1 坂下恵麻
鈴木が警察などに連絡を入れて、迎えを待っているときに恵麻が起きた。意識が戻った恵麻は終わったことへの安堵より、お腹の中にヒエンがいる事にパニックを起こして泣き叫んだ。その時、トランシーバーから男の声がした。恵麻の父親だ。
「迎えに行くから動くな。貴重な個体だ、死なせたらお前を殺すからな」
信じられないものを見る目でトランシーバーを見つめる恵麻に代わるように、遥が叫ぶ。
「お前が死ね!」
その言葉と同時にトランシーバーを思い切り踏みつけた。辺りにはすすり泣く恵麻の泣き声が響き渡る。
地元警察の到着の方が早く、恵麻は父親に捕まらずに済んだ。怪我をしていたので三人は病院へと運ばれる。鈴木は特に怪我がないので診察を断り待合室に行くと言っていた。遥は右手の骨折、恵麻は腕の骨折と背中の打撲、顔の腫れなどそれなりに治療が必要だ。治療が終わり待合室に行くと恵麻の母親が真っ青な顔をして待っていた。
そのまま恵麻を連れて信頼できる人の家に行くとだけ言ってすぐに病院を後にした。日頃から夫の行動に思うところがあったのだろう。
病院に残った遥と鈴木は恵麻の父親たちが接触してくるかと警戒したが、何もなかった。恵麻のお腹の子供の方が大切なのだ。それと揉み消しや裏工作に忙しいのだとも思う。二人とも親が迎えに来て何もないまま自宅に戻った。
その後案の定ニュースにもならず一度だけ警察の取り調べが行われたが、いかにもやっつけ仕事のような適当な聞き取りだった。よくわからない生き物に襲われ、坂下家が関わっていることを一応伝えたが「ああそう」と言うようなまるで信じていない雰囲気のてきとうな返事一つで終わった。その後の連絡は何もない。
そしてそれは汐里の両親も同じ反応だった。何があったのかを知りたくても警察から何も説明がない。一緒にいたはずの遥に一体何があったのかと聞いてきたが、その話をしても納得していないようなリアクションだった。
殺人鬼がいて犯人を捕まえれば事件が解決するというわかりやすいシナリオでなければ納得ができないようだ。未知の生き物に殺された、など。確かに受け入れられないのかもしれない。流石に戸部がヒエンだったとは言えなかった。母親は汐里の片想いの相手を知っているだろうから。
恵麻に連絡をしても返事はなく、アプリに既読も付かなかった。精神的ショックが大きくて見たくないのかもしれない。父親に捕まって連絡が取れない状況でないことを願うばかりだった。
鈴木とは頻繁に連絡が取れた。東馬の親から似たような事を聞かれて、目の前で友達が死んだことによるショックで頭がおかしくなったと思ったみたいだと言っていた。要するに信じてもらえなかったのだ。
あれだけのことがあったのに終わってしまうと何もなかったかのように本当にあっさりとしていた。日常が脅かされるわけでは無いから良いのだが、それ以上に納得のできないもやもやとした気持ちが日々積もっていく。
そして四日ほど過ぎた頃、突然恵麻から連絡があった。電話ではなくメッセージで、引っ越すので最後に話がしたいという一言だけだ。
指定された待ち合わせ場所は最寄り駅だった。足元には旅行鞄があり、これから母の実家に行くという。隣には母親もいて、周囲を警戒する様に見ながら早くね、と言ってくる。
「明後日おろす」
そう言うエマの表情は何とも言えないものだ。人形のように無表情で何を考えているのか読み取れない。化粧もしていなくて唇もカサカサ、とても口に出せないが老け込んだように見えた。
「あれからすごくいろいろあった。アイツは絶対産めって押しかけてくるし。お母さんと大喧嘩になって警察呼ぶ騒ぎにもなって、離婚することになった。凄い揉めたけど」
父親からしたら恵麻の親権は取りたかったはずだ。一族なのは父親の方なのだから。自分の娘を利用した実験なら手元に置きたいのは当然だ。
「いろいろあったけど弁護士入れてお母さんに親権がいくようにはなった。アイツは資産があるだけで別に権力があるわけじゃないからね。お母さんの実家は田舎だけど一応そこそこ権力ある家だから。おじいちゃん、引退してるけど政治家だったし。その伝手で紹介してもらった産婦人科があるからそこでおろす」
「そう」
遥にはそれしか言えない。




