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無限の大地と黒いエイ  作者: きーち
無限の大地と残される世界
32/165

③ 始まりがあれば終わりがある

 船内幹部会議を開くには食堂で。

 そういう決まりの元で思うのは、会議室の一つくらい、ブラックテイル号内のスペースに用意しておくべきだったという事だ。

(今さらか? そんな風に思うのは。思うのであれば、そもそも最初から用意しておくべきだ。違うか? ディンスレイ)

 艦長たるディンスレイは、食堂の席に座りながら、自分に問いかける。

 こんな場所に座っている事もまた妙だ。そんな事に今さら気が付いていた。

 こうやって机の一つを占拠して、船内幹部が揃って顔を突き合わせるというのもおかしな光景だろうが、他の船員を食堂から一時追い出さなければならないというのも不気味な状況に思えて来る。

「実際、諸君はこの場での会議について、どう思っている?」

「確かに、座りは悪いですな」

 ディンスレイの問い掛けに真っ先に答えたのは整備班長のガニである。だが、ディンスレイの意見に賛同したというよりは、冗談で返したと言った口調だった。

「か、艦長……その……お、お疲れではあるでしょうが……そ、その……」

「まった、整備班長も船医殿も、もしや私の頭がおかしくなった可能性を考えているのか?」

 ついでに副長とミニセルの方も見る。さすがにこの二人は疑わしげな目線を向けて来る事は無かったが、それでも二人して悩ましげな表情を浮かべている。ディンスレイの言葉を素直に受け入れている風には見えなかった。

「我々が、こんな食堂で会議を開いている事への違和感が、諸君にとってはその程度のものだという事か?」

「ふむ。わたくしも、この食堂で毎回会議を開くのはどうなのかと思っているところですが、贅沢を言っても始まりますまい。事実として、ここ以外無いのですから」

 副長の発言は、どこかディンスレイを窘めている様な感情が込められていた。副長にしたところで、ディンスレイの感情を汲み取る事は出来ないらしかった。

「あ、あの……艦長には申し訳ありませんが……今大切なのは……や、やっぱり艦を今後、どうするか……では? い、何時までもこの場所に居るから……か、艦長もあらゆる事に、思うところが生まれてしまっている……という可能性もあるのでは……」

「それは医者としての意見かな。船医殿」

「は、半分はそう……です」

 精神面での疲労。それをアンスィから指摘されてしまう。

 確かに、それが無いとは言えなかった。これからの歩みは慎重に選ぶ必要がある。そういう課題が出て来た時点で、ディンスレイにとっては良い状況とは言えなかったからだ。

 未踏領域の冒険に及び腰になる。そういう事態は、ディンスレイの意欲を容易く削っている事だろう。

 結局、そういう状況をストレスに感じて、無駄に船内幹部を呼び出したに過ぎないのか。

(いかんな……私自身が、私の考えに疑いを持ち始めている。事実がどうであれ、船医殿の言う通り、精神的な疲労はしているんだ)

 挑むべき課題はどれも難題だった。だが艦長である自分が折れるわけには行かない。そういう気負いが、ディンスレイを本人の気が付かない内に追い詰めていたのか。

「艦長、あなたがそんな顔してどうするのよ」

 と、会議より自身の思索に身体を沈め始めていたディンスレイを引き上げる一言があった。

 ミニセルだ。

「ミニセル君、君だって、私の話には首を傾げていたと思うが……」

「今だってそうよ。艦長が何に引っ掛かってるか分かんない。けどね、それでもあたし、艦長の判断は信じてるわよ? それは今だって変わらない。他のみんなはどうなの? この時々どころか頻繁に無茶するし、突拍子も無い発想に至ったり、艦長だってのに自分から危険に挑んだりする男の事、遂に狂ったとでも思ってる?」

 酷い言われ様だった。否定出来ない部分が多いのがなお酷い。だが、酷すぎてむしろ気分が良くなって来る。

 だからこそ、それはミニセルらしい言葉に思えた。

 会議の空気だってそれで変わる。

「つまり、ミニセル様はこう言いたいわけですか。我々から艦長がおかしく見えても、それでも、艦長の判断を信じるべき時があると」

「あらやだ、副長ったら。そこまでは言って無いわよ。そもそも、副長は艦長のストッパー役をする事が多いものね?」

 君のストッパー役をする事もあるのだぞと、ディンスレイは内心でミニセルに言う。しかし、ディンスレイがそれを実際に言葉にする前に、会議は進み始めていた。

「しかし、ミニセル様の言葉で思いましたよ。今回、艦長の様子を見る限り、わたくしは今の艦長を止めるべきでは無い。何に違和感を覚えているかは未だに分かりませんが、普段からの付き合い上、今の艦長はそういう様子です」

