⑧ ウェルカムホーム
病棟は何故白いのか。
それは世界の謎の一つだ。
その色に清潔感があるかというのが有力な説であるが、以前、服を選んだ時、白は汚れが目立つから、良く働く人は別の色が良いと言われた事があり、その結果、謎は解けないままとなっている。
「いろいろと考えてみるわけだが……結局、みんなが白いのが病院だと思うから、白くしているのではないかと思うわけだ」
「たかが病院の色で、卵が先か鳥が先かみたいな話を始めないでちょうだいよ」
ある病院の屋上。青空と白い雲が見えるその場所で、ぽかんと立っている男が一人。
ディンスレイ・オルド・クラレイス。
先日までブラックテイル号という飛空艦の艦長をしていた男の姿がそこにあった。
さらに言えば、そんなディンスレイの呟きに、答える声もまたそこにある。
ミニセル・マニアル。
彼女と二人、患者用の服を着ながら、ディンスレイは空を眺めていた。
数日前まで、自分達が飛んでいたその空を。
「こういう空を見ていると、いろいろと深い事を考えたくなるものだ。また飛び立ちたいという思いを抑えるためにな」
「なぁに? せっかく長旅から帰って来たっていうのに、もう次の旅を夢想し始めているの?」
「仕方ないだろう。それこそ唐突に、シルフェニアへと帰って来てしまったんだ。今や旅の疲れを癒すために、こうやって病院に入院までさせて貰っている。至れり尽くせりという状況だ。少々退屈にもなるさ」
現在のディンスレイ達は、故郷であるシルフェニアへと帰って来ていた。
未踏領域と呼ばれる波乱ばかりの危険地帯から突如、安全地帯である故郷へと帰還した形だ。何故そんな事になったのかと言えば、理由はとても明解であった。
「ワープなんて未知の現象を体験したあたし達の身体が、今、調べられてるなんて状況を、至れり尽くせりみだって表現するの、結構前向きで好きよ、ディン?」
「そちらについても仕方ないさ。我々は帰って来た。故郷のシルフェニアに。あのブラックテイル号と共にな。艦には未踏領域の情報や収集物が満載だ。今頃、国内の偉い人間は大慌てで走り回っている頃ではないかな? それ思うと、今のこの検査だけがされる暇な時間というのも、気分が良くなってくる」
そう。ディンスレイ達は始まりの場所であるシルフェニアに、ワープで戻って来たのだ。
ハルエラヴの飛空船に囲まれ、危機的状況の中で、ワープの光に包まれながら、辿り着いた場所。そこはシルフェニアの領域内だった。
未踏領域で長らく旅をしていた道のりを、ワープは一瞬で遡ってしまったらしい。
「……あたし、まだ、故郷に戻って来たって実感が湧いて無いって言ったら、鈍感だって笑う?」
「いいや、同じ気持ちだよ。突然に旅が終わった。それを心が理解するまで、もう少し時間が掛かるだろう。その時間、こうして病院に入っておくのも悪くはあるまい。なかなか、大変な旅でもあった。自分が今なお健康かどうか、チェックくらいはして置こうじゃないか」
言いながら、やはり空をディンスレイは見上げる。
今、ディンスレイ達が居るのは、シルフェニアの最前線都市トークレイズ。未踏領域へと出発する前、最後に立ち寄った街であった。
この街からブラックテイル号に乗り、あの空へと昇って行った。そうして、この街の人間達は見たのだ。その空に突然現れ、地面に激突したブラックテイル号の姿を。
「ねぇ、聞いても良い?」
「どんな事をだ? 私生活における癖とかは……あまり話したくは無いのだがね」
「そういうのじゃないわよ。ほら、ワープする直前、あのオルグのお爺さんが言っていたでしょう? 向こうの勝ちだって。それって、結局、どういう意味だったの?」
「ああ、あれか。最後に別れの言葉すら交わせなかったから、完全に理解出来たかは怪しいが、向こうの意図くらいなら分かっているよ」
「じゃあ、あたし達が負けたって事も?」
そのミニセルの言葉に対して、頷くのは少々抵抗があったが、受け入れる他無いなと考え直し、ディンスレイはやはり頷いた。
