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無限の大地と黒いエイ  作者: きーち
無限の大地と竜の道
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② 心の構え

 湖の中心から少しズレたそこ。

 接近して分かる、水没した街並みがあるそこ。

 そんな目的地に辿り着いたというのに、ミニセルは未だ、ボートでの移動を続けていた。

「街中をボートで進むって、存外にロマンチックには思わない? ほら、海辺の開拓街として有名なアルアックって街あるじゃない? あそこ、昼頃になると内陸部まで浸水するから、道路だった場所を船で移動するのよね。それが観光名所にもなってる」

「はぁ……華やかな街の中であれば、もしかしたらそう思うかもしれませんが……」

 ボートに乗りながら、ミニセルが世間話を振ってみるが、受け取るカーリアの方はあまり良い反応を示してくれない。

「誰も居ないとなると、むしろ不気味って思っちゃう? けど、こういう状況で、あの建物に誰か居るってなると、そっちの方が怖くないかしら」

「警戒はすべきでしょうね……」

 受けての反応が良く無かろうと、ボートに乗り続けている以上、もう一人の乗組員であるカーリアとの会話も続ける。

 彼女は世間話よりは仕事の話の方がより多弁になってくれるため、ミニセルが彼女に気を使う限りにおいては、今、探索を続けているこの街についての話が主だった。

 もっとも、世間話にしたところで、この街は何なのかみたいな、ふわりとした話題になってしまうのだが。 

「いっそ乗り込んでみるかとも思うけれど、まずはこうやって街並に異質なところが無いかの観察よね? 艦長にも慎重に事を進めろって厳命されちゃったしさ」

「ミニセル操舵士は、艦長と仲がよろしいのですか?」

 と、仕事の話ばかりと思えたところで、むしろカーリアから世間話を振って来た。

 彼女もこれで、この街にやや不安を覚え始めたのかもしれない。だからこそ、何気ない話でその感情を誤魔化そうとしている。

 なら、それに乗ってやるのも船内幹部の仕事だろう。

「艦長との付き合いは、あなたと一緒。今回の未踏領域の探索っていう事業が始まってからよね? もうちょっと正確には、その件で雇われるところから。そこらへん、カーリアさんはどうだったのかしら?」

「私の場合は、元々シルフェニア国軍所属の軍人でしたので、推薦状が送られて来ました。もし、その気があるのなら、参加してみないかとの事で……」

「はいに丸しちゃった感じ? あいつの事だから、強制とかはしないでしょうし」

「そうですね。あの……国軍には海軍がある事もご存知ですか?」

「ええ。確か空軍よりも予算は少なめ、人員も少なめ、将来の展望も少なめっていう……ああっとごめんなさい。もしかして、元はそこの所属だった?」

「ええ、まあ。あと、言われたそれらは事実ですので」

 気に病む必要も無いと言われたのだろうが、若干、ショックを受けてそうな彼女の表情を見れば、額面通り受け取るのは禁物だろう。

(けど、実際海軍っていうのも……ねぇ)

 無限の大地、マグナスカブにおいて、海の基準と、今居る様な湖の区分けというのは実は曖昧だ。

 大まかに分けるのなら、端が発見されていないのが海。発見されているのが湖と区別されている。

 現在、シルフェニアが認知している領域において、海は一つのみ。領土の東側に広がるジロフロンの大海と呼ばれる場所だ。

 大海と名付けられているのに一つだけというのは妙だと思われるかもしれないが、国内や隣国にある湖の幾つかが、海だと思われていた時期があるのだ。

 それらは実は海では無く、閉じられた領域での水溜まりだと知られる中で、残された、飛空船ですら横断出来ない唯一の海を大海と呼ぶ様になったのである。

 ならば、その海を領域とするのがシルフェニア海軍かと言われればそうでも無い。

「ご存知かもしれませんが、一定規模以上の規模を持つ湖についても、海軍が動く範疇となっています」

「まあ、そういうところも、元は海だって思われていたわけだしねぇ」

「となれば、湖毎に環境や範囲に則した組織編制が必要になってくるわけで、あまり効率的な組織運営というのも難しく……」

「結果的に、国軍内でのお荷物って思われがちよね。当人らがどれだけ真面目にしてても、余所からはそれが分からないものだし。だから、むしろ空軍の範疇なブラックテイル号に乗り込む事にしたのかしら? 将来の出世のためだったら納得しちゃう」

