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無限の大地と黒いエイ  作者: きーち
無限の大地と新たなる旅路
42/165

① 新たなる旅路

「副長。ディンスレイ副長」

 その声を聞き、ふと意識が現実へと戻って来る。

 いや、声を聞き逃すくらいに間抜けな顔を晒していたわけでも無い。

 その声を聞く前から、話の内容は頭に入っていたし、何をどう返答するべきか答えは出ていた。

 ただ、答えが出ている以上は他に思考を向けていたのだ。ディンスレイの脳は、どうにも休む事を嫌うらしい。

 しかし話し掛けられた以上は、一旦はそんな頭の働きを止める必要がある。

 そう判断したから、急に現実に戻って来た様な錯覚に襲われたのだ。

 だからさっさと、自分に話し掛けて来た相手。今、勤務している飛空艦の艦長に向けて言葉を返す事にした。

「はい、艦長。ただいまの飛行は順調ですよ。機関部のビニエスタは仕事に慣れて来たのか手を抜く事を憶えてしまっていますし、食堂の食事メニューの質が落ちているのは、班員のうち一名が食材を中抜きしているのが原因ですし、今、メインブリッジメンバーの一人が定期報告を忘れたのも、まあ問題のうちには入らないかと」

「……副長。君の言葉は君の才覚を感じさせるものだが、それを多少、隠そうとは思わないのかね」

 そう言われて、ディンスレイはきょとんとした表情を浮かべる。

 そうして、周囲を見た。

 ここはシルフェニア国軍が所有する飛空艦、ダイアングラー号のメインブリッジ。その事は十分に理解していた。

 ダイアングラー号は船体の扁平さと、各部にバランス良く配置された浮遊石の力で、航空時の安定力が特徴と言える飛空艦だ。

 船体自体は中型飛空船の中でも大きく、居住面積も広い事から、余剰人員も多数いる。

 良く言えば安全。悪く言えば退屈さが際立つ、そんな飛空艦であり、尚且つ相応に艦としても古い。

(つまりは……まあ、艦内の空気が弛緩しがちな艦という事ではあるか)

 ディンスレイは余計な思考を再開しつつ、その様な結論を出した。

 ただ、思考は再開したものの、この艦の艦長、フラミニーズ・ジョウズに質問をされている状況だから、器用に返答もしておく事にした。

「失礼。艦長に質問された手前、少々張り切ってしまいまして。さっきの言葉は忘れてください。観測士からの報告が遅れているのも、まあ、事情があるのだと艦長が思っていただければ、後でどうとでもしておきますので」

「まったく……私が言いたい事を少しも分かっていないらしいな」

 いいや、分かってはいる。

 この艦内におけるディンスレイは、他とは空気が違っていると言いたいのだろう。

 だから、それに合わせろとフラミニーズ艦長は言っている。

 その言葉は妥当だ。この艦、ダイアングラー号はディンスレイから見て、幾つもの改善点がある艦ではある。艦そのものというよりは、それを動かす人員に関してだ。

 だが、それでも、無視できる範疇ではあるのだ。

(今現在、この艦はシルフェニア国南部。諸国家群との国境を定期巡回中。何度も行われるルーチンワークであるからこそ、作戦中に重要視されるのは、波風を立てず、飽きていたとしてもそれなりに結果を出せる、惰性への順応……別に馬鹿にしているわけでも無く、そういうのが必要な時があるわけだ)

 それがダイアングラー号という飛空艦の特徴だった。

 結局のところ、それで不満を感じるディンスレイの方が異質であり、周囲に合わせるという能力が不足しているのだろう。

「とりあえず、そろそろ次の街に着く。一度、一緒に食事でもどうだね、ディンスレイ副長。君はほら、なかなか冒険譚のネタを持っているのだろう? 聞かせてくれれば嬉しいのだがね」

 フラミニーズ艦長は、退役間近な老いが見える顔に無理をさせて、作った笑いを浮かべて来た。

 彼からのディンスレイの評価が芳しくないのもまた、知っている。

 だというのに、少しでも艦の空気を良くしようとフラミニーズ艦長も無理をしているのだ。

 彼とて無能の輩では無い。でなければ艦長職になど付けるものか。

 そう思いながら、ディンスレイは言葉を返した。

「ええ。そうですね。何料理にしますか? にく……いえ、美味い魚料理のある店を知っていれば助かりますね」

 それだけを返した。仕事の後に重い料理は遠慮したい。相手がそう考えているのを察せられるくらいに、ディンスレイだって空気が読める人間だった。




挿絵(By みてみん)