「ああ、勿論、何に負けたかは分かっている。実感もあるんだ。負けたよ。大いに負けた。反論も出来ん」
あのブラックテイル号とハルエラヴの対話を目的とした戦いは、最後にオルグが勝った。ディンスレイはそう結論付けていた。
オルグは何に勝ったか? それは勿論、今のディンスレイ達の状況を作り出した事だ。
「彼らの目的は、既に知っているだろう?」
「あたし達に、技術を継いで貰う事……だったわね。ああ、それなら、確かに今、そうなりつつあるかも」
トークレイズの街近くに墜落したブラックテイル号は、すぐさまシルフェニア国軍の飛空船が発見した。
空に突如現れた謎の飛空船。しかもそれが地面にぶつかった後に機能不全になっているらしい。それは当たり前に偵察にやってくるだろう。
そうして、船内で無事だった自国民を救出する傍ら、船体そのものを回収していった。
今頃、その回収した船が途轍もないものだと知って、どう扱うかの会議を繰り返している頃だと思われる。
オルグ達の技術が詰まったブラックテイル号の扱いについてを。
「オルグ達はまさにその願いを叶えつつあるのだろう。だが、勝ちというのはそれだけでは無い。あのワープする瞬間、こちらが稼いだ時間が、少しばかり足りなかった。オルグ達はその足りない分を、事前に準備していたのだろうさ。オルグ達とてワープ装置の様なものは持っていただろうからな」
「あの状況になるのが、分かっていたっていうの? あたし達が追い詰められて、ワープをして逃げようとして、やっぱり時間が足りなくなる状況を?」
「さて。その点は分からないままだが、私の予想としては、そこまででは無いと思うよ。ただ、そういう結果もあり得るだろうから、一つ、賭けてみよう。そんなところだったのじゃあないかな? そうして、彼らは賭けに勝ったんだ」
ディンスレイ達がワープをしたいと思う可能性。その瞬間、オルグ達の力が必要になる可能性。そうして、ワープする先をオルグ達が指定できる可能性。
そんな可能性の一つを、オルグ達は選んだ。その結果が今となる。
「まんまと、元のシルフェニアにあたし達は戻って来て、あのブラックテイル号そのものを、この国にもたらした事になる……これって、ハッピーエンドって言えるのかしら?」
「ま、私達にとってはそうとは言えんな。なんと言ってもオルグ達に文句を言えん。勝手をしてくれたなと言うより、助けてくれてありがとうと言わなければならない身となった」
貸しが出来、そうして今、その貸しを返している途中と言える。
もはやディンスレイ達は、ブラックテイル号とその中に技術の行く末をどうこう出来る立場では無くなったからだ。成り行きに任せる他無いとなった時点で、ただオルグ達の狙いを見守るのみとなってしまった。
「ねぇ、ディン。こういう風に話をしていると、なんだか、夢から覚めちゃった。そんな気分になって来ない?」
「君もか。いや、私もな、唐突にそれがやってきたせいで、なんだか味気ない気分になっている。本当に、いきなり現実に追いやられた。そんな気分だよ」
ディンスレイは笑う。笑うが、そこには先日までの覇気が無い様な気がする。他ならぬ自分自身がそう思ってしまう。
「これで終わり……そう思うと、なんかねー。ねぇ、だったらさ、あたしは―――
「まだだよ、ミニセル君」
ミニセルから出て来ようとした言葉をディンスレイは遮る。
それを聞いてしまえば、本当に、何もかもが終わりそうだったからだ。
だが、遮る様に言ってしまった言葉は、もはや呑み込めない。
「……本当に?」
「ああ、まだだ。まだ終わらんさ。ウンドゥ氏の最後の言葉を憶えているだろう?」
「ええ。しっかり憶えてる。また会おうって、そう言ってたっけ?」
「期待されている以上、終わる事も無い。私達の旅はな。少なくとも、私の旅は終わっていないらしい。ほら、もう次の旅がやってきた」
