねー。聞いただけだからさ、て、おい、涼!」
圭の返事の半ばで、涼は教室を飛び出していた。そのまま通学路を走り、信号で止められるのをもどかしく感じ、また走って凪の家に着いた。
まずは謝ろう。そう思い涼はインターホンを鳴らした。
しかし、しばらく経っても誰も出てこない。もう一度インターホンを鳴らす。が、応答がない。今の時間、凪は家にいるはずなのに…。
呆然と立ち尽くす涼に近所のおばさんが声を掛けてきた。見覚えのある顔だが名前は知らない。
「あれ?涼君じゃない?いつも凪ちゃんと遊んでた。」
「はい、そうですけど…。」
「もしかして凪ちゃんが心配で来たの?」
「はい。今日学校を休んだって聞いたもんですから…。」
おばさんは一瞬押し黙って何かを考えるような顔をしてから、少し小さな声で答えた。
「昨日の夕方ね、黒い車が家の前に来てたのよ。何があったのかは良く判らないけど、黒いスーツの人も何人か来ててね。何でも一家で遠くに行かなければならないとか何とか…。本人たちが乗ったところは見てないけど。大きな荷物もいくつか運び出してたから、急に出張にでもなったのかしら。だって、旅行をするにしては変よね?私たちにも何も判らないのよ。」
涼は頭が混乱した。凪が何も言わず出張に着いて行くなどするだろうか。慌てて携帯を取り出し、凪にメッセージを送る。
(今日学校に来ないから心配したよ。今家の前にいるけど、凪は今どこにいるの?)
不安な気持ちを抑えながら返信を待った。いつもの凪ならすぐに既読がつくはず。しかし待っても返信はおろか、既読にさえならない。もう一度メッセージを送る。
(凪、今どこ?返信して。心配しています。)
また待ってみるが既読にならない。一体何が起こったんだ?何で連絡してくれないんだ?涼は訳が分からなかった。
この時の涼には、これが凪との別れになるとは予想だにできなかった。