「それもありますが……私が所属していた海軍は、湖の方で、しかも既に周辺環境の調査や開拓が相応に終わっている場所でしたので……その……冒険と言いますか……」

「あーあー。分かっちゃった。広い世界を見てみたいって思っちゃったわけね。好奇心ってやつ」

「そういう表現も……出来はするでしょうが……」

「恥ずかしがらなくたって良いのよ。つまり、あなたも一緒。仲間ってだけじゃない」

「仲間……」

「でしょー? ちょっとそこらへんの船員捕まえて聞いてみなさいよ。なんでブラックテイル号で働く事を決めたのかって。事情は色々だけど、結論は似た様なものが返って来るんだから」

 好奇心に突き動かされている。今、このおかしな街並みに不安感を覚えている最中だというのに、それでも逃げたいとは思わない。そういう好奇心がカーリアにはある。無論、ミニセルにも。

「ミニセル操舵士も、艦長もですか?」

「あたしもそうだし、きっと艦長も……ああ、けど、あいつから詳しく聞いた覚えは無いわね。聞こう聞こうって思う事はあるんだけど、どーにもタイミングが……どうしたの?」

「いえ、好奇心の向いている先が、ミニセル操舵士は少し違うなと」

「え? 何? どういう事?」

「大丈夫です。私は分かりましたから大丈夫です」

「いや、大丈夫って。だからどういう事よ! まったく……で、ちょっとは落ち着いて来た?」

 と、世間話らしい世間話の最中に聞いてみた。

 ミニセルが尋ねると、きょとんとした表情を浮かべるカーリアは、すぐに恥じた様子で表情を真面目な物へと変えて来た。

「もしかして、気を使わせてしまいましたか……?」

「船内幹部だもの。気を使ってなんぼよ。ただ、ここからはそういう余裕も無くして行きましょうか。この街を回って見て、とりあえず一つの結論は出て来る頃だもの」

 空気が変わるのを感じる。街の方に何かあったわけでは無い。ミニセル達側が変わったのだ。

 現在、二つあるボートはそれぞれ分かれて、水没した街の湖面から出た部分の合間を縫いながらを探索を続けている。

 その探索の最中に何かあれば、それはそれで進展という事で、撤退の判断でも出来たのだろう。

 しかし、現実は優しいと言えば良いのか残念と言えば良いのか、分かれて探索していたボートが、対面から無事のままで近づいて来たのである。

「向こうも、特段、発見は無かったみたいね。なら、探索を終らせるわけには行かない」

「危険があれば……撤退という話でしたからね」

 最初の予定通り、順調に街の探索は進んでしまったという事。

 予定を変える事は無いだろう。ここから次は、湖面から出た建物へと足を踏み入れる。中に誰か居れば、それこそ、危険に遭遇したという事になるのだろうが……。

「建物の中に入っても、何も無かったらどうする?」

「そういう時は、それはそれで非常事態では無いでしょうか? これは個人の経験則ですが、湖というのは、何も無い様でいて、何某かあるものです」

 なかなかに頼りになりそうな言葉がカーリアから返って来る。

 なるほど。特に何かあったわけでは無い探索時間であったが、彼女からそういう言葉が飛び出すくらいには、仲を深める事が出来たらしい。




「それで、この湖が死の湖というのはいったいどういう事なのかな?」

 ララリートに呼ばれて、ブラックテイル号近くへと戻って来たディンスレイ。しかしやはりブラックテイル号内部では無く、水辺で湖を見つめながら、一方で湖の水を幾つか汲んではサンプル用にガラス瓶に入れているアンスィにもまた視線を向けていた。

 同行していたガニ整備班長は、休息を取れるのは今、この瞬間くらいかもしれないと、ディンスレイがこの湖に名前を付けた時点でブラックテイル号内部に帰還している。いざという時は、万全な状態でこの湖から逃げられる様にだろう。