ディンスレイは空を見上げるのを止めて、振り返る。
屋上に、新たな人間がやってきていた。
黒い軍服を着込んだ人間達が複数。こちらへ近づこうとしていたので、手の平でその動きを制止する。
「今行くよ。そろそろ、病室で寝転がせたままでは行かなくなったのだろう? 呼ばれているのは私だけかな?」
その人影達。シルフェニア国軍の軍人は、自分達が何かを言う前にディンスレイが先んじて発言してきた事に困惑している様子だった。
これで初戦はディンスレイの勝ちと言ったところだろう。
「では、行って来るよ、ミニセル君。ちょっとシルフェニア国と言い争いをしてくる」
ブラックテイル号の処遇について、ある一定の意見が出揃ったのだろう。
だからブラックテイル号の代表者であり、さらに旅を続けさせていたディンスレイの意見もそこに加えるタイミングがやってきたのだ。
これから、ディンスレイはその意思決定のための会議なりに呼び出され、ブラックテイル号の行く末を左右する事になる。そのための戦いが今、始まったのだ。
その戦いに臆する事は無い。これもまた、ディンスレイの旅の一歩だ。
だが、声を掛けられ、振り返る事はあるだろう。
「ディン、これでお別れ……って事は無いわよね?」
「断言はしない。だが、私個人としては言わせて貰うよ。まだまだだ。私はまだ、旅を続けるぞ。付いて来てくれるというのなら、勿論、共に旅を続けようじゃないか」
太々しく笑い、ミニセルに言葉を返す。
覇気が戻って来た。夢から覚めた気分だが、覚めた先が、また違う夢ではないとも限るまい?
「……今、結構良い背中を見せてるわよ、艦長!」
ああ。それを見せられているのなら、ディンスレイは負けるわけには行かないだろう。
ブラックテイル号艦長として、勝ってみせようじゃないか。
「気負った手前、そこに居るのが知り合いだったというのは、些か、拍子抜けしてしまいますね」
やや暗い気もする、トークレイズ空港の一室。
もしや最近まで倉庫として使われていたのかと思わせる間取りのせいだろう。
案内された者が否応なく息苦しさを感じてしまう。この部屋で待ち受けていた威圧感のある顔を見れば、きっとそれはわざとなのだろう。
そんな場所で、むしろディンスレイは気楽にしていた。
理由は一つ。待ち受けていたという威圧感のある強面が、知っている強面だったからだ。
「あのな、ディン。こっちはお前との会話役を上の連中から引っ張って来るのに、それなりに苦労してるんだ。お前が真面目にしないって言うのなら、手を引いたって構わないんだぞ?」
そう言う強面、シルフェニア国軍におけるディンスレイ直属の上司であるゴーウィル・グラッドン大佐。
彼は部屋の奥に配置されたデカデカとした仕事机に肘を付き、机に見合った大きな椅子に腰を降ろしながら、ディンスレイを見つめていた。
客観的に見れば、鬼がここに居るとでも思ってしまう様な、そういう雰囲気がやはりあるのだが、それでもディンスレイはこの男に親しみしか湧かないのだ。
何せ、親代わりみたいな人間だから。
「あなたと話が出来るっていうのは、この国に戻って来てから、やっとあった幸運なんです。少しくらい気を抜いても仕方ないでしょう。送り出してくれた人間が、おかえりと言ってくれるわけです。嬉しくもあります」
「はっ。お前、世辞はあまり上手く無いな?」
素直な言葉だったのだが、そう取って貰えない以上、確かに世辞は上手く無いらしい。
なら、得意な仕事の話でもしようか。目の前の親代わりとは、その手の話の方が上手行った記憶が多い。
「……それで、今のところの方針はどうなっています?」
「何についてを指しての言葉だ。それは?」
「ブラックテイル号と、ブラックテイル号の船員達の二つです。家と、家族の話題ですね」
「家と家族……随分とまあ、感情移入をしたものだな?」
意外そうな表情を浮かべて来るゴーウィル大佐。旅立つ前の自分は、そんなに感情を切り捨てるタイプだったか?
