② ブラックテイル
シルフェニアの最前線と呼べる都市、トークレイズは、未発達な部分はあれど、その前線を支える場所、空港は他の都市のそれよりさらに大規模な物として、準備万端に設置されている。
その大きさと言えば、トークレイズという都市の三分の一はその空港及び関係施設が占めている程で、大型飛空船すら収容できる貴重な空港の一つであった。
中型の飛空船ともなれば、常に百を下回る事は無いだろう数のそれが存在し、離発着を朝も夜も問わず繰り返している。
そんな多くある飛空船の一つに、ディンスレイの飛空船も存在していた。
「これから乗り込む船は、いわゆる冒険艦と呼ばれる種類の軍艦だ。船そのものを動かす人員を少なく、多機能で、耐久性と整備性も良い至れり尽くせりと言える船だが、一方で攻撃力に欠ける。一応、船そのものの機能、移動性能と機動性は担保出来る様に性能は要求しておいたが、実際に一流の操舵士が動かしてみないと、最終的な評価はできん」
金属質と陶質を合わせた様な空港内の施設の廊下を歩きながら、ディンスレイは隣を歩くミニセルに説明を続けた。
実のところ、ミニセルを待つのと彼女と話をした事で、時間的には結構逼迫しているのだ。
飛空船の出港までは時間があるものの、次の予定まではあと数分。
「聞く限りにおいては上等だけど、上等過ぎてちょっと疑っちゃうわよ。えっと、説明通りならこれから乗り込む飛空船って、新造されたものに聞こえるけど」
「新造させた。と言うべきだな。操舵用のシステムは一般的なそれと大きくは変わらないから安心してくれて良い」
「……普通、させるなんて事出来ないわよ」
「私の家は元貴族の出である事を君は知っているな? 没落する家と言うのもそりゃああるが、もう後を残さんという意思の元で財産を処分すれば、かなりの事が出来る家だってあるわけだ」
「なるほど、あなたの代で没落する家だったって事ね」
「耳が痛い話だ。だがまあ、私には家族がもはや居なくてね。悲しい話に聞こえるかもしれないが、残った財産を好きに使える身にはなった」
「親不孝者なわけだ」
「叱る親もいない。もっとも、就職した先は国軍の士官という真っ当なものなのだから、文句は言わせんさ」
「真っ当ですって?」
無論、真っ当そのものだ。公務員であるし、士官学校時代は成績だって上等な結果を残している。
自分のためだけの飛空船を手に入れるため、財産だけでは足りぬ部分を、軍の力を借りるべく色々と手を回す事だってした。
ディンスレイがシルフェニア国軍へと志願した時、幸運な事に知り合いとなっていた国軍の幹部と契約したのだ。
ディンスレイは相応に、シルフェニア国軍で出世してみせる。そこは出来る限り独力でやってみせる。
さらにクラレイス家の財産を国軍へ全額寄付するので、新造する船の艦長にしてくれと。
「ここまでの準備段階で、後ろ暗い事もしたつもりだが、結果としては願いが叶うまでに至った。義理堅い協力者を得たのさ。これから会う相手がそれでね、義理を果たすためにも、時間厳守で願いたい」
歩く速さをやや上げる。ここで走らないのが紳士の嗜みというところであるが、走ったのとそう変わらない速度である事は許して欲しい。
「その協力者って人、絶対一癖も二癖もありそうよね。あなたみたいに」
「そう言うもんじゃあない。あれでむしろ愚直というか、一本気というか、まあ単純な人間と呼べなくも無いだろうが……」
「誰が単純な人間だ。誰が」
と、ディンスレイはその声に反応して言葉を止める。おっと、何時の間にか目的地に到着していたらしい。
「これはこれは。お待たせしましたかゴーウィル・グラッドン大佐」
歩き続けた廊下の先には小ホールの様な場所が存在しており、その中央で待ちかねた様子でその男。黒い肌に逞しい身体。それを黒い士官服で包んでいる男が腕を組んで立っていた。
他に忙しそうな様子の作業員達が走り回っても居たが、まるでこの場の主とばかりに存在感を示す彼、ゴーウィル大佐は、ディンスレイの上官であり、先ほどから話す、協力者でもあった。
「大佐って……確か一つの艦隊の司令官も出来るくらいの……」