「副長とは付き合いが長いからな。そう言ってくれるのであれば、私も安心は出来るよ」

 だが、それでも違和感を覚えているのはディンスレイのみという状況であるらしい。

(心細くはあるが……一つの判断材料かもしれんぞ? その部分は)

 何かが、他とディンスレイで違うのだ。もしくは、ディンスレイだけがまだ正常なのか。

「だ、だとするなら……今は、判断を艦長に任せて、し、指示を受ける事に専念する……というのはどうでしょうか?」

「さっきまで他人の精神的疲労云々を言っていた割には、さらに圧を加えて来るじゃあないか、船医殿」

「か、艦長相手であれば……こういう考え方も……て、適当かと」

 中々な評価をアンスィから貰うディンスレイ。しかし構うものかとも思う。そういう評価も込みで、どうやらディンスレイは信頼を得ているらしいから。

「他がそういう意見なら、オレにとっても仕方ありませんな。整備班長としては、整備するものも部下も居ないから暇で仕方ない。幾らでも働いてやりましょうや」

「……おい」

 会議の空気が良く成り始めたタイミングで、また一つ、爆弾が爆発した。

 ガニ整備班長の言葉が冗談でも何でも無いとすれば、明らかにおかしい言葉が飛び出したから。

「待って艦長……もしかしてまた違和感?」

「もしかしても何も、何で今の言葉が通るんだ。整備班長だぞ彼は。部下が居ないはずが無いだろう? 整備にしたところで、機関室は常に整備が必要だ。仕事が無くなるなんて事は―――

「機関室? ブラックテイル号にそんな物が無いのは、艦長だってご存知でしょうが」

 整備班長が、さらに冗談みたいな言葉を吐き出して来た。

 それはつまり、事態はディンスレイの予想を超えて、危機的と言える程にまで至っている事を意味していた。




「そうですねっ。その日はずっと艦長さんとお話していた気がします。誰かに会ったか? ですから艦長さんと。他に人と会ったか? いえ?」

「機関室って何です? それがなきゃ飛空船が飛べない? そりゃあ……じゃあオレ達はどこから来たって言うんですか」

「そりゃあ大きさに限りがあるって言ってもですね、食堂を用意しなかったのは艦長の責任なんですから、そこに文句を付けるなんて……は? 船内幹部会議はどこでするんだって……そりゃあ会議室だって無いんですから、船内幹部の方々が決めるべきでしょう?」

「こ、この様な状況では、け、怪我人が出ないのが幸い……ですねぇ。か、艦内に医務室は無いのですから……い、何時だって怪我人は困ります……が」

「は? 船内幹部の人数? あたしと艦長と副長で三人……それも違うって言うの?」

「ああそうだとも。まったく違う。すべてが違って来ている。いや、欠けて来ているんだ」

 残されたメインブリッジで、ディンスレイは嘆く様に呟いた。メインブリッジ内にいるのはディンスレイ当人と副長のコトー・フィックス。操舵士のミニセル・マニアルに観測士のテリアン・ショウジの四名だ。

 他のメンバーは居ない。今は休んでいるのでは無く居ないのだ。

 交代要員として自室で休憩を命じている間に消えた。ディンスレイは既にそれを認識出来ていた。

 いや、それが誰だったかはディンスレイとて分からないままだが、それでも、今のメンバーだけでこの艦を動かしていたなどとは思えない。

 自分ならば、この艦をこんな四名だけの人材で回したりはしない。そもそも、会議室も食堂も医務室も機関室だって無く、それらを管理する船内幹部すら用意しないで、未踏領域に誰が挑むというのか。

 だが、もっともおかしな事態は、そんな矛盾だらけの状況に対して、他の三人はそれを認識出来ていないという事だろう。

「艦長の言を借りるなら、今のあたし達も正常じゃあないって事になる……わね」

「些か認めたくない状況だがな、ミニセル君。だが、もはや私の方の気が狂っているとは言えなくなった。私が疲労して、しかも正常な精神活動すら出来ていないとしても、おかしいのは君達の方だ。今なら断言できる。手遅れかもしれないが……」