「大佐も一年間、未踏領域を旅してみたら分かりますよ。共に旅をする仲間と飛空船が、何時の間にか自分の一部になっている」
「まだ一年に満たないだろう? 思ったより早く帰って来よった」
「ええまあ、そっちは想定外です。些か、過剰な土産を持ち帰ってしまったみたいで」
「まったくだな、ディン。前々から、お前の言動には驚かされてばかりな気がするが……今度はワープ技術か」
雑談染みた言葉の応酬をしながら、途端に本題へと入って行く。こんな会話が、ディンスレイとゴーウィル大佐との日常だった。
久方振りの、その日常を体験している。それを思えば、これも祖国に帰って来たという感慨へと繋がっていく。
ふと部屋の小さな窓から外を見た。トークレイズの街並。それを見渡せる程に大きくも高くも無い窓であるが、その向こうには、まだ社会問題が多くあり、発展途上で、狭いとも感じがちな街と、そうしてシルフェニアという国があるのだ。
そういう国に、ディンスレイは帰って来た。その実感が、確かにここにはあった。
「そういえば、ワープというものの実感……経験則とも言って良い。それを、大佐のさらに上の方々は理解していますか?」
「未だ信じられんという輩も居る。居るから現在、お前のブラックテイル号は観光地みたいに人がごった返しているぞ」
「なるほど。理解出来ない人間を放置できず、直接それを体験させようとするくらいに、この国にも真剣さがあるらしいですね」
「動きの遅い、想像力も足りない国とでも思っていたか? 残念ながら、この国の至らなさは発展途上だからだ。成長しようという貪欲さはあるものだ」
そこは疑っていない。だからディンスレイはシルフェニアという国の出身だという胸を張って言えるのだ。そうして、その国の成長に、途轍もない爆弾を落としてしまったと後悔もしている。
だから言う。初手で、最大限の譲歩を。
「ブラックテイル号は、シルフェニア国軍に譲渡します。元々、所有権は国軍にありましたからね」
「良いのか? 確かに最終的に、俺はお前にそれを告げるつもりだったが、まだまだ交渉の余地があるだろう。そもそもあれはお前の―――
「私の実家の財産から作られたもの……ではもうありません。大部分が別の種族の技術により作り直されたものです。それに……その種族に私は負けた。負けた結果を受け入れる度量は、私にだってありますよ」
「報告書を読ませて貰った。オルグか。そうして、敵対したハルエラヴだったか? あれが真実だとすると……」
それはシルフェニアの今後どころか、存亡だって左右する内容だった。
シルフェニアという国を上回る技術力を持った種族。それらといずれ出会う。いや、その技術とは既にブラックテイル号という形で出会ってしまった。
この国はその事実に対してどうするのか。それはディンスレイにも、ゴーウィル大佐にも決められない、この国の人間達が決めなければならない重要事項となる。
そんなものをディンスレイは持ち帰ってしまった。それをディンスレイは理解しているから、ブラックテイル号……長く旅をした我が家を諦めるのだ。心が引き裂かれそうな思いがあるが、裂きたくない心がもう一つあるから、仕方なかった。
「ブラックテイル号を調べ尽くしていただき、今後を決めてくれる様に祈るばかりです。ですが、交渉の余地があるというのなら、ブラックテイル号の船員に関しては口を出させて貰います」
「……船員の今後は、自由にしろ。そう言うわけだな?」
「出来れば、未踏領域を旅した、彼らの成果を、経験を、認めてもください。あの旅の失敗は私の選択の結果で、あの旅で得たものは、彼らの選択に寄るもの。そう考えてくれても構いません」
ブラックテイル号以上に、分かち難いもの。ディンスレイにとって、それはあの艦に乗り、旅をしてきた船員達の存在だった。
本当に、家族同然だと思っている。もっとも、本当の家族というのは子どもの頃に失ってしまっているが。
「随分とその……言うじゃあないか。ええ?」
「今後、我々がどうなるかの可能性の一つに、我々が軟禁される。そういう選択だってあるのでしょう? それだけは避けたい。それを避けるためなら、私は何だってしますよ、大佐。私は本気です。それは分かるでしょう?」
「……」
それが分かる関係のはずだ。ゴーウィル大佐とディンスレイは。
