9 発狂
「てめえも騙してたんだろう、冷静に話をしようなんて言いがって! 俺を油断させるための罠だったんだな、畜生! ガキの頃からの付き合いなのに、最初から俺を騙すつもりで!」
怒りは一度沸き起こってしまうと冷静な判断はできないし人の話を聞かなくなる。ヒエンの能力はまさに激昂と呼ぶに等しい凄まじい怒り方だ。
東馬は刃物を振り回しながら誰も近づかせないように一定の距離を取るとふらふらとそのままどこかに走っていった。とても遅くて追いつけるスピードだが、興奮状態で刃物を持っている東馬に近づくのは危険だ。手当てをしてあげたいが、応急処置をしなければまずいと言うことを東馬に認識してもらわないと手当などできない。
その様子を口笛を吹きながら戸部は見送る。そして、奪い取った信号機を見つめながらいたって普通に友人に話しかけるかのように鈴木に声をかける。
「追いかけてあげれば、幼稚園の頃からの腐れ縁なんだろ。あのままだと出血多量で死んじゃうけど」
戸部が動き出す気配は無い。鈴木は一瞬迷ったようだが、戸部を気にしながら東馬が向かった先に走っていった。二人の姿が見えなくなると戸部はバキッと信号機を握り潰す。素手で、あの硬い機材を。
「さてと。恵麻大丈夫? 顔色悪いけど具合悪い? なんかイヤな事でもあった?」
穏やかにそう話しかける。尻餅をついてしまっている恵麻は人形のように動くことも話すこともしない。
「……うそでしょ」
「そう思いたければそう思ってていいよ。好きなだけ現実逃避してな」
「うそだ」
「マジ。出会った時から猿です。人間っぽかったでしょ」
「うそだああああ!」
恵麻の泣き叫ぶ声が響く。それを聞いて戸部は楽しそうにケラケラ笑った。つまり、恵麻と付き合っていたのは実験の為。最初から恵麻はヒエンに、というよりこの研究に利用されていたことになる。父親の指示だろう。
「スタッフルーム行ったなら研究レポート見たんだろ。研究は第二段階に入るって書いてなかった? なんだと思う? 第二段階。社会と適合できるかってテーマの延長線なわけだけど、都築わかる?」
ぽいっと壊れた信号機を捨てると恵麻を見たまま問いかけてくる。今遥の頭の中は今この場をどうするか懸命に考えていた。身体能力を考えれば勝てるはずない。今は信号機を使っているが、遠距離攻撃をされたら敵わない。しかしこの様子だとおそらく自分たちを逃がすつもりはない、何故なら真相をペラペラ話し始めているからだ。秘密を知った者を生かしておくわけない。つまり、皆殺しにするという意志表示だ。
「そのまんまでしょ。ヒエンを人間として生かす。人間じゃないってばれるかどうか、人間として生きられるかどうか」
「そ。まあ正確には本当の戸部彩人は俺が殺しちゃってすり替わったわけだけど。親は俺が彩人だって信じてるよ、カッコウみたいだよね」
「……いつから?」
「さあ? 好きなように考えれば? 赤ちゃんの時かもしれないしつい最近かもしれないよ。まあ……」
恵麻を見ながら、ニタリと嗤う。
「お腹の子は、俺の子だけどね」
その言葉に恵麻は大きく体を震わせた。
「実験の第二段階って繁殖活動のことだから。ヒエンって雄しか生まれなくて腹は人間を借りるんだよ。そこまではレポート読んでなかった?」
その言葉に恵麻は震え始める。まさか妊娠を気づかれていたとは。それじゃあ、おなかの子は……。
「で、俺を散々苦しめて偉そうにふんぞり返ってるクソ野郎の娘に聞きたいんだけど。今どんな気分?」
「……」
いやいや、というように恵麻は首を振る。その様子を見ている戸部は本当に楽しそうだ。
「猿と何回もセックスして腹ン中に猿がいるご感想は?」
「いやああああああああ!」
「あっはは、わかりやすい感想どうも」
恵麻の絶叫と戸部の、いや、ヒエンの笑い声が響き渡った。それは人間の笑い声ではなく、獣の笑い声だ。ギエッギエッと笑っている。そしてそのまま、近くにあった動物の形をした子供用の遊具を掴む。遊園地にあるような子供が乗ると動く乗り物、錆びてただの置物と化しているがそれを掴むと。まるで発泡スチロールでできた物であるかのように軽々と持ち上げた。重さはおそらく四、五十キロはあるはずだ。それを片手で簡単に持ち上げている。
野球投手のような体勢になると、思いっきり投げ飛ばした。一瞬自分に来るのかとその場を避けようとした遥だったが、飛んでいったのは遠くだ。その方向は。
「鈴木! 東馬!」
彼らが走って行った方向。叫んでも聞こえるはずがない。遊具は凄まじいスピードで唸りを上げながら飛んでいく。遠くで、ガヅン、と音がした。