 ディンスレイが未踏領域の旅を終えてから、今日で丁度一年が経つはずだ。

 ふと、そんな事を思い出したのは、あのまだ見ぬ空が眼前に広がる景色を、懐かしく思えてしまったからだろう。

 今、ディンスレイがいるのは、そんな景色と正反対とまでは言わないが、古臭さと親しみを覚えるタイプの料亭であった。

「なかなか、良い趣味の店ですね」

 そう言葉にしてみたのは、木造の壁と床。そうして清掃はされているはずだが、それでも経年が見て取れるやや黒ずんだ机を、出来る限り良い言葉で表現しようとしたからである。

 実際、安心感はあった。何か特別な事は起こり得ない。驚く様な料理も出て来る事は無いだろうと断言できる。

 そういう店に、ディンスレイはフラミニーズ艦長とやってきていたのだ。

「ああ、この街にくると、大半はここに寄るんだ。君が魚料理を提案してくれて幸いだよ。ここの煮魚は絶品だぞ?」

 絶品な料理が出て来る店……とは思えないが、フラミニーズ艦長が誘ってくれた場所だから、とりあえずの期待はしておく事にした。

 現在、ダイアングラー号がやってきているのはシルフェニア南部国境近くにある都市、バルンデンフォルグである。

 この街よりさらに南方には諸国家群とまとめて呼ばれる、小国乱立地帯が存在していた。

 地形が起伏に富み、さらに自然環境も入り乱れた土地が暫く続いており、それぞれに合わせた国が出来ては潰れ、争い、時に融和し、その乱立具合を維持している。

 文化も言語もまたシルフェニアとは違っており、そんな諸国家群がシルフェニアへとやってくる際の入り口が、このバルンデンフォルグと言えた。

「ほら、手を止めて無いでフォークを進ませると良い。なかなかに懐かしい味わいがする。私の故郷でも似た様な料理があってね。それを思い起こさせてくれるというわけだ」

 フラミニーズ艦長の故郷の味という事は、純シルフェニア風の味付けという事だ。苦手というわけでも無いが、国境沿いの都市での食事となれば、むしろ異国情緒豊かな料理を所望したいところだった。

 実際、このバルンデンフォルグでは南方諸国家群から多用な文物に食材も輸入されており、街並はカラフルな多様性に富む。

 その手の多様さと味付けを楽しみたいと考えつつ、艦長に促される様にディンスレイは煮魚を切り分けて口へ運んだ。

「ええ。確かに、懐かしい味がします」

 どこで食べたかは分からないが、どこかで食べた事がある味だった。

 特段、何かしら新しい発見も無い。その事を、対面に座っているフラミニーズ艦長は良い事だと考え、ディンスレイは物足りないと感じる。結局、問題はそこにあるのだろう。

 せめて、あの未踏領域の旅から帰って来たばかりの時期なら、この料理をむしろ歓迎出来たのだろうに。

「あー……それでだな、ディンスレイ副長。君がダイアングラー号の副長に赴任してきて、どれくらいになるだろうか?」

「だいたいは、半年ほどになりますか。仕事に関しては、慣れて来たところです」

「そうかね? そうであれば助かるが、それはそれとして、君の話を続けさせて貰うよ?」

 どうにも、この二人きりの食事会は交流目的以上に、お叱りの意味もあるらしい。少なくともディンスレイはそう取った。

「今朝方のメインブリッジでの話だ。確かに観測士は定時報告を忘れた。これは良くない。しっかり指摘するべきと考える君の意見だって間違いじゃあないが、やはり組織を円滑に動かして行くには、叱るという行動にも、少しばかり工夫が必要だ。君も副長という立場なら理解して欲しいが、出来れば誰かの目の前で叱るというのは止めてやって欲しい。分かるかな?」