さすがのミニセルも、彼の姿とその階級には驚いたらしい。どう反応すれば良いか迷う。そんな顔をしていたので、先んじてディンスレイが場を取り持つ事にした。
「そう。ゴーウィル大佐。シルフェニア国軍の国外探検事業を取り仕切っている、実質トップと言っても良い人だ。これから散々に恩義を感じたり借りを作ったりするだろうから、今の内に頭を下げておくと良い。どうせタダだ」
「お前は相変わらずだなぁ、ディンスレイ。つい最近、漸く佐官になった身にしては、随分と偉そうにする事に慣れて来たじゃあないか」
そう言いながら笑ってみせるゴーウィルだからこそ、ディンスレイも敬意を払って馴れ馴れしさを混じらせるのだ。
多少の隙だって見せても構わない恩人。ディンスレイの中において彼はそういう種類の人間だった。
最近だって、色々と手を借りた。
「何せ艦長資格試験で、あなたに私が勝ちましたからね。それはもう、多少は偉そうにさせていただきたい」
正確に言うとシルフェニア国軍艦長資格試験での事だ。知識が技能の試験に合格した後、実際に艦長役として訓練艦に乗り込み、既に資格を持っている試験官が乗り込む訓練艦と、所定の方法で競い合うのだ。
その成績が一定のラインを超えた者が漸く艦長としての資格を得られるわけである。ちなみにディンスレイはゴーウィル大佐が模擬戦を試験内容に指定したため、かなり荒々しい空戦を行う事になった。
「はっ。お前みたいな若造にそれをするのも、俺なりの優しさだよ」
「事実、そうだと理解していますよ。最終試験の試験官候補すら居なくて艦長資格を得るのが先延ばしになっている士官も居ますから」
多くの中型飛空船を所持しているシルフェニア国軍と言えども、その数には当たり前に限りがある。
その手の席はなかなかに開かないものだ。
「えっと……とりあえず、頭を下げ……ますけど? あたし、ここに居ても良い感じなのかしら?」
「ほう、なるほど? 彼女がそうなのか?」
「ええ、その彼女です」
「ちょっと。どの彼女になってるわけ? あたし?」
やや頭を下げる姿勢のまま、ミニセルが尋ねて来る。そんな彼女の様子に笑いながら答えたのはディンスレイではなくゴーウィル大佐の方だった。
「優秀な操舵士だと聞いている。俺が宛がおうとしていた正規の訓練を受けた軍人をわざわざ断ってまで雇うつもりの相手だとな」
「な、なるほど? ええ? そこまで?」
やはり尋ねて来るミニセルであるが、どう答えたものだろうかとディンスレイは迷った。何せ確かに、断って雇うくらいの価値はあると思っているからだ。
それをそのまま伝えると、何か調子に乗られる気がする。それはそれで、今後艦長として彼女の上役になるディンスレイにとっては問題ではなかろうか。
「物事は状況に寄る。とでも表現できるかもしれない。君は確かに、その状況において最適だと私は考えているよ。その腕を見せるのはまだ先だがね」
「遠回しな言い方になってるわよ。結局それ、褒めてるの? 褒めているんでしょう? そう取るわよ」
「いや、そう取られると持って回った言い方をした意味が無くなってしまうから……」
「はっはっは。とりあえず、相性は良さそうだ。人員はこれで揃ったと見て良いな?」
ゴーウィル大佐にとっては、そこが重要であるらしい。
恐らくは、ディンスレイがこれからの事業を順調に始められるかの最終確認に来たのだろう。今後、国外に出る予定のディンスレイへの見送りとも表現出来る。
「もしかして、あたし待ちだった? あなたの船?」
「いやいや、さすがに計画を遅らせる様な事はしないさ。だが、余裕があるのならギリギリまで待ってみようと思っては居たよ」
その期待は裏切らないで欲しい……とまでは言わない。彼女を雇ったのはディンスレイの責任だ。その部分は自分で負う。
彼女に負って欲しいのは、その腕を見せてやるという気概のみ。
「これから、船員との顔合わせがあるんだろう? さっさと行くと良い。後は任せたぞ、ディン」
「ええ。勿論、伸び伸びとさせていただきますよ。面倒な上役が去った後はそれはもう」
「まったく、最後まで軽口が変わらん奴め。その調子で、今度会う時も、無事な顔を見せてみろよ」
