⑦ 交渉から治療へ
正直なところ、アンスィ・アロトナにとって医者という職業は生きていくための手段としての意味合いが強く、自分の本質は学者であるという認識であった。
ブラックテイルⅡで船医をしているのも、それ以前にブラックテイル号で同じく医者をしていたのも、やはり食べて行くためであり、平行して学術的な活動も出来るという部分に惹かれたからであった。
なのでつまり……医者としての自分がどれ程のものなのか、自分の中の評価では、それ程上等なものでは無かった。
(そんな私が、二つの国を跨いだ医療を行うなんて、ちょっと想像出来なかった……かな)
考えながら、アンスィは姿勢を正した。
「はい、それでは皆さん、これから始めます」
ブラックテイルⅡ医務室。ある程度広さはあるそこに、それでも狭く感じるくらいに人が集まっていた。
まずはアンスィ本人。次にブラックテイルⅡの艦長、ディンスレイ。その隣にはテグロアン副長も居た。さらに最近は良く顔を合わせるララリートに、その他に医療に興味があるらしい船員が二人。
最後に、ガウマ国で出会ったウーフ師が対面に居た。
「ፓያሞOጢ、ዿጫፑቘቱኔቋሬሥሀ」
「……!」
ウーフ師の言葉は相変わらず分からない。ララリートが慌てて翻訳しようとしてくれたが、アンスィはそれを止めた。
「だ、大丈夫。分かるから……」
準備は出来ている。向こうはそう言ったのだ。
ウーフ師の診療所にて、彼からガウマ国の医療技術について聞き、学び、一方でアンスィがシルフェニアの医療技術、文化を伝える中で、アンスィ達は新しい医療というものが見え始めていた。
シルフェニアとガウマ国。双方の医療技術は方向性が違う。アンスィが薄々感じ、そうしてウーフ師と技術交流を続ける中で、より鮮明に理解する様になったその事実。
当初、それはある種の隔たりであり、理解し合えない壁であると感じていたアンスィであったが、ウーフ師から学び続けるうちに、考えを改める事になった。
なるほど。方向性が違うという事は、組み合わせた時に、より広い視野が得られるのだと。
「そ、それでは、皆さんにも説明します。こ、これから行う治療行為は……わ、私達シルフェニアの物に……一見すれば……近いものとなります」
今、医務室に集まっているメンバーは、アンスィとウーフ師、そうして翻訳役のララリート以外は、新しく生み出した治療行為の見学としてここに集まっている。
なので、実は部屋の中にもう一人のメンバーが居るのだ。
未だ昏睡状態であるレド・オーというオヌ帝国の男。それが今回の医療の対象だ。
「し、シルフェニアの医療において……か、患部となる場所を切り開く……切り取る……ま、また、縫うと言った代表的な行為を……これから彼に行う……という事です。で、ですが、見ての通り、か、患者に外傷というものは……ありません。ど、毒によるし、身体へのダメージ。今、か、患者が昏睡しているのはそれが理由……ですから。ち、ちなみに、ど、毒そのものは、じ、事前に説明した通り、既に体内から取り除いた……状況です」
レド・オーを治療するとう事は、つまり、毒が身体に回った結果として発生した体内の損耗をどうにかする必要があるわけだ。
無論、それは切ったり縫ったりするだけでどうにか出来るものでは無かった。
毒による損耗。それ自体は恐らく、やはり傷なのだとアンスィは思う。ただ、それが微細でさらに数多い。毒とは言わば極小の刃物の大群みたいなものだ。もしくは鋸とか先の尖った歯車とか。
そういうものが体内に入り込み、身体の特定の箇所に作用し、大量の傷を残す。
なので、治療にはまずその傷を付けるものである毒を排出する事が大切だが、そこより後が無いのが難点だった。
とてもとても小さく、とてもとても多い傷を治す術は無い。いや、その一つ一つの傷を、それこそ切ったり縫ったりして治せれば良いのであるが、いかんせん、そんな小さな手術器具も、大量の医者も存在しない。
それがこれまでのシルフェニアの医療の難点。
「ほ、本格的に……ち、治療を開始する前に……が、ガウマ国の医療の話を……します。私も……せ、せいぜい一週間程度学んだに過ぎない医療……ですが」
喋りながら、アンスィはレド・オーの身体に手術器具の刃物を当てた。その身体に切り傷を作るためだ。
その箇所は喉と胸。開く傷自体は大きく無いが、ある程度深い。患者が昏睡しているのは不幸中の幸いかもしれない。麻酔が無くとも暴れる心配が無いのだから。