だからゴーウィル大佐は一旦黙り込み、考え始めた。慎重に言葉を返すべき状況。それも分かってくれているらしい。
「あのブラックテイル号は、我らが国にとって、限りなく重要な存在となってしまった。それこそ、我々が想像するような偉い人物。権力者の首だって、あれと比べれば大したものでは無いだろう。暫くは機密扱いにもされる。それを知る船員などは、それこそ国の統制下に置きたい。俺自身がそう思っている」
「大佐」
「待て、早まるな。まだ一手、足りないと言っているんだ。何か引き出しは無いか? お前の未踏領域の旅は、この国に多くの害をもたらす可能性はあるが、得たものも同じかそれ以上に多い可能性もあるだろう?」
権力者が何を考えるかなどディンスレイが知れたものでは無いが、そういう人物達とのやり取りなら、ゴーウィル大佐の方が慣れ親しんでいるだろう。
彼がそう言う以上、ブラックテイル号を国に譲渡するだけでは、船員達の安全は買えない。そういうゴーウィル大佐の予想は、実際そうなる可能性が高い。
(随分と高く付いたみたいだな? 我々の値段は)
その分、自由の価値も相当という事だ。光栄と思うには、些か面倒が多すぎる。
だが……なるほど。その面倒を受け入れるのも手だろう。
「艦長の私は、軍に残る。なんだったら、今後、ブラックテイル号関係で理屈に合わない、裏のある理不尽な命令にも従いましょう。それならばどうですか?」
「お前……それがどういう事を言っているのか分かっているのか?」
「分かっています。私の首一つで、どうか部下達の命だけは助けてくださいと、そういう言っています。どうですか?」
「……」
苦虫を嚙み潰した表情というのは、こういうのを言うのか。
感心するくらいに、言葉通りの表情を浮かべるゴーウィル大佐。そんな彼に、今、言える事はもう無かった。
差し出せる最大限のものを、ディンスレイは早々に出してしまったのだ。あとはただ、大佐の意見を聞くのみ。
「さっきの言葉、自分を安く売るなと叱る事は出来るだろうな?」
「もしここに居るのが大人と、守られるべき子どもであるとしたら、そういう会話も出来るでしょう」
「だがまあ、今のお前を見ていれば分かる。お前はお前という人間を良く知った上で言っている。俺はな、それを少し、誇らしく思うよ」
「感謝します。恐縮ですよ……ところで、今の私を見ればと言いましたか?」
「はっ、旅に出発する前のお前なんぞ、子どもも子どもだった。俺から見ればな」
漸く笑うゴーウィル大佐。
その言葉に気恥ずかしくもあったが、嬉しくもあったから、そちらの感情を優先しておく事にした。
結果が同じなら、気分が良くなる考え方を選ぶ。そういう事が出来るのも大人という存在だろう?
それに、ディンスレイの交渉は通ったという事でもあるのだから。
「私は言う通り、もう良い大人です。自由の無い状況というのも、受け入れるべき立場なんでしょうね。今回の旅は、私に与えられた最後の自由だった」
だが、良い旅だった。そう思う。
そう思うのが大人だろう。だが、目の前の男の方がまだ子どもだった事を、これから思い知る事になる。
「何を言っている、ディンスレイ・オルド・クラレイス。お前がそういう覚悟を決めた以上、俺だって相応の結果を引き出してやる。お前の旅はまだ、終わらんぞ。そういうもんだろう。人生という奴はな」
確かにディンスレイの自由は無くなるかもしれないが、悪い結果にはさせないぞ。ゴーウィル大佐はそう断言したのだ。
「まったく、そういう大層な話でも無いでしょう。そっちの方が面白い。あなたはそう考えてるわけだ」
「悪いか?」
「私も、それに当てられながら成長しましたからね。似た者同士と言ったところで」
今度はお互いに笑ってみせる。
そうして覚悟する。これからの旅は、これまでより一層、厳しいものになるかもしれないぞと。
だが、これからも前に進めるのなら、悪くは無い。
ララリート・イシイにとってこの一年は、素敵な一年であった。
少なくともララリート自身はそう思うからこそ、空を見上げ、その素敵な一年が終わってしまった事に、なんだか悲しい気持ちを抱き続けていた。
「そもそもわたし、これからどうしたら良いんでしょうか?」
長らく入院していた形になる病院から、もう身体は大丈夫だからと退院の許可が出た自分だが、さっそく病院から出たところで立ち止まってしまう。
