「ばかやろう」
俺が単身赴任していたのは、新幹線で2時間半ほどの場所。帰ろうと思えば帰れなくはないが、帰ろうと思い立つのに少しの決断が必要な距離だった。行き来するだけで金も体力も使う。
会社から帰省手当てが出ることになってはいるが、この不況の折、経費削減と称してそういった出費も抑えるよう無言の圧力がかかっていた。他の単身赴任者も、なるべく出張の際に短い帰省も兼ねるようにしていたようだ。
流されるまま、俺も同じようにしていたら帰省の機会を逃し、あっという間に1年近くが過ぎた。その結果が、これだ。
電話しているから、メールもこまめに送っているから、だからコミュニケーションはちゃんと取れている。そんな風に思っていた自分を思い切りなじってやりたい。大馬鹿者、と。
一番大切なことを知ろうとしていなかった。一言、『元気か?』と聞けば、聞き続けていれば、妻もある日ぽろっと零したかもしれないのに。
あの明るい妻が重病だなんて、考えもしなかった。俺はなんと愚かなんだろう。
”妻”の作ったシチューを口に含め、視線はテレビに注いだ。あれ以来、何度となく妻が遺したあの映像を見ていた。この家には妻の声はたくさん響くが、妻の動いて喋っている姿は、多くは残されていない。この映像が、最も最近の妻の様子であり、最も多く喋っている姿なのだ。
話している内容なんてとっくの昔に頭に入ってしまっている。なんなら、同時にすべて諳んじることもできる。だが、俺の声で喋ったところで虚しいだけだ。
見ているだけで、胸が抉られる思いがするのだ。これ以上、自分で傷を抉る必要などないだろう。
妻の語りを聞きながら、葬儀直後に聞いた話を思い出した。
妻は、道で突然倒れたらしい。通行人が何を聞いても、『苦しい』『痛い』しか言わなかったそうだ。そして、運ばれた先で息を引き取ったとか。
癌の転移により、呼吸器にまで異常が出ていたらしい。近所の人の話によると、息苦しそうにしている回数が多かったとか。
なんて馬鹿なことを……そんな言葉が、頭の中を巡って止まらない。
こんな仕掛けなんか作ってないで、こんな映像撮ってないで、さっさと入院して手術すれば良かったんだ。そうすれば、少なくとももう少し長く生きられただろうに。苦しいまま日々を過ごさなくてよかったかもしれないのに。
どうして、苦しいと言わなかった。俺はそんなに頼りないのか。妻がいなくなったら何もできなくなってしまうと、そう思われていたのか。
『そろそろ時代劇の時間ですよ! 早く早く!』
この機械、どうやらテレビの番組表データとも連携しているらしく、俺の見たい番組のキーワードを登録していて、勝手に番組をピックアップしてくれる。
そして番組開始5分前には、こうして知らせてくれるのだ。いつもいつも、俺の先回りをして、俺の世話を焼いてくれる。
自分のことなど構わずに。こんな手の込んだものなんて作らなくて良かったのに。
テレビくらい自分で調べる。洗濯だって掃除だって料理だって、文明の利器を使えば何とかなるんだ。
俺のために、手術を受けなかったと言うつもりか。重病も痛みも苦しみも、すべて飲み込んでいたと言うのか。俺は、そんなに頼りないのか……!
「ばかやろう……!」
叫ぼうとしたが、声は掠れ、宙に消えていった。
あの日以降、同じ想いが何度も何度も頭の中を巡る。巡って巡って、どれだけ巡っても、納得できる答えにはたどり着かない。たどり着くのは、いつも1つ。
憤りと虚無感だ。
妻にとって、俺が頼れる存在じゃなかったということじゃない。
俺が、妻を安心させてやれる男じゃなかった……それが事実なのだ。
結婚して、五十五にもなって、大きなプロジェクトにも参画できて……それがどうした。俺は、大病を患った妻一人、安静にさせてやれない情けない奴なんだ。
「すまなかった……!」
シチューに涙がぽたぽたと落ちていくのを、俺一人だけが見つめていた。
こんな時、妻ならどうしただろうか。宥めてくれただろうか。黙ってコーヒーでも淹れてくれただろうか。
そして思い出した。俺は、妻の前で泣いたことなど、なかったのだ。
経験してないものは想定できるはずがない。そう考えて、また情けなくなった。
俺は、こんな時でもまだ、妻の面影を求めていたのだ。