「その傷の箇所は、どの医療でも必須なのか?」
ディンスレイ艦長が尋ねて来る。その質問に、手術を続けながらアンスィは答える。難しい作業では無く、急ぐ作業でも無いから、口を開けるタイミングでもあった。
「こ、今回の場合は……こ、ここです。口から喉を通り、胸に達して、そこから広がるのが、か、彼が摂取した毒の特性……ですので」
目的の傷を作り終える。傷は深いが、それでもやはり狭いものなので、見た目には血が滲む程度だ。
今、必要なのがこの傷であった。
「ど、毒に寄る影響が、も、もっとも出ている箇所。そこに傷を作る……というのが、この作業です。さ、先ほど、ガウマ国の医療の話をする……と言いましたが、そ、それは……こ、ここからの話だから……です」
アンスィは患者の近くに配置した机の上から、細長いガラスの棒を手に取り、その隣にあった空のビーカーを見た。
アンスィがそれを見つめていると、別に鉢の様なもので調剤を続けていたウーフ師が、その蜂の中身をビーカーに注ぐ。
それは黒い液体に見えた。
「こ、これが……ガウマ国の薬……です。が、ガウマ国の医療は、お、主に薬を飲む事に寄って……お、行われます」
「その薬だが……見たところ、私が以前に飲んだものとはまた……違って見える」
「は、はい。か、艦長がお飲みになったものとは……こ、効能が違うものですし……な、何より、濃度が違います」
「濃度……薄いという事か?」
アンスィは頷く。
以前、ディンスレイ艦長が飲んだガウマ国の薬は、もっとどろっとした物であった。だが、今回、ウーフ師が用意してくれたものは、それよりも薄く、まさに黒い水と表現出来るものだろう。
「が、ガウマ国の薬は……そ、その濃度が、こ、濃い程に……効果が高まるそうです。な、なので、その元になる薬草も……か、かなり数が必要になります」
だからこそ、アンスィ達が畑より盗んできた薬草では、まだ数が足りないのである。
その状況を改善にするには、さらなる薬草を用意するか、薬草そのものの効果を強める必要がある。
前者はしていない以上、今、アンスィがしているのは後者であった。
「こ、これを飲む……というのが、が、ガウマ国の本来のやり方ですが……わ、私と、う、ウーフ師は……体内に、より直接取り込ませる……という治療を考案しました。ど、毒が身体のどこで……どういう反応しているのかの把握は……し、シルフェニア側の医療技術が、得手とするもの……ですので」
伊達に切ったり縫ったりする派閥の医療ではないという事だ。そこにブラックテイルⅡの医療器具も合わさって、今、患者の身体に作った傷は的確な場所を開けているはずだ。
「薬を直接その箇所に塗れば効果が増加する。医療についてはあまり知識不足で申し訳ありませんが、その様に都合の良いものなのでしょうか?」
今度はテグロアン副長が質問してきた。アンスィが苦手とする船員の一人であるが、鋭い質問だったので答えざるを得ない。
「ほ、本来、く、薬とは……体内への取り込み方が……じゅ、重要になってきます。お、仰る通り、か、患部に直接作用させれば……も、もっとも効果が高まる……と言い切れるものではありません。た、ただ……ガウマ国のそれは……別です」
アンスィは説明のために、ウーフ師が調剤していた材料の一つであり、アンスィ達が盗んできた薬草の葉を一枚見せる。
葉の裏側には、以前に見た通り、黒い変色が発生している。
「こ、この……黒い色……み、みなさんは何だと思いますか……?」
言われて、艦長含む見学者達が目を凝らして葉の黒い色を見つめる。
そんな中で、最初に意見を発したのはララリートであった。
「えっと、単なる葉の変色……ではないんですか?」
ある意味、予想した通りの返答だったので、予定通りにアンスィは首を横に振った。そうして、この場において恐らく、もっとも重要な言葉を口にする。
「この黒は……虫です」
「……!」
ざわつきはしなかったが、それでも皆が息を飲む音を聞いた気がする。
それはそうだろう。別に葉の裏を蠢いたりしているわけでは無いが、それでもこの黒が虫なのだとしたら、葉の裏にびっしりとそれが存在しているという事なのだから。
「すまない……再度の質問なのだが……どういう風な……虫なのだろうか? その黒全体が一匹の虫とか、そういうのもあるだろう?」
「ひ、非常に小さい虫が……た、大量に張り付いている形に……なります」
「やはりか……」
