7 竹本汐里ー私だってやればできる
一歩、後退りする。すると、その人はギョロッと片方しかない目を汐里に向けた。ひ、と小さく悲鳴をもらしてしまう。
「だず、げろよぉ……ひと、ごろじ……」
怨嗟に満ちた声。それだけ言うとその人は静かになった。目を開いたまま、まるで汐里を睨みつけるように。
何故、自分が責められる? 殺したのは猿なのに。この状態なら助けようがない。どくどくと心臓の鼓動が速くなる。
――私のせいじゃない、あの猿を恨んでよ、私じゃない。仕方ないじゃない。
必死に自分に言い聞かせる。しかし、はっと振り返ってはっきりわかってしまった。この位置からは汐里が隠れていた植木がよく見えるし、うっすら明かりに照らされている。
見えていたのだ、この人は。汐里が必死に隠れ、この様子をただ見つめていただけなのを。助けてもらえると思ったらただ見殺しにされた。それに気づいてしまった汐里は頭が真っ白になる。
でも、だって、じゃあどうすればよかったのか。あんな凄い身体能力を持つ奴どうにかできるはずないのに。自分が殺されれば良かったのか?
ぼろぼろと涙が溢れる。殺してない、仕方ない。そんなふうに考えても、この人の最後の言葉が忘れられない。……ひとごろし。
ギエッ ギエッ
どこからか鳴き声が聞こえ、慌てて周囲を見渡した。ヒエンはいないが、すぐ近くにトイレのような小型の建物が見える。扉が一つあって半開きだ。おそらくこの人がここから逃げてきたのかもしれない。ヒエンはこの中に入っていないし、ひとまずそこに隠れられればと慎重に近づいて中を覗いた。
すると配電盤のようなものがびっしり並んでいるが、その配電盤自体が扉のように開いている。
隠し通路だ、と直感的に思った。先程の人はスタッフなのだろう。それなら何か助けになるものや貴重なものがあるのではないか、と意を決して進む。
――大丈夫、ヒエンはいないし。生きてる人も、たぶんいない。
遺体があるかもしれないが、それはもう腹を括るしかない。鈴木が言っていた、動かなければ何も変わらない。待ちの姿勢は死を意味する。ゆっくりと、配電盤の奥へと進んだ。
下に降りる階段が続いており地下室があるようだ。誰もいないとは思うが足音を立てないように降りていくと一つの部屋にたどり着いた。
床には物が散乱し椅子がひっくり返っている。パニック状態だったのが想像できる。部屋はそれほど広くなくパソコンが二台ある。薄暗いのですぐにわかった、パソコンの電源がついている。
時間経過とともにログオフする設定になっていないらしく使える状態だ。何かわかるかもしれないと急いで適当にフォルダをクリックする。個人で使っているパソコンなのだろう、パスワード入力などもない。
ネットワークに接続できないようだがデスクトップなどに保存されている使用者個人のファイルは見ることができる。
いろいろと開いて見てみると大方はヒエンについてだった。ただし研究結果など重要なものは書かれていない、そういったものはネットワーク上にあるのだろう。どうやらこの使用者が個人的に気になっていたことをまとめているようだ。
「ヒエン伝説?」
実験や科学的検証ではなく言い伝えや伝承などをまとめてある。そういえば恵麻が言っていた、研究員には伝承などを信じている少数派がいると。読み進めても確かにこれを書いている人は新種の動物などではなく昔から伝わる妖怪のような存在としてヒエンを調査していたようだ。
そこに書かれていたのは、ヒエン伝説の詳細だ。ヒエンがいつからいるのかわからないが、山奥に住み人を襲う化け物とされていた。実際ヒエンを見つけたのは山の中、そして。
「ここの近くだ」
書かれていた地名はこの動物園のすぐ近くだ。もしこの動物園が本当に坂下家によって作られたのなら見つけた場所のすぐ近くに作ったということになる。
ヒエンは頭が良く人間以上に狡猾で惨忍、相手の心理を揺さぶるような行動してくるという。世話係が一年間で三人も犠牲になり、危険視をして検証の中止を求める声があがったそうだが中止にはならなかった。
このレポートをまとめた人はなぜそこまでこんな危険な生き物にこだわり続けるのか疑問を感じ独自に調査を進めていたようだ。
それによるとヒエンには特殊な能力があるという。それは相手を極限の興奮状態にさせるというものだ。地球上にはいない全く新しい動物だから、そう簡単には手放そうとしなかったようだ。