「確かに、それはその通りでした。こちらの考えが及ばなかった事は、申し訳ない話です」

「そ、そうかな? そうかそうか。君がそう思ってくれているのならそれで良いのだよ」

 ただし、同じ観測士が同じ失敗を、ディンスレイが憶えている限り、これで五度目だという事態を考えなければの話である。

 弛緩しているにしても酷い。恐らく本人の適正として、どうしたって気が抜けるところがあるのだろう。

 別に切り捨てろという話では無く、この手の人員の場合、他人の目があった方が当人にとっても本気になれるのだ。五度目の失敗を見て、そろそろそんな状況にしてやるべきだろうと考えたディンスレイだったが、フラミニーズ艦長とは意見が違うらしい。

(この点も、フラミニーズ艦長とは考え方が違う部分だろうな。とりあえず、当たり障りの無い形で事を納める。船員の成長を促すにしても、過激な事をするべきでは無いと、そういう事を言われている)

 ではこれはフラミニーズ艦長の怠惰が原因か? そうとも言えない。

 何度も自分なりに思う事であるが、ダイアングラー号は未知の冒険も過激な作戦も行わない、平凡を絵に描いた様な艦なのである。

 そんな飛空艦において、何かと波風立てようとしているディンスレイの方が問題なのである。

 フラミニーズ艦長の意見がこの場では正解だ。だからただ頷いて、煮魚を食べ進める。

「ああ、ところで、別に君をないがしろにしようとしている訳でも無いのだよ? というより、君の経歴を思えば、是非、ダイアングラー号に新たな空気を取り入れて貰いたいと思っている。その年齢で、艦長経験があるというのもそうだが、未踏領域からの帰還経験。この経歴を聞かされた時は、年甲斐も無く驚いたものだよ。私の部下に、将来のエリートがやってくるぞ、とな?」

「いえ。そこまで持ち上げなくとも、今の立場がらしいんですよ。私は」

 自分の階級。シルフェニア国軍少佐という地位は、飛空艦の艦長という立場にまったく相応しくないとは言わないが、かなり少数の立場だ。例えばフラミニーズ艦長は一つ上の中佐であり、まさにそれくらいの階級から艦長職という物に任官する。

 だが、それでもディンスレイは、こんな自分でも艦長だった時があるんだぞという記憶は忘れない。自分の意地だけで無く、かつて部下だった者達の事を思えば、その記憶を悪いものにしたく無いのだ。

(もっとも、過去の栄光の類と言えばその通りではあるか。今の私は、国軍に飼い殺しの立場だ)

 目の前のフラミニーズ艦長にしてもそうだが、ディンスレイが未踏領域で何をして帰って来たかを、国軍においても多くの者が知らない。

 シルフェニア国を左右する技術を持って帰って来た。未踏領域の先にある脅威についての情報もセットで。

 それらは国軍でも上層部。そうして政治家達の中で大部分が秘匿されており、現在は小出しにされていっている状況と言える。

 ブラックテイル号。ディンスレイがかつて艦長を務めていた飛空船が持ち帰った技術は、そろそろ国内で発見された新技術として、巷間で流れ始める事だろうが、その技術の背景を皆が知るまでは、まだ時間が掛かりそうであった。

「君がうちの艦に来る際、持ってきた推薦状は随分と上の立場から来たものだったぞ? 相応に期待されているわけだ。今後、問題無く仕事を続ければ、私より上の立場になるのは確定しているな。だからほら、あまり自分の立場を卑下するものじゃあない。分かったかね?」

「ええ、勿論。そこは十分に」

 やはり、フラミニーズ艦長とて優秀なのだ。少なくとも、ディンスレイの本心が分かるくらいには。

(ただ、言われなくとも納得はしているんだ。私という個人を国軍に縛り付ける形で、他のブラックテイル号船員達の自由は勝ち取れた。私だって、未踏領域で何があったかを口外しない限りにおいて、実務が出来る職に付ける様になった。満足するべきなんだ。今の状況でな)

 本来であれば誰とも接触出来ない閑職に追いやられ、監視の元に置かれる可能性もあったのだ。

 そこはディンスレイの恩人である上司の一人が動いてくれた結果、ディンスレイという軍人を働かせなければ損失であるという結論に至らせてくれた。その事にも感謝の気持ちがある。

(もっとも、今の立場が閑職ではないとも、言えないかな)