当たって欲しく無かったという風に自らの腹を摩るディンスレイ艦長に対して、アンスィの方はそれほど虫に嫌悪感は無かった。
何なら、こういう生態の虫が居るという事に好奇心が擽られる。学者としての自分が顔を出しているのだ。
(多分、この医療に行き着いたのも、医者としてより、学者の方の私が居たから……)
ならば、ここに自分が立っているのはやはり正解なのか。それとも運命染みた何かがあるのか。
(この際……どちらでも構わない)
今は患者を治す。医者としての自分がそこで答えを出した。この黒い虫こそが、今は最良の治療方法を行わせてくれるのだ。それだけで良い。
「こ、この小さな虫を使った医療……。が、ガウマ国の医療の本質は……そこにあります。元々は……ほ、本当に薬草を使って薬を使うという行為、だったのでしょうし……事実、その技術も……ガウマ国では発展を続けています。で、ですが……特異性はこの虫にある……かと」
その扱い方については、アンスィも未熟と表現出来るだろう。まだ学び始めて間もない状況。
なので、ウーフ師の手助けが必要であり、彼をブラックテイルⅡの医務室までやって来させたのだ。
彼にしても、まさか怪しげな取引を持ち掛けて来た相手が、軍艦一隻引き連れているなどと想像もしていなかったであろう。
それでも、今、ここに居るのは、彼もまた医者だからだろうと思う。そこに患者が居て、治せる方法があるというのなら、見過ごすわけには行かないタイプだ。
「それが虫だとして、虫が、毒を治療するのですか?」
いまいち想像できない。そんな様子のテグロアン副長に対して、アンスィは注釈を入れる事にした。手に持ったガラスの棒を、ビーカーに入った黒い水に浸けながら。
「こ、この黒い水こそ……む、虫を葉から抽出したもの……です。そ、そうして、こ、この虫は……非常に面白い働きを……します」
「ほう」
「む、虫と葉は……い、一種の共生関係にあります。は、葉の方は、む、虫が生存し易い環境を……そ、その葉の裏側に作る事で、む、虫の繁殖を助け……む、虫の方は、葉が欠損した場合……それを自分達の身体で補おうとするんです」
小さな虫が、葉の欠損を補う様に、自らをその葉の組織と一体化させるわけである。
結果として、葉の形質は維持され、その長期の生存を虫によって保障されるから、葉の方も虫をさらに繁殖させやすくなる様に変化していく。そういう共生関係だ。
その虫側の特性を、ガウマ国の医療は利用するのだ。
「もしや……人体でもそれが起こるのかな?」
「そ、そうです、艦長。あ、ある特定の抽出パターンで取り出したこの虫は……じ、人体にも……同じ作用をもたらします。で、ですから、その量が大切なんです」
例えば身体の傷を補うためには、その傷と同じ量の虫が必要になってくる。そこがガウマ国側の医療の難点だった。
これまでは。
「こ、これから行う医療は……さ、先ほども説明した通り、患部に直接薬……この虫を届けるものになります。き、傷をすべて治療するのでは無く……か、患者を苦しめている患部や……病巣にのみ、届かせるんです。ほ、他は患者当人の自然治癒力に任せ、致命的な部分だけを治す。け、結果として、必要となる虫の量は……非常に少なくなる……というものが、今回の、た、試す事になる医療の内容なわけ……ですね」
治療を受ける側にとっては、どんな医療だろうとも治れば良いわけなのだが、少量の薬で効果を発揮出来るというのは、医者にとっては非常に助かる事であった。
技術は医者が健在である限りはどうにかなるかもしれないが、薬は使えば無くなるものだ。
特に、薬不足に陥っているガウマ国の状況ならば、是非でも欲しい技術であろう。実際、これへの道筋が見えた時点で、ウーフ師はこれまで以上に協力的になった。
アンスィ達が盗んできた薬の備蓄を、さらに活かせるからだ。
「さて、ではこれで実際に効果があるかどうかが……分かります」
先ほど開いた傷口に、黒い水に一旦浸したガラスの棒を入れて行く。理屈の上では、これを患部に届かせる事で、その効果が現れるはず。
やる事そのものも単純なのだ。患部がどこにあるのかと見極めと薬の量の調整。その二者に気を付ければ、後は既存の技術の応用でしかない。
こんな実験的な医療を、昏睡状態の患者に対して行う事を決めたのは、それが特段、危険な物では無いためであった。