言っている当人だってその階級に見合わない軽さの言葉を残して、ゴーウィル大佐は去って行った。
だが、彼の言葉が持つ意味は重い。未踏領域への冒険飛行というのは危険極まる事業である以上、次に無事な顔を見せるというのは、必ず成功させて帰って来いという意味を持っているからだ。
「なんだか、あなたの上官らしい上官に見えたけれど……最後、ディンって言った?」
「私の馴れ馴れしいタイプの呼び方らしい。別にそう呼んでくれと頼んだ憶えも無いんだが……」
そんな話をしながら、再びディンスレイは足を進める。次の目的地までもう少し。
トークレイズ空港の一角。幾つも存在している中型飛空船の停留場。その一つを占有している飛空船がある。
未だ正式な初飛行を行っていないその飛空船は、船体の多くがシートに寄って覆われており、全様を明らかにしていない。
停留所自体、すべての照明が点いていない状態であるためか、その船は影で酷く黒く見えた。
「仰々しいと思われるかもしれないが、性能自体は説明した通り、実際に大したものでね。乗員も一八〇名までなら収容できる規模だ。中型飛空船としてはトップクラスだな」
まだ稼働しているとは言えないその飛空船。その停留場にて、ディンスレイの声が響いた。
今日最後の目的地はここだった。今、ここにある飛空船こそ、ディンスレイが艦長として指揮を取る予定の船であり、その初飛行を目前にしての顔合わせこそ、本日行うべき最重要の予定でもあった。
「それで、実際にその一八〇人が乗り込む事になるのかしら?」
「いいや、今回は百人程の予定だ。長期の飛行計画を予定していてな。食料や燃料、医療物資などを鑑みれば、人員は最低限で行きたいと考えている」
顔合わせするべき相手の一人であるところのミニセルの質問に、ディンスレイは答える。公園のベンチで出会ってからずっと傍に居る形になるが、とりあえずここでも顔合わせと表現しても良いはずだ。きっとそうだと思いたい。
それに、さっきまで居なかった人間だってここには居る。
「ええっと、はい。その、すみませぇん……ディンスレイ……艦長? とお呼びすれば良いんでしょうかぁ? そのぉ……そこの女性はどなたで……?」
おずおずと、手を上げて質問をしてくる、ぼさぼさと黒髪とだぼだぼの白衣、そうしてズレた眼鏡が特徴の女性。
そんな彼女からの質問にディンスレイはハッとさせられた。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。今回集まって貰った事の主目的だったのに」
「も、もっと早く気が付く……べきかと」
おずおずと尋ねる白衣の女性やディンスレイ、ミニセルも含めて、ここには五名の人影があった。
この五人には事前に顔合わせを行って貰う必要があった。それもかなり重要な優先事項としてだ。
「確かに、諸君らがそれぞれを知るというのは、もっと早くにしておくべきだったかもしれんな。予定していたメンバー全員が揃うのが遅れたので後回しになっていたが、それを今、執り行いたい。船内における幹部の顔合わせだな」
「幹部~?」
疑わし気に声を発するミニセル。まあ、彼女は組織の幹部と表現出来る様なタイプでは無いだろうし、年齢だって見合っていない。
「不安も疑問もあるだろうが、一応はそういう役割になる。というより船の操舵士というのは艦長直下だ。部下に当たる人間を宛がう余裕は無いのだが、それでも他のよりその意見は重要視される立場になるわけだ」
「なーるほど……えーっと、じゃあ今回、操舵士として雇われる事になったミニセル・マニアルよ。みんな、よろしく」
まだ慣れた様子では無いが納得はしてくれたらしい。他の人影に向かってミニセルは辞儀をする。
そんな彼女に反応して、すぐにもう一人の女性も頭を下げた。
「あ、アンスィ・アロトナです。船医を務めさせていただく予定でその……あの、よ、よろしくお願いします」
「大丈夫? なんだか今にも倒れそうな様子だけど……?」
「は、はいぃ……顔色が悪いのは何時もの事でしてぇ……」
「お医者さんなのに……?」