 会話を続けながら、ディンスレイは煮魚を再び口へ運んだ。

 変わらない、刺激の無い味がする。

 それが今の、ディンスレイという人間の立場であった。




 バルンデンフォルグでの滞在を終えたダイアングラー号は再び南方の国境線沿いを進む。

 シルフェニアの外交方針が、出来るだけ争いを起こさない様にというものになった時点から、国境線とはただ見張りを続けるだけの場所として認識される様になったため、ダイアングラー号もまた、ただそれだけをする飛空艦として存在していた。

 南方諸国家群側も文字通り、国が乱立しており、シルフェニアという国の脅威となる国力を持つ国は暫く現れないだろうと予想されている。

 つまりこの南方国境線沿いというのは、国軍にとって非常に退屈な場所と言えるのだった。

(シルフェニア国軍にとっての最前線とは、国内の未開拓の土地の探索や開拓。そうして、未踏領域への冒険と言える。そこと比較すれば、妙な事に、この国境沿いという場所は後方と呼べるのだろうか?)

 ダイアングラー号メインブリッジ。艦長席の横の副長席に座りながら、ディンスレイは考えを進める。

 今はフラミニーズ艦長が休憩中の時間であるため、副長であるディンスレイがこのメインブリッジ、いや、艦全体の指示を行う立場となっていた。

(気楽ではあるな。やる事が無いから、退屈である事は変わり無いが)

 本当なら、船員を試したり成長を促す様な指示を出したいところであるが、この艦のトップはあくまでフラミニーズ艦長。彼が居ない間に彼の方針を曲げるというのは筋違いであろうから、艦長が居ない場において、ディンスレイもまた、波風を立てない指揮というのを心掛ける様にしていた。

「む……」

「えっ。なんでしょうか? 副長?」

「……いや、何でも無い」

 と、操舵士との会話も当たり障りなく。

 実際は、今、本来予定する航路からズレが発生していたのに操舵士が気付いたらしく、慌ててそれを修正した行為を指摘しようとした。

 さらにはその件をネタに話し掛けたいところであったが、今の操舵士はそれを雑談の始まりと取らず、委縮する言葉として受け止めるはずだ。

 波風立てず。その方針を思えば、そういう委縮を発生させる事も出来ず、ちょっとした言葉のやり取りで終わってしまう。

(私の好みとしては、艦長の判断にいざとなれば食って掛かる様な操舵士が望ましいのだが……)

 贅沢は言うまい。

 かつて、自分が艦長をしていた頃の操舵士は得難い才能と図太い性格をしていた。

 飛空船の操舵に本能染みた独特な感覚を持っており、それは時折、ディンスレイの予想を超える結果をもたらしてくれた。

(そういえば、彼女は今頃何をしているのだろうか?)

 ミニセル・マニアル。溌剌として、どこまでも前を向いている様な女性。

 ブラックテイル号での旅が終わり、お互い別々の道を進み始めたタイミングで、直接会う事が無くなってしまった。

 今でも連絡は取り合っているのだが、その内容は、お互いの事では無く、お互いが知る共通の知人に関する事ばかり。

 今、それぞれが何を思い、何をしているのかについては、あえて避けた内容になってしまっていた。

 ミニセル側がどうしてそんな気遣いをしてくるのかは分からないが、ディンスレイの方は勿論、自分の事なので理由は分かっている。

(今の私の立場も、あまり言いたく無いんだな。国軍の飛空艦の副長というのも、別に恥じ入る様な立場では無いのだが……彼女らの前では、艦長でありたいんだ)

 だからこそ、艦長では無い今の自分について、多くを語りたくない。そういう意図があって、手紙ではディンスレイ自身についてをあまり書かない様にしていた。

(それを思えば、向こうも同じ、不本意な立場にあるのかもしれん。いや、存外、私が驚く様な状況になっているかも?)

 どちらか分からない以上、後者であると信じた方が楽しいかもしれない。

 あの波乱に満ち、後悔もあるあの旅から一年。夢の中の残光はまだディンスレイの中に残り続けていた。出来れば今後も、それを残したいと思うから、何気ない空想も、楽しもうと思う。あの頃の様に。

(馬鹿な事かもしれんがね。まるで祭りが終わった後の子どもみたいじゃないか? 明日以降もそれが続くかもしれないなんて空想を抱きながら、そんな日が来る事は無い。それを知って行くわけだ)