行く場所が無いから、空を見上げるしかないのだ。
(そもそも……この街から出たくて、ブラックテイル号に乗ったんでした。わたし)
トークレイズの街には、あまり言いたくは無いけれど、嫌な思い出が多い。どれくらい多いかと言えば、思い出そうとして思い出せないくらいだ。
それくらい、ブラックテイル号での一年間はララリートにとって濃密だった。忘れ難いものであったのだ。短い間で、それまでの人生が洗い流されるくらいに。
「けど、この街に帰って来たんだから、気持ちを切り替えないとっ」
多分、きっと、複雑な事は分からないが、旅は終わったのだ。
ブラックテイル号がシルフェニアに帰って来た時点で、きっとそれを理解していた。だからこそ、本当は嫌だし、悲しいが、それでも一歩を踏み出す。立ち止まるわけには行かない。それは教えてくれたのがブラックテイル号だから。
がんばれララリート。これから、今度は自分一人だけの旅が始ま―――
「おーい! ララリート君! 漸く見つけたぞ!」
と、つい泣き出してしまいそうな気持ちの中に居たララリートの後ろから、声が聞こえて来た。
誰の声だろうとは絶対に思わない。だってその声はこの一年間、もっとも頼りになってくれた人の声だったからだ。
「艦長! どうしたんですか? わたしに何か御用でしょうか?」
「御用も何も……君こそここで何をしているんだ。確かに今日は退院の日だったが、暫く待つ様にと言伝していたはずだが……」
何やら息を乱し、困惑している様子の彼、ディンスレイ・オルド・クラレイス艦長がそこに居た。
慌ててララリートは近寄るも、こちらの顔を見てやはり何故か、ディンスレイ艦長は安心した表情を浮かべていた。
「ええっと、確かに、もう少しここに居ても良いみたいな事はお医者さんから言われたんですよ? けどけど、そういうのって、未練があるっていうか、これから心機一転しなきゃいけないですから、やっぱり何時までもうじうじしているのは駄目っていうか」
「心機一転……もしや、ブラックテイル号での仕事が終わったから、次の仕事でも探そうと、そんな事を考えていたのか、君は」
「だってだって、そうしなきゃ、明日のご飯だって困っちゃいますし……」
ディンスレイ艦長だって、本当はもう艦長では無いと知っている。
ブラックテイル号から、船員のみんなは降りる事になった。それは船員の皆がもう知っているのだ。
未踏領域での旅は終わった。旅の中で手に入れた色んなもの。経験や成果や、旅の中で作った地図が一財産となっている人だって居た。
そんなものを持って、新しい人生を始めると言っている船員だって居た。
ララリートもそうである。そうであるべきだと思っていたのだが……。
「あのなぁララリート君。君は一年間、あの生きるか死ぬかが掛ったブラックテイル号で働いていたんだぞ? 他の船員よりも取り分という形では少ないが、相応に報酬だってある」
「ええー!? そうなんですかー? えっとえっと、それってどれくらい……」
「そうだな、だいたいはこれくらいだ」
と、ディンスレイ艦長は紙に何やら計算をした後、その金額を示して来る。
「ええ……? これって、もしやもしや、一生、食べるに困らない額では?」
「いやいや。さすがに一生は無理だ。というか、一年遊んで暮らせば無くなる程度だぞ?」
「そうなんですか? 皆さん、贅沢なんですね?」
「君にそう言われると、返せる言葉も無いが……」
実際、明日の仕事をどうしようという気持ちは無くなった。あとはじっくり、住む場所を探して、ちゃんと働ける仕事だって探すのみ。
ブラックテイル号の中で培った経験だって無駄にはならないはず。とりあえず掃除の経験は豊富だから、そっちの線でさっそく仕事が無いか探してみよう。
「待て待て。だからどこへ行くつもりだ、ララリート君」
「はい! やはり考えるより行動をする人がその……そういうあれだと思ったので!」
「それを言うなら、考える者より行動する者が一歩早く歩くだ……というか、今はそれでも考える方を優先して貰いたいのだよ。というより、私の話を聞いて欲しい」
「艦長さんが、わたしに話を……ですか?」
もう艦長と船員という関係でも無くなったというのに、自分なんかにいったい何を話してくれるのだろう?