困惑しているミニセルであるが、アンスィ・アロトナはこれで腕の良い医者である。性格は気弱というか及び腰であるものの、その性格から特定の組織に長く居つけなかった様で、根無し草のような医療行為を続けて居たところをディンスレイがスカウトする事になった。時々、なんで医者なんて職業を選んでしまったんだろう。患者と接しなきゃいけないのに。みたいな事を思ったりするらしい。
大凡、腕が良く万能な医者と表現できるだろう。うん。
(そこまで説明すると不安がる人間がいるだろうから、あえて言わないが……)
船に乗っているうちに、人間関係というのも出来上がって行く事だろう。どうせ空の上では逃げ場は無いのだし。
そんな事まで考えていたディンスレイであるが、その間に、さらに一名、ディンスレイの横に立っている初老の男性が、一歩前に出た。
「では次はわたくしが。コトー・フィックスっと申します。役職は副長を務めさせていただきます。ディンスレイ様の補佐、不在時の代理を行いますので、皆様、どうかよろしくお願いします」
白髪が目立つその頭部を深々と下げる彼、コトー。服装は軍の制服ではなく紳士用のスーツである事が、礼節はあるのに場違いな印象を与えて来る。が、ディンスレイにとっては慣れ親しんだ光景でもあった。
「ちょっと待って、ディンスレイ様?」
「ええ。今はまた違う雇用関係にありますが、元はクラレイス家に雇われていた執事でして」
「わ、わぁ。執事さん。始めて見ましたぁ」
確かに一般家庭には中々居ないだろう。一方でディンスレイにとっては良く見た姿だった。
コトーはディンスレイが子どもの頃からディンスレイの家に雇われており、今においては艦長と副長という関係で雇用関係を継続する事となったのだ。
これでディンスレイを除けば自己紹介をしていないのはあと一人……なのだが。
「ちょっと良いかい。艦長」
と、最後の一人。禿頭の小柄な老人という風体を、シルフェニア国軍の下級士官に配給されている軍服に近い作業着で包むその男性。
名前はガニ・ゼイン大尉であり、飛空船内での役割は……。
「オレは整備班長をする予定だって聞いてますが、こりゃあなんでさぁ?」
「ガニ整備班長。確かにその通りの予定だ。それが何か?」
相手は自分より年上だが、階級はこちらが上。なので威圧感を向けて来るガニ整備班長に、事務的に言葉を返すが、一方でガニ整備班長の方もディンスレイに言いたい事があるという姿勢を崩さない。
「オレの立場は問題じゃあないんですがねぇ。他は全員、民間人でしょう? これは」
確かに、この場に居る中で、正規の軍人はディンスレイとガニ整備班長しかいない。
ミニセルは契約を交わすまで個人で冒険者なんてヤクザな仕事をしていた女性である。船医のアンスィもまた軍医としての職務の経験はこれまで無かったはずだ。副長のコトーなんてディンスレイの家の元執事。
「かなり個性豊かにはなっているな?」
「まともじゃありませんよこりゃあ! ここに居るのは、つまり、飛空船上の幹部の役目なんでしょう? 少なくとも、その半数は軍人で占めておくべきだとオレは思いますがね」
「五人中二人で、うち一人が変われば半数が占める様になるんだから誤差の範疇だと思うが……」
「本来、民間人一人居るだけでも問題だって話なんですぜ、こういう場合は!」
「ちょっと、おじ様? それって、あたしの能力に不足があるって事?」
ディンスレイとガニの言い合いに対して、ミニセルが混じって来る。彼女の気の強さを考えれば、当たり前の展開だ。
むしろそれを期待していたが、些か展開が早い。
「勿論、小娘一人に船を任せるなんてなぁ不満が大有りだね! オレがどれだけ、この船をばっちり動ける様にしたところで、それを動かすのがあんたみたいなのだとはなぁ!」
「あたしみたいなのってどうみたいだってのよ! お年寄りってのは、世の中直球で表現出来なくなりがちって本当ね!」
「ああん? 誰が年寄りだって? オレはまだ五十代だぞ!」
「あらごめんなさい。二十代のあたしからすれば、どう考えてもお年寄りって年齢だったから。軍人さんに失礼しちゃったかしら?」
「てめぇなぁ!」