 ディンスレイとてそうだろう。このダイアングラー号の、平凡で代わり映え無いメインブリッジこそが続く日々だ。あの一年間の旅は終わった。

 そう心の中で繰り返し続けている。それこそが未練だと思いながら。

「ふ、副長……その……」

 観測士の一人がおずおずと発言を求めて来る。出来ればどもらずに話し掛けて欲しい。そう思うが、仕方ないとも思う。このメインブリッジの空気の中で、ディンスレイは未だ、それに染まれずに居るのだから。

「定期報告かな? 今度は忘れなかったじゃないか。そう、この調子だ」

「は、はい。問題ありません!」

 能力的にはそれで一般水準だぞとは言わないし感じない。そう。こうやって細かい部分に目をやって、少しずつ改善していく。

 そこに面白みを見つけるのも良い事だろう。この艦で副長をするのが長くなりそうだ。なら、その立場で、どれだけ人生を楽しめるかだ。

 窮屈で退屈であろうとも、それを楽しんではいけない理由など―――

「待て、観測士」

「え、ええっと?」

「何を見ていた? あれは何だ?」

 ディンスレイはそれを見た。他の船員は見えないのか? 観測士は何をしている。

 いや、恐らくこれは……。

「私がこの艦に慣れて居なくて幸いだったな。国境線の向こうを見ろ」

「えっ……あ! 飛空船です! それも武装してる!」

 ダイアングラー号は代わり映えの無い国境線沿いを航路としている。国境監視の任務であるから、その航路を何度も繰り返し移動する事になり、視線が国境線沿いに集中しがちなのだ。

(なら、これは失態でしょうがフラミニーズ艦長。国境線沿いを監視する艦が、国境の、さらに向こうへの注意が欠けてどうするんだ!)

 平凡に慣れていたが故の失態だ。出来れば何事も起きて欲しくない。そういう空気が出来上がってしまっている。だから……何か起こるとしたらその方向であるはずの、他国の領空への注意を、無意識下で逸らしてしまっているのだ。

 だから、ディンスレイがもっとも早く気が付いた。ディンスレイがこの空気に慣れておらず、当たり前にそちらに注意を向けていたから。

「見ろ、あからさまに装甲が厚く、武装らしきものも見える! あれは飛空艦だ! 他国からシルフェニアに飛空艦が侵入しようとしている! 何か、その手の通知は事前にあったか?」

「い、いえ。記憶には無い……と思います」

 ディンスレイにも無い。だからまず間違いなく不法侵入を行おうとしている。しかし、そういう状況だからこそ、観測士は返事を断言して欲しかった。

(万が一、私が聞き逃している可能性があるんだぞ? せめて、ブリッジクルーだけは、南部国境の飛空船の出入り予定について、把握して欲しかった!)

 飛空艦の出入りなど、それこそそう多く無いはずだ。だが、今、その能力がダイアングラー号には不足している。

 ディンスレイだけの判断では甚だ不安であったが、それでも、ディンスレイの記憶には、今日、こんな場所で、他国の飛空艦がシルフェニア国内へ入って来る予定は無い。

「艦を不明飛空艦へ接近させろ。敵対行動はまだだ。威嚇射撃もするな。分かっているな?」

「ま、待ってください。それって―――

「分かっているなと聞いたぞ? これは緊急事態だ。誰か艦長を……いや、その暇も無さそうか」

 侵入して来た飛空艦は、その進路をやや変えていた。

 シルフェニア国内方向へは変わらず、ダイアングラー号の方へと向かって来たのだ。

(こちらを意識している。艦の形状から、隣国製のものじゃあない。角ばった、いかにも装甲が厚く、火力だってありそうだが……)

 艦の形式からその性能は予想出来ない。

 そもそも、不明飛空艦はこちらと敵対行動を取ろうとしているのか。

 今の時点ではそれすら分からなかった。

 未知の事態。一刻の余裕も無い判断タイミング。選択の間違いが多大なる被害がもたらしてくるだろうという予感。

 まるで未踏領域の旅をしていた頃に似た、そんな変化が今、ディンスレイの元へとやってきていた。

(だが、緊急事態への練度不足のこの艦で、どれだけの事が出来る? 私に?)

 かつての様に、どこか楽しいと思う感情は、さすがに今は無かった。

 その様な事件の発生こそ、暫しの休養時間を終えた、ディンスレイの新たなる旅の始まりだった。




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