「し、死ですか?」

「不吉なネーミングセンスだったかな? 実は整備班長にはそんな反応をされた」

「い、いえ。死の湖というのは、た、大変に……的を射ているかと」

 言い過ぎですよぉ。という言葉が彼女から返って来る事を期待していたのだが、予想は外れて、アンスィは真剣な表情のまま、言葉と仕事を続けてくる。

「か、艦長は、こ、この湖を見て……ど、どう思いますか?」

 尋ねられて、広いその湖を見つめる。離れた場所にはあの謎の構造物が見えるものの、その他の部分は一般的だろう。いや、むしろ穏やかそのものだ。

 シルフェニア国内にだって勿論、この規模の湖は幾らかあるが、もっと酷い環境や変化の只中にあるものだってある。

 例えばランデンエンの湖などは、大半の部分が巨大水棲爬虫類の巣になっており、繁殖期になればそれらの爬虫類が湖に棲む他の生物を生態系ごと食い荒らす光景が見られたりする。

 自然環境の過酷さの極致と言える様な、そんな光景に比べれば、ここにある湖は平和そのものだった。

 そう。平和だ。波も風も無く、湖中だって……。

「ああ、そうか。この湖は酷く、澄んでいるな」

 個性的な特徴が一つあった。少し湖の中。その底を見ようとすれば、すぐに見えるのだ。

 遠くまでは光の反射で難しいが、すぐ近くは、本当に底の底まで見える。それほどに水が澄んでいる。濁っていない。

「み、湖の濁りには、幾つか理由もありますが……大半の場合、そ、その中にある有機物に寄るものなんです。水の中って、こう……じ、実はとても生きやすいんですね。空気中より余程……み、水がそこにあれば、すぐに、生き物が沢山暮らし始める」

「なるほど。水の濁りは生き物の証。みたいな話も聞いた事があるな。それでも幼年期の学校での話だがね」

 何らかの理由で生物の層が薄い湖であれば、その湖そのものは透明度が上がる。そういう話を聞いたのは、もっと年齢が上がってからだが、アンスィの真剣な表情は、そこに理由があるらしい。

「す、透き通った湖と言っても、い、生き物は居ます。と、というか、なんらかの生物が、その湖で繁栄したからこそ、そ、その他の生き物は居なくなって……結果的に。という場合が多いですから……」

「ほう。椅子取りゲームでの勝者が一人なら、確かに一見すれば、その場所は見通し安い場所になるな。だが、生き物が居ないなんて事にはならんわけだ」

「か、艦長の言葉を借りるなら……い、椅子を取ろうとする生き物は、何時だって、何処にだって居ますから……けれど……」

 と、サンプルのガラス瓶を一つ、アンスィはディンスレイに手渡して来た。

 ガラス瓶に詰まったその水は、濁りどころか、埃らしきものすら一つも見当たらない。蒸留を何度か繰り返した水で、漸くこうなるだろうか。

「た、探索班の方々に、頼んではいるんです。幾つか離れた地点で、み、水のサンプルを取って来て欲しい……って」

「そこで、もし、これと同じ水ばかり採取されたとして……その場合はどうなる?」

「わ、分かりません。い、異常なんです、これ。この湖は……ま、まだ短い期間ですが……わ、私が見る限り、ほ、本当に生き物が居ないんです。か、環境に入り込もうとする生き物は……ど、どこにだって居るのにですよ? なのに居ない。こ、これは矛盾しています」

 何に対しての矛盾だろう。

 そう尋ねる必要は無かった。ディンスレイでも何が言いたいのか分かる。

 ここは、無限の大地の、どこにでも当たり前にある生物の在り方に対して矛盾している。アンスィはそう言っているのだ。

「探索班を出したのは、今度も失敗だったかな?」

「そ、そうとも言えないかと……か、環境については、や、やっぱり見る限り、落ち着いて居ます。た、多分、探索班の方々も……無事に目的地に着いている頃でしょうし……。そ、そうやって調べてみないと、ほ、本当に何も分かりません」

「もっともな意見だ。確かに調べない限りは始まらん。ただまあ、確かに死の湖と名付けたのは不吉な事だったな」

 この湖には生き物が一切居ない。それが真実だったとして、では、ディンスレイ達はどうなのだろうか。

 空からやってきて、湖の近くに降り立ち、湖の調査まで始めている侵入者。そんなブラックテイル号に対して、この生物が居ない死の湖は、いったいどういう反応を示してくるのか。