掴み合いにならないのが不思議な罵り合いに、船医のアンスィなどはもう気を失ってしまいそうにおどおどしていた。
そんな光景を、特に止める事無く眺めるディンスレイ。そうしてそのディンスレイに囁くコトー。
「よろしいのですかな?」
「これが切羽詰まった状況であれば、勿論、止める。だが、今の段階であれば、むしろやっておくべき事だと考えているよ。何せ、我の強い連中を集めた自覚はある」
人間、角の立つ者同士が集まればぶつかる事だってあるだろう。ぶつかり合って、何時か丸くなる。なら、ぶつかる事を止めるのも野暮というものだろう。
「左様ですか。でしたら、わたくしから何か言う事もありますまい。初飛行までには、この空気も良くなっていると良いのですが」
そりゃあ酷な話だろう。
こんな口喧嘩を早速始めている連中だ。そう簡単に仲良くなるわけも無い。
(ま、旅は長くなるのだ。良い関係を築くというのは、これから先に取っておくのも悪くはあるまい)
顔合わせというのであれば、最初はこの程度で終わって置こう。ディンスレイはそう考えて、少しだけ笑う事にした。
幹部をする事になる船員達との顔合わせからさらに数日。遂にその日はやってきた。
ディンスレイが乗り込む飛空船の初飛行の日であり、さらにはシルフェニア国外、未踏領域への旅路の日がやって来たのだ。
ディンスレイはそんな日の始まりを、自らの飛空船のメインブリッジ。その艦長席に座りながら迎えていた。
(前日くらいはじっくり休むかと思ったが、気が高ぶって仕方なかったからな。若造呼ばわりされるくらいに、私も若いという奴か)
実際、二十代前半なんて年齢の艦長は若いと言われたって仕方ないと思っている。
今、船員達が忙しく動き回っているこのメインブリッジで、彼らの様子を見つめて居るのも、悪い気分では無いというのもあった。
(そうだな。本番はこれからで、気を引き締めなければならないのもまたこれから何だが……ここにあるのは夢の一つだ)
だから、それを見るのは嫌いでは無かった。今、この時の感情はこの時にしか味わえないと思えば猶更である。
が……。
「ちょっと、みんなこれから大変って状況なのに、肝心の艦長が気を抜けた表情をしてるってどうなの? はい、これでも飲んで」
と、艦長席の後ろからミニセルがカップに入った黒い飲み物を渡して来た。
「お茶じゃないのか……」
「悪いけど私、コーハ派なの」
その黒い飲み物は、ひたすらに苦く、飲めば無駄に目が覚めるという常飲する人間がいるという事がディンスレイにとっては驚愕を隠せないコーハという飲物だった。
船になんとしても積み込ませるものかと努力してみたが、船員の一部が絶対に入れて欲しいという話だったので、そのコーハという飲物を作る粉末を乗せる事を防げなかった。
防げなかったというのに、そこでさらにそれを飲めと言うのか。
「ミニセル様がお持ちにならなかったとしたら、わたくしが用意していたところでしたよ、艦長」
副長席には座らず、立ったままディンスレイの横に立つコトーからの言葉。それを聞いた時点でディンスレイは姿勢を正した。
「君が言うというのなら、実際に気が抜けていたらしい。艦内の状況チェックだ。届いている報告書があればすべて渡してくれ。どうせこれも今のうちだ」
「艦内のすべての問題に、艦長が口を挟む事だって出来なくなりますからなぁ」
既に準備をしていたとばかりに、クリップで止められた紙の束を寄越して来る。さっそく一枚一枚確認を始めようと手を動かすタイミングで、頬に何かが触れた。
「熱っ」
「ちょーっと、それでどうするのよ、これ」
ジト目で睨んで来るミニセルと、頬に触れるコーハの入ったカップ。苦手なそれであるが、ミニセルが差し出して来たものなのだから無下にも出来ない。
「無論、受け取るよ。それで、そっちはどうなんだ? さっきまで、機関部に行っていたのだろう? どうせ整備班長と変わらぬ口喧嘩を繰り広げていた事だろうと思うが」
ミニセルが手でそれを潰す前にカップを受け取ってから、ディンスレイは尋ねる。操舵士である彼女の仕事場はこのメインブリッジであるが、先ほどまでは別の場所に居たのだ。