首を傾げるララリートに対して、ディンスレイ艦長は何時になく真剣な顔を向けて来た。
「君のこれからの話だ。ララリート君。ブラックテイル号に乗った君を、そのまま載せ続けるのは、君の面倒を見る覚悟をしたからだと以前に言ったろう? その話だよ」
「けどけど、ブラックテイル号はもう……」
「ああ。そうだな。我々はあの船から降りた。それは認めなければならない。だがな、船一隻失われようと、君達が私の部下だった事は変わらない。なら、私は世話を焼き続けるよ。君の今後については特にだ、ララリート君。口煩くて申し訳ないが……」
「そ、そんな申し訳ないだなんてっ。わたしの方こそ、これから、何かのお役に立てる事なんて無さそうですし……」
ブラックテイル号では色んな仕事の経験を積む事が出来た。だが、それを一人前に出来たという自信が自分にはまだ無かった。
それを得る前に、旅は終わってしまったから。
だからこそこれから、自分で頑張って、それを得ようと思っているのだ。
「君が、君自身をまだまだ未熟であると思うのなら、確かに君はあの旅で成長したんだ。そうだとも。一年だ。たった一年の旅で、大人になれる人間など居るわけが無い。だがな、役に立たなかったわけじゃあ無いぞ? 君の才覚は、私が一番知っている」
「スペシャルトーカーの才能……わたし、旅に出るまでは、それだって知りませんでした」
「ああ。それに気が付けた事。それがとても役に立った事。それでも君は、自分自身をまだまだだと思える。それが一番の成長だ。君は世界の広さを実感出来ている。その広さに比べて、まだまだ自分が途上である事を理解した。私はな、それを誇りに思う。思うからこそ言いたい」
ディンスレイ艦長はララリートの肩に手を置き、そうして尋ねて来る。
「君は、どんな道を進みたい? まだまだ、経験させたい事はあるが……残念ながら、選択肢を与えられる時間は過ぎてしまった。後は選ぶだけなんだ」
「選ぶって、どんな事を?」
「さっき、最後の船内幹部会議をしてきた。いや、艦の中じゃないからその言い方もどうなのかと思ったが、君に関する議題だ。全員が全員、同じ答えを出してくれたよ」
いったい、自分の事について、何を語ってくれたというのか。
その内容はまだ聞いていないのに、既にララリートの中には感謝があった。だからこそ、相手の言葉をちゃんと聞かなければ。
「君がまだ、我々の誰かについて学びたいというのなら、世話を見る準備は出来ているとさ。全員だ。君は整備士を目指しても良いし、医者になろうとしても良い。飛空船の操縦士なんてどうだと当人からイチオシされている。ああ、それと、会議には関係無いが、探求士として地図を描くのを学んでみたらどうだなんて提案もあったな。何にせよ、今が選ぶ時だ、ララリート君」
なんだか夢の様な話だった。キラキラしている未来を突然、告げられた気もする。けれど、やはり自分は少しくらいは成長出来たのだと思う。ディンスレイ艦長のその言葉に、重みを感じられたから。
多分、ここで選ばなければ、ディンスレイ艦長も、そんな未来を用意出来ない。そういう事情があるのだろう。
ディンスレイ艦長はきっと、これから大変な事になる。難しい話が分からないララリートであるが、ディンスレイ艦長が何か、すごく重いものをまだ背負っているであろう事が分かるから。
だから……ララリートには何も選ばないという選択肢だけは無かった。選ぶべきだ。今までの旅の中で出た、ララリートなりの答えをディンスレイ艦長に返すのだ。
きっとそれが、ディンスレイ艦長への恩返しにもなるだろうから。
「艦長さん。わたし、私、あのですね!」