「椅子取りゲームか……」

「ま、まだ何か?」

「いや、その席に座ってるのが、見つかってないだけで、本当に一つだけ居たとして、それはどんな姿をしているのだろうな……とな」

「そ、その話の方が、余程……不吉では?」

 どうだろうか。それについてもまだ、今のところは分からないままだった。




 足を一歩踏み出した時点で、それは相当に安定しており、水面近くにずっとあるというのに、劣化にも耐えている様に思えた。

 そんな湖面に沈む街の、湖から出た部分への一歩をミニセルは踏み出し、続いて他の船員達も続く様に促した。

 出入口は遥か湖の底である以上、建造物の内側へ入るには、恐らくは窓であっただろう場所からになる。

「うーん。枠の形から、ガラスあたりが嵌め込まれていた様に見えるけど、みんなはどう思う?」

 探索や調査が目的である以上、入ってすぐにそれが始まる。

 窓らしき場所へと入り、すぐ下に複数人が立てる足場がある事を確認してから、さっそく入った場所からの検証に入る。

「開け閉め様に使っていた溝も見られます。確かに窓とガラスか、それに近い構造が元々あったとの操舵士の予想には同感です」

「待て待て。じゃあなんでそれが今は無いんだ? 枠だけじゃないか」

「割れたとか? もしくは、取り付け前だった?」

 船員達が各々、意見を述べ始める。こういう時に遠慮しない雰囲気が大事だ。答えなんてすぐに出ない物なのだから、案の方を多く用意する方が良い。

「一つ、思い付いた事が」

 と、手を挙げてカーリアから発言があった。こういう場でわざわざ手を挙げるというのは、多少なりとも重要かもしれないと考えた場合である。

 だから他の船員もそれに合わせて黙る。

「じゃあカーリアさん。どうぞ?」

「ええ。この街に着いてから思った事は、勿論、街並が湖に沈んでいるというものでしたが、それにしては、殺風景だとは思いませんでしたか?」

 頷く。建造物そのものは色が付いており、形だって同じ物ばかりというわけでは無かったが、確かに寂れた印象を受けた。廃墟らしい廃墟。そういう印象すらあった。

 その理由は湖に沈んでいるからだけでは無い……とカーリアは言いたいらしい。

「洗い流された。そんな印象があります。つまり……街にこう……水でも風でも何でも良いですが、勢い良く何かが押し寄せる来るとして、それに街が満遍なく晒されれば、こういう溝に嵌まる様な物はどこかへ流されますし、外壁の飾りや内側の家具類。看板なども同じ状況となり、今、私達が立っている様な、しっかり固定された建造物の骨格みたいな部分だけ残る……かも?」

「水でも風でも……ね」

 馬鹿らしい考えだ。そんな事を言う輩はこの場には居なかった。

 むしろカーリアの考え方が、今のところ、有力になってしまったから、少しだけ沈黙が続く。

 その間、ミニセルは自分達が入って来た暫定窓枠から、ボートのある湖面を見つめる。

 波一つ無い湖面に、風一つ無い風景。まだ、危険はそこに無かった。

「今、カーリアさんの言った事を念頭に置きつつ、奥へ進むわ。そこで、もし、その説を補強する様な物を見つけた場合、撤退を判断する。良いわね?」

 これに関しても、反論する者は居なかった。皆、艦長から今回は必要以上に慎重にという話を聞いているからだ。

 それと勿論、実際に怖さが好奇心を勝り始めるタイミングだからかもしれない。

「じゃあ先頭はあたし。カーリアさんが一番後方でお願い。みんな、着いて来て」

 何時までも入口だけで喧々諤々とはしていられない。ミニセルの方は、まだ好奇心が先立つ状況だ。

(うん。足場はここだけじゃなく、どこも無事みたい。というか、さっきカーリアさんが言ったみたいな事があったとして……酷く頑丈って事よね?)