(あくまで、二国の医療の発想を組み合わせる事で、これまで無かった視点から治療を行うというだけの話。けど、実際に試してみるまで、何が起こるか分からないのが、この手の実験だから……)
やるならば慎重に、そうして患者の状況を第一に。
ガラスの棒を黒い水に浸し、傷口に挿入し、そうして抜く。
それを幾度か繰り返した後、アンスィはその手を止めた。
「……こ、この治療が終わるタイミングは……か、患者に開いた傷口が……閉じる頃です。む、虫は……そ、その傷口も……閉じてしまいますから……」
つまり、薬を患部へと届かせる制限時間があるという事だ。
慎重に行った治療だが、一方で滞る事は無かったと思う。つまり、現時点の医療行為で効果が無ければ、アンスィとウーフ師が考案した治療行為は失敗だという事になる。
「……」
暫しの沈黙。医者として、やるべき事が終わった以上、そうなるしか無い。治療行為の当初、アンスィが患者に開いた傷は、既に閉じてしまっていた。
虫に寄る医療は、即効性のあるものだ。ディンスレイ艦長が寄生虫により腹を下した時も、飲むだけで胃の傷が治った様に、黒い水を患部に直接塗った形になる患者も、すぐに回復の兆候を見せるはず。
(お願い……効いて……)
祈る様な気持ち。ちらりとウーフ師の方を見れば、彼も多分、アンスィと同じ様な表情を浮かべていた。
別に、自分達が作り出した医療技術の成功を祈っているわけではない。これから、ブラックテイルⅡの状況が良くなる事。それを考えているわけでも無い。なんなら、シルフェニア本国の状況すら関係無かった。
医者として、ただ一人の患者の回復を願う。そういう気持ちが、アンスィやウーフ師にはあるのだ。
結果はもうそろそろ、出るはずだ。
「……これは」
駄目か? 患者は目を瞑ったまま。
レド・オーという男はただ、ベッドで横になったまま、意識無く、うなされた様な声を出して―――
「ウーフ師!」
「ቛሪ፩ጠጀሑq!」
アンスィが叫び、ウーフ師が答える。やはり言葉が通じない相手であったが、お互い、何をしようとしているかがどうしてか分かった。
アンスィはレド・オーが取り戻そうとしている意識を後押しするため、その肩を揺する。一方でウーフ師はレド・オーの瞼の近くで指を振った。
本当に意識が回復しつつあるのだとしたら、その感覚で目を開くはず。
「う……ぐっ……あ」
悪夢にうなされる様に。どちらかと言えば死の世界から蘇る様に。患者だったその男は、声を発し始めた。
そうして、大きく息を吸った後、はっと、目を見開く。
「こ……ここ……は……」
患者の意識回復。医者にとってはとても喜ばしい事象が、今、目の前で起こった。ただ、問題はその次である。
「あ……えっと……」
こういう状況を作り出す事だけに最近は注力していたため、何と声を掛けたものか、咄嗟に思いつかなくなってしまった。
「Nኰጪቲዊፐቲሄሂ……」
ウーフ師の方なんて、そもそも言葉が分からないから、何を話し掛けたって意味が無いから困惑する他無いらしい。
そんな今さら頼りない医者二人の代わりとばかりに、一歩、ディンスレイ艦長が足を踏み出し、患者、レド・オーの視界へと入った。
「やあ、レド。暫く君は眠っていたが、恐らく、まだ疲労しているだろうから、ゆっくりしていてくれ。その後、君との約束について話をしようじゃあないか。君がそれを憶えているのなら、是非、話し合いたい事がある」
何より、今の状況を望んでいた艦長が話しかけたのは、もしかしたら正解だったのかもしれない。
朦朧としていたレドの表情が、徐々に精彩さを取り戻して来たからだ。
「ディン……スレイ……か」
さすがに、まだまともに話をする体力は戻っていないらしいレドに対して、アンスィは目配せする。
その意図を察してか、ディンスレイ艦長は下がり、次に漸く、アンスィはレドに話し掛ける。
「あ、あなたは……飲んだ毒から、回復したばかりです。ど、どうか……暫くは安静にしててください。な、何か質問があるのなら……後程答えますので……い、今はそれを整理する時間にしていただければ……と」
「わかっ……た」
漸く、医者らしい言葉を向けられた。
その事に胸を撫で下ろしながら、見学に来ていた船員達とも視線を合わす。
その後の看病もアンスィの仕事であるが、とりあえずの山場は越えた。
次に山を登るのは誰になるのか。ブラックテイルⅡが抱えた問題はまだまだあるが、とりあえずアンスィが関わる一つについては、今、この瞬間に解決したらしかった。