 もっとも当たり前に気が付くべき状況。それは、このメインブリッジだけではブラックテイル号を動かせないという事だ。

 どこの世界に、推進装置の無い飛空船が存在するというのか。これまでの旅の記憶だけはまだ思い出せる。

 そこに同行していたはずの人間達の記憶は思い出せない。ここにいる他の三人の記憶なら思い出せるが、その三人では足らぬくらいの数の思い出がディンスレイにはあった。

 だが、他の三人には無い。いや……。

「わたくし達が、本来異質だと思うべき事をそう思えなくなって来ている。それは単に記憶を無くしているより重要だと、艦長の診断ではそうなるわけですな」

 副長の困惑した言葉。それに対して、ディンスレイは深刻な表情を浮かべながら頷いた。

「そうだ。個人差がある。それも、こうなるまでに学んだ事として、私と他の船員での差だ。これが単なる自然現象であれば、こうなるだろうか?」

「誰かの悪意に襲われてるってわけですか? 周囲の観測を続けてますが、それっぽいものは見えないけどなぁ……」

 悩ましげな声を発しながら、テリアンがメインブリッジの観測器を操作、観察を続けている。

 彼自身に自覚が無いであろうに、それでもディンスレイの指示を真面目に聞いてくれているのだ。

 だが、それも望み薄だろう。この現象は巧妙で狡猾だ。気付かせないままに、致命的な事態へと至らせる何か。

 このまま、当人達すら危機感を抱けないままに、すべては消え去って行くのだ。

 ブラックテイル号内部は、もう随分と消え去ったのだろうとディンスレイは思う。ディンスレイの脳内の、本来ブラックテイル号とはそういう類のものとして作り上げるつもりだったという記憶以前の予想だけが、かつてのブラックテイル号の姿を想起させる。

 何時の時点で、何が失われたのか。場所だけで無く、人間すらも消し去って行くそれに、もはや成すすべなく翻弄されていくしか無いのか。

「けど、艦長は諦めて無いんでしょう? 今となっては、それが大事。あたしなんかはそう思うけど……艦長にはまだ、出来る事がある?」

 ミニセルに尋ねられる。妙な事だが、こうやって尋ねられたからこそ、ディンスレイは心に熱が籠って来る。

 本当に出来る事はあるか? さっきまでは怪しい気分だったが、彼女に聞かれる事で、こう返す気持ちが強くなる。

「ああ、ある。さっき言っていただろう……誰か……観測器……もここには無いか。いや、また誰かか場所か、もしくはそのどちらもが消えたなこれは。だが、君達は気が付かない。私は気が付く。そこには意図があるんだ。意図がある以上、戦える。その意図の持ち主とな」

「わたくしと艦長とミニセル様の三人。戦うと言っても、出来るものですかな?」

「……副長。君が何を言いたいかは分かる。だが、今はその言いたい事を我慢してくれ。あなたの言葉は何時だって正しいが、今のこの状況では、私の方が正しい」

 きっと、だから三人きりでの旅などするべきでは無かった。そんな説教混じりの言葉が副長からは出て来るはずだ。

 だが、三人きりの未踏領域の旅などするはずも無いだろう。だって今は……そうだ。今は二人になった。

「ねぇ、艦長。艦長の言葉を聞くなら、この旅はあたしとあなたの二人きりの旅じゃあ無かったって事よね?」

「ああ、そうだろうな。今は……今はこの地図しかないこの世界で、君と私の二人きりでは無かったんだ。君は気が付けないだろうが……」

 自分達がいるのは未踏領域。未踏領域の、この何もかもが欠けて暗闇に包まれる狭い部屋の、唯一見えるものである大きな地図に、ディンスレイとミニセルは二人きりだった。いや、二人きりになった。