そこから帰って来る途中で、ディンスレイ用の飲み物を貰って来たのだと思われる。
「どうせって、あの爺さんがいけないのよ? 私がちょーっと機関部の調子がどうだって尋ねるだけでも、イヤーな顔しながら、オレの整備に不満があるってのかー! なんて怒鳴って来てさ」
「不満があったのだろう?」
「右翼の方のバランスがちょっとね? だからどうにかしろ爺って頼んできたところなのだけれど」
とりあえず口は悪いが、それはそれで彼女の仕事なのだから仕方あるまい。ガニ整備班長にしたところでもそうなのだから、やはり文句も言えない。
(案の定、初飛行まで上手く収まる事も無かったか)
苦笑いを浮かべるディンスレイ。横目でゴーウィルから渡された紙束の報告書を見れば、曰く同僚の態度に不満があったり、技能に不足があって不安であったりと、様々な苦情が書き綴られていた。
問題なんてすべてを解決してから飛び立つべきなのだすれば、この空を飛ぶ物体は雲以外無くなってしまうだろう。
だから仕方ない。だから笑う。そんな種々様々な問題を抱えても飛べるくらいに逞しく作られているのが、ディンスレイが今、艦長を務める船なのだから。
「全長二五〇ミート。全幅四一〇ミート。幅の多くを占める両翼にはそれぞれ二基ずつ推進機関が搭載されており、そのどれか一つでも稼働していれば航空機能を維持出来る。武装は翼に三門ずつ攻勢光線用の砲門と艦下方にも一つと、さらにメイン兵装になる切り札が一つ」
「ちょっと、急に何よ」
「この艦の解説だよ。外装は主に黒い塗装が施されていて、それそのものに耐攻勢光線機能があるし、船尾から伸びる長い尾の様な機関のせいか、全体的な特徴は魚のエイを思わせる輪郭がある。知っているかな? こう、ある粘度の高い空を優雅に泳ぐ魚なんだが……」
「知らない。いえ、艦の事は知ってるのよ? けどエイって魚は知らない」
なら仕方ない。さっさとこちらの言いたい事を言っておいてやろう。
「この艦は頑丈だ。頑丈に出来ているし、腕の良い整備士と腕の良い操舵士を雇ってある。喧嘩をして不機嫌であろうとも、無事、冒険へ出発させてくれると私は信じているよ」
「……その言い方、結構卑怯じゃない?」
戦術と機知に富むと表現して欲しいところだ。実際、彼女はそうして大人しく操舵士のための席へと座ってくれた。
今や飛空船は大きな舵では無く、幾つもの操作用パネルと端末。さらにパネルの中央付近にある何本かのレバーにより行う時代であり、それら装置の機能について、そのすべてをミニセルは頭に叩き込んでくれている。
だからこそ、艦長としては、彼女の気分を良くしてやるのが今の仕事だった。
(こっちの紙束に書かれた報告の山も、そういう仕事の一部なのだろうさ。なら、手も抜けない)
故に艦長席でさらに幾らかの時間が過ぎる事になる。そうして、その瞬間がやってきた。
「艦長。こっちはオーケー。他からはどう?」
「うむ。既に機関部の準備は完了してある。他の部署からも確認は取れているよ」
艦内の主な施設からは、離れたメインブリッジに対して有線通信が出来る機器が設置されている。
だからこそ、少人数での中型船の飛行が可能となるのだが、いざ本番となれば、少しばかりは緊張してしまう。
(それを顔に出さない事も、艦長としての役目だろうさ)
だから傍から見れば、自信満々で、威風堂々で、未来に対して欠片の不安も抱いていない姿を艦長席から船員に見せる。
内実はどうであれ、ディンスレイの姿はその通りに見えている。そう信じたい。
だからこそ叫ぶのだ。これから冒険を共にする船の名前を。
「さあ、諸君。遂に始まりだ! 『ブラックテイル号』、発進!」
そのディンスレイの言葉は有線通信も通じて、船内すべてに聞かせるものでああり、その声に合わせて船員達もまた動き始める。
そうして、まるでディンスレイの言葉に従う様に船が、ブラックテイル号がトークレイズの空港から離陸する。
向かう先は無論、未踏領域。未だシルフェニアに住むすべての人間がそこにあるかを知らない未知なる世界。
ディンスレイとブラックテイル号の船員は、その空を初めて飛ぶ事になる、その名誉に向かって空を進み始めていた。