 文明の度合いというのは、建造物の頑強さにも現れるとミニセルは思うのだ。木造に石造、粘土に藁といろいろ材料の質もあるだろうが、文明はより高く、より頑丈にと自らの街を作り出そうとする。

 頑丈の方向性も色々あるだろう。単純に衝撃に耐えるというのもあれば、経年劣化や湿度に乾燥、振動にだってどれだけ耐えられるかを、文明というのは総体として目指している……と、あちこち冒険を続けたミニセルの感覚が告げていた。

(じゃあ、ここは? 湖に沈んでいる部分から相当に高いけれど、崩れている建物は無かったわよね? 見る限り、建ってから時間は経過しているけれど、やっぱり、足場は固いまま。湖に波は無いって言っても、水の浸蝕に晒されてもいるはず。けど、やっぱりしっかりしている)

 非常に耐久性がある建物を作る文明が、この街を作り出したというわけだ。

 そもそもいったいどういう素材を使って作り出したのか。質感は石に近いが、触れたら切れそうな鋭さは無い。むしろどこか温かみを感じて、石造らしい切れ目も無かった。

 一見するだけでも、建造用の資材としては一級品の何かが使用されているのは分かる。

(高度な文明……それにしたって、抜きんでてない? こういうのって……あれよね? ダァルフやエラヴ)

 既に二つの種族。シルフェニアを上回る技術を持った存在をミニセル達ブラックテイル号の面々は知っている。肝心の生きている彼らとはまだ出会えていないが、その遺跡や遺構を見つける機会はあった。

(ダァルフの遺跡も、まあ頑丈だったけど、こことは印象が違うわね。あっちは元の岩盤を利用する。新しい材料をどこからか持って来て、街を作り出す方向じゃあない)

 なら、ここはエラヴの街か? エラヴについてはまだどこまで知れたか分かったものでは無いため、判断を確定させるのは止めて置く。だが、今、歩いている場所の力強さには、そういう種族が背景に居そうな気がした。

 が、今はその痕跡の多くを洗い流された状況がここにある……と見るべきなのか。

「みんな立ち止まって」

 一旦、思考と足取りを停止させた。建物内部を進み、階段を見つけたのだ。

「とりあえず、これがあるって事は、この建物はやっぱり生活か仕事かするための物だった事は分かるけど、とりあえず聞きたい事があるの」

 発見した階段は、当たり前だが足で移動するためのものだ。高さや幅からも、ミニセル達の様な姿をした者が利用していたであろう事は容易に想像できる。

 そこからも、様々な発見がもたらされるし、これからそれらの検討に入るつもりであるが、それよりも前にミニセルは聞きたい事があった。

「上か下か。次はどっちに進む?」

 上の階と下の階へ進む階段。それらがセットであるという事は、機能性を追求する文明のものであるという予想も出来るが、今はそれより、ミニセル達の気持ちの方が重要だ。

 上か下か。それはつまり、より湖に近づくか、それとも離れるかという選択肢を突き付けられたという事なのだ。




「とりあえず、湖を泳ぐというのはしない様に。船員全員に伝えておいてくれ。船医殿には引き続き、調査を続けてくれとの指示を。必要なら人をやるともな。艦そのものは何時でも離陸出来る様にしておくのも勿論だが、作業員には、もし、艦が離陸している状況で、探索班がボートに乗ったままの場合、どうやって迅速に救出作業が出来るかの案出しもしておく様にと。あとは……」

「随分と、今回は慎重を重ねていますな」

 ブラックテイル号メインブリッジ。

 そこにある艦長席に戻り指示を出すディンスレイに対して、そこに居るのが当たり前だと言わんばかりに副長のコトーが隣に立って、その指示を聞きつつ、感想を述べて来た。

「少し臆病に過ぎると思うかな?」

「いえ。むしろ何時もこうであれば有難いと思うところで。何時もはもっと無茶で挑戦的ですからな」

 暗に、何時もより調子が違っているが大丈夫かと心配されているのだろう。実際、何時もとディンスレイは違うというのを、ディンスレイ自身感じていた。

「湖は静かだろう? ここに来たばかりの、平穏そのものを崩してはいない」

「つまり、何時もよりはまだ安心出来るのでは?」

「そこだ。そこなんだよ副長。自分でも考え過ぎだと思うがね? こういう、他に問題が何も無い状況だと、何か大きな落とし穴がそこにある様な……そういう不安を抱いてしまう」