「そうね、二人きりじゃあ無かったかもしれない」

「ミニセル君?」

「実感は無いんだけれど、本当に二人きりで旅をしていれば、もうとっくに聞いても良かった事、まだ聞いていないんだもの」

 ロマンチックな雰囲気になる場でも無いだろうに。

 世界は閉ざされようとしている時に、ミニセルはただ、ディンスレイから話を聞きたがっていた。

「そんな話をしている場合なのか? ミニセル君?」

「どうかしらね。艦長の言う通りなら、次に消えるのはあたしが艦長か、それとも二人同時……でしょ? ロマンチックな話を最後にするのが、らしいじゃない」

「……私は、これで最後だなんて思わないぞ。まだあるはずだ。何か、助かる方法が。これ以降も、皆で旅を続けられる方法があるはずだ。絶対に諦めるものかっ」

「だから……旅に出たの?」

「何?」

「絶対に諦めたく無いから、旅に出たの? 艦長。あなたのその動機、今だからこそ聞いてみたい。切欠があったのなら、もっと早くでも良かったけれど」

「……」

 きっと今、自分は困った様な表情を浮かべている事だろう。

 ディンスレイはそう思いながら、次に何を言葉にするべきか考える。

 もっと建設的な事か、希望を持てる事か、それともすべてを諦める言葉か。

 そのどれもに違うなと思えてしまった。確かにそれは、切欠になるのだろう。

 自分がどうしてブラックテイル号という艦の艦長をする事になったのか。そもそも、どうして今の立場を志したのか。

「両親が、若い頃に死んでな」

「今だって若いわよ、艦長」

「茶化すな。年齢が十になるかならないかくらいの事だ。私の両親はその……そうだな。あまり、良い大人とは言えなかった」

「貴族の出なんでしょう? 副長だって元はお手伝いさんだったとか」

「外面だけはな。金銭という奴は厄介だ。取り繕うと思えば、取り繕えてしまえる。そうして、当人が問題無いかもしれないと思ったタイミングで、その幻想を取り払ってくる」

 まるで今の状況と同じだ。気付かぬうちに毒が回って来る。

 具体的には、屋敷に不穏な連中が出入りする様になった。当時、変に擦れていた自分は、借金取りの類だろうと溜息混じりで思ったものだ。

 実際のところ、それは子どもらしい勘違いであった。社会というものを良く知らないからこそ、物事を分かりやすい方に捉えてしまう。

 現実としては、もっと酷い状況であった。

「先祖伝来の財産を食いつぶし、それでも生活の質を落とす事をせず、意地ばかり張った者の末路と言えば良いのか。我が家族を悪くは言いたく無いが、ヤクザ者と関わり始めるのはどうかと思ったものだ」

「ヤクザ者って……チンピラ連中的な?」

「反社会的なという奴だ。そういう輩が扱う金銭というのはあれだろう? 表向きには使えない様にして社会のバランスを取っているものだが、うちの実家はその使えない金を、貴族という立場を使って、使える様に出来るシステムを作ろうとしていたらしい」

「……ちょっと思いも寄らない話が出て来てびっくりなんだけど」

「安心してくれ。作ろうとして、失敗した。どこぞの小僧がな、足りない知恵を回して国に通謀した。結果としてはその企みは潰され、未然に防げたのと、その小僧がその家の跡取りだったから御取り潰しとはならなかった。ああ、あれだ。だが、その小僧の両親に関してはそうでも無かったな。外面を自ら潰し、文字通り表立って歩けない身になった。状況に寄ったら、牢屋の中にでも入る事にもなったろう」

 間違いなくそれは犯罪だった。貴族の血が流れているからと言って、罪から逃れられるという時代でも無いのだ。

 余程裁判が上手く運んでも情状酌量。少なくともそんな犯罪まで行って保とうとした、あったかもしれぬ威厳だの威光だのは一切無くなる。

 そんな状況になり、うちも漸くこれで普通の家になるかなと、小僧も考え始める様になった頃、それは起こった。

「結局、ご両親は逮捕されなかったの?」

「死んだからな。死んだ者を牢屋に入れられる法も無いだろう」

「……」

 自殺したのだろう。少なくとも現場を調査した警察はそう判断した。小僧にとってみれば、自分の行動に寄り、その結果になった。そこが重要だった。

 周りの、善意の大人はお前のせいじゃあ無いという言葉を向けて来たが、他ならぬ小僧自身が、自分で自分に言葉を投げかけていた。

 全部お前のせいだ。この結果はお前が仕出かしたのだと。

「……それで、艦長はそれがトラウマになった?」

「分からん。が、その時の気持ちに今も突き動かされている。そう言われたら言い訳も出来ん。だが、君はこの話を聞いてどう思った?」

「……なんだか、嫌な話よね。艦長には申し訳ないけれど」

「謝る必要は無い。私も一緒だった。当時、私は単なる子どもだ。もしかしたら多少は聡かったかもしれないが、先の事も考えられぬ愚かな子どもだった。その事に後悔だってあるが、今、やり直せるかと自問自答してもそんなのは無理だろう? なら、自分を責め続ける事も出来ん」

 じゃあ、何が悪かったのか。考え無しの両親か、両親を利用しようとした連中か。それとも何も出来なかった子どもがやはり悪いのか。

 考えを巡らせ、答えの出ない堂々巡りの中、小僧、ディンスレイはふと、怒りをぶつける先を見つけたのだ。

「たかが子どもの行動で、子どもを取り巻く世界が全部潰れる様な、狭い世界が気に入らない。そんな風に思う様になったのは、それほど長い時間は掛からなかったよ」

「そりゃあまた随分と、責任転嫁にしても壮大な話になってきたわね」

「まったくだ。だがな、ミニセル君。業の深い事に、私はその考え方をこれっぽっちも後悔していないんだよ。誰かを恨むより、世界そのものを恨んで、より広い世界に乗り出そうと思った。それは多分……私にとっては良い方向に進んでいるんだろうさ」

「そうね。未踏領域に来てからずっと、艦長ったら、楽しそうにしてる事が多いもの」

「だろう? 随分と後ろ向きな考えだが、それにしたって前には進んでいる。それが私にとっての……恐らく、誇れる動機なのだろうさ。未踏領域へ旅立つ、重要な理由だ」

 おかげで、人生に自暴自棄にならずに済んだ。家族を恨み続けずに済んだ。あの日、愚かな行動をしたかもしれないどこかの小僧を、若かったと苦笑して思える様になった。

 ただ、この手の話をするのは恥ずかしい。それくらいにまだまだディンスレイは未熟でもある。何時かは、そういう恥ずかしさも良い思い出になる時も来るのだろうが……

「私はな、ミニセル君。まだまだ旅をしたい。旅は自分を成長させてくれるなどと言うのは青臭いが、楽しいんだ。終わるのが惜しい。まだ見ぬ出来事が、世界が、この無限の大地が、私を待っている気さえしてくる……だから……」

 ここで終わりにはしたくない。

 今、ここにあったはずのディンスレイを旅させていた飛空船は形を無くしつつあった。大きな地図と、ディンスレイと、ミニセルだけの小さく狭く、薄暗い世界だけが自分達を覆っている。

 まるで、これまでディンスレイが重ねて来た経験も、成長も、浪漫すら、無意味であった事にしようとしている様だ。

 その景色に、ディンスレイは心が折れそうになる。

「ねぇ、艦長」

「なんだ。ミニセル君」

「ディンって呼んで良い?」

「む?」

 いきなり何を言い出したのかこの女は。きょうとんとディンスレイはミニセルを見つめていた。他に見るべき相手も居ない。

「確か、親しい相手からはそう呼ばれるんでしょう? ほら、旅立つ前に会ったおじ様が」

「ゴーウィル大佐の事か? いや、彼は私の世話役というか、長い事保護者もしてくれたから、そういう呼び方をだな」

「で、どうなの? 呼んでも良い?」

「まったく……人前では艦長と呼ぶのなら、良いだろうさ」

「やった」

 それくらい、親しい間柄には成れたのだろうさ。恥ずかしい人生の一部を語ってしまっても良いと思えるくらいの相手だ。親しみが込められた呼び方くらい、受け入れてやろう。

「ねぇ、ディン。あたしも楽しいわよ。この旅は。大変だったり、命だって落としそうな事あったし、まー我ながら良くここに居るって思うけれど……うん。楽しいの。楽しかったじゃないわよ? この続けている旅が、まだまだ楽しい。だから……続けましょう、ディン。これからも、みんなで」

「ああ、そうだな。皆で、未踏領域の旅を始めよう」

 ディンスレイはそう断言して、目の前で話しをしていた相手の名前を忘れてしまう。

 薄暗い暗闇の中で、地図とディンスレイだけがここに居る。

 他に居たはずの船員と飛空船と、大切になったかもしれない相手はもはや居なくなり、ディンスレイはただ一人きりになったのだ。

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