「大きな穴なら、こちらに来て早々に出会いましたでしょう?」

「あっちについては、むしろ来るぞ来るぞというタイミングだった。今回は違う」

 油断したところに隙を突かれるというのも違う。

 例えばそう、大きな波がやってくる時、波は一旦引くものだ。そんな漠然とした、状況全体への不安が、ディンスレイの心の中から離れてくれないのである。

「いっそ、何か事件の一つでも起きればと、そんな事を考えておられるのですかな?」

「はっ。いっそ、竜でも襲ってくれば、勇敢なる戦士として立ち上がろう! などと言えたかもしれんな」

「そういえば……昔、竜を見たそうですな、艦長。あれは初耳でした」

 急に何を言い出すのかとコトーを見るが、彼は優しさのある笑顔を返して来た。

 慌てるな。まだその時じゃないのだから、むしろ今は落ち着くべきだ。そんな意味が込められている表情で、それを見てしまえば、ディンスレイは溜息を吐いて、席に深く座るしか無くなる。

 確かに、今から精神力を消耗していれば堪らない。

「……そうだな。昔、竜を見た。コトー、君が一度、暇を与えられた時だ」

「ああ、その頃の」

 実家が、まだ曲がりなりにも貴族の家柄と言えた頃から、言えなくなってしまった頃。だいたい丁度その間の時分。

 当時、両親はまだ生きてはいたが、健在とも言えない状況だった。いったい、この先、どうなってしまうのだろう。

 子ども時分に将来への不安が背中に伸し掛かっていた頃。ディンスレイは自室から繋がるベランダから、空を見上げたのだ。

 それは子どもらしいキラキラとした目では無く、どうしてこの世界は自分に困難ばかり与えて来るのだという、世の中を呪う様な、そんな情けない目だった。

「私は、その頃、本当に良く空を見上げていた。どうしてかな。そこにしか逃げ場が無い気がしたのだろう。もっとも、羽も翼も無い身だったが……」

「あなたをその時、支えられなかった事は、わたくしの恥ですな」

「そう言うな。おかげで、良いものが見れた」

「そこで……空に竜ですかな?」

 頷く。もうどこにも行けない。自分は徐々に潰れて行く。無駄に大きなこの家に押し潰されていくのだ。

 そんな絶望の中にあった時、ディンスレイは空を見上げた。

 そうして、そこには翼があった。

「翼の形をした雲だった。薄い青空に、真っ白い雲が、翼の形をしていたんだ」

「それはまた。良い風景だったのでしょうな?」

「話はここからだ。誰からもそんな話は無いだろうと馬鹿にされるだろうが、誓って言うぞ? その、翼の形をした雲は、一度、羽ばたいたんだ。私が空を見ている間に、一度だけ」

「ほほう」

 幻だったのでは。夢を見ていたのでは。そう言われるかもしれない。記憶を捏造している可能性だってあるだろう。

 だが、ディンスレイ自身はそれを確かに自分は見たのだと、そう思う事にした。それが確かな事実だ。

「その光景を見て、世界の途轍もなさと、雄大さを知ったんだ。縛ろうとしたって、縛り付けられるものでは無い。世界にはひたすら、神秘と不可思議と、それを見つけようとする好奇心で満ちていると、素直に信じられる様になった。だから……」

「だから今、ここで艦長をしていると。そういう事ですかな?」

「ああそうだ。その通りだよ副長。思い出した。そうだった。私はな、あの空に、自分自身の手を届かせたくて、空を飛ぶ事を選んだのだ」

 それを目指す日々は困難な日々だったが、それをそうとは思えなかった。むしろ、自分が進むべき道を漸く見つけたのだと、何時だって身体に力が溢れていた。思考に浪漫が詰まりに詰まっていた。

 そうしてそれは、今なお続いている。

「忘れるべきでは無かったな。不吉な湖だから何だ? 面白い。いったいどんな姿をこれから我々に見せてくれるか見物じゃあ無いか」

「それでこそ……ですな。呆れて見る甲斐があります」

「そうだった。それも忘れていた。副長とは呆れさせるものだ」

 そこで副長の笑みは苦笑のそれに変わった。結構な頻度で見るものだ。まさに何時も通り。

「こういう不可思議な世界に我々は居る。そんな世界を子どもみたいな、キラキラした目で見るのが我々だ。将来の不安はしっかり心配させて貰うが、未来への好奇心を萎えさせて堪るものか。副長、さっきの指示だが、幾つか追加だ。何かあった時、何でも良いから取れる手段を増やしておけとな。逃げる方向じゃあ無いぞ? 起きた現象に挑むための方法をだ」

「了解しました。船員の皆さまの、困った顔が目に浮かぶ様ですな。

 もしくは、ディンスレイの様に目を輝かせてくれると嬉しい話だった。

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