④ 今がその時という事
その少女について、ディンスレイから語れる事はあまりにも少ない。
その少女は、崩れ去った北方の山脈壁の、そのあまりにも大量の土砂の只中に倒れていた。
さらにその少女はそれでも、生きていた。
その少女は生きて、意識を取り戻した後、シルフェニアの物では無い言語で話し始めた。
その言葉を聞き取るためには翻訳装置を必要とするくらいに、それはシルフェニアにとって未知のものであった。
「後は……顔立ちは良い方じゃあないか? 髪の色が綺麗な青色というのは少々目立っているし、額に、宝石の様な構造物が埋まっているというのもなかなか新しいファッションだが、うん。可愛らしい女の子と表現出来るだろうさ」
「いろいろと可愛らしいでまとめてしまえば安心できるって事? 出来ないからね?」
ブラックテイルⅡのドッグも一部として存在する軍の施設内。その奥に、少女のための部屋はあった。
グアンマージの時もそうだったが、今、この部屋に居る少女は良く良く、軍施設内の奥にいる。
もっとも、それもそろそろ終わる頃だろうが。
『ディンスレイ。そこの人は。誰?』
部屋に備え付けられたベッドに座り、立ったままのディンスレイをじっと見上げていた少女が、言葉を向けて来る。
彼女から直接の言葉と表現するには、どこか違和感を覚えるそれ。
これがつまり、翻訳装置を介した会話という奴だ。ちなみに、この違和感こそが翻訳装置の安全弁の様なものであり、今後改善される事は無い。
なのでこういう違和感を飲み込んだ上で話をするのが、少女スーサとの会話であった。
「スーサ。彼女の名前はミニセル・マニアル。現在準備中の、君も乗る事になる飛空艦で操舵士をしてくれる女性だ」
『操舵士。飛空艦を動かすお仕事。飛空艦ではとても大事。よろしく。ミニセル。わたしはスーサ。壁の向こうから来た』
「……」
スーサから挨拶されたというのに、ミニセルの方は渋い顔を浮かべていた。確かその表情は、何と答えるべきかそもそも分からない自分に苛立っている顔だ。
だが、何時までも黙っているわけには行かない事も分かっているだろうから、ミニセルは口を開いて来た。
「よろしく、スーサ。とりあえず……もうちょっとその、隣に立っているディンスレイとかいう、見た目性格悪そうな男と話をさせて貰って良い?」
スーサはミニセルの言葉に首を傾げるも、一旦は頷いた。
意味は分からないが言う事は聞くという素直な動作であろう。
性格が悪い見た目であるらしいディンスレイの方は、素直に頷けないものの。
「まず、スーサと交流を続けて、旅の始まりを仲良く迎える事を優先する時間だと思うのだが……」
「そうじゃないでしょーがっ! どーいう事よ! さっぱり分からないわよ! いえ、分かるけど、これで分かった気持ちになりたくないって言うかー!」
そこまでの事だろうか?
既にスーサという、山脈壁の向こう側に存在しているかもしれない文明、その実在証拠があるという事が。
「言っておくがな、ミニセル君。国軍が……勿論、私もだが、いろいろと懸念している部分はさらにもう一歩踏み込んだ部分にある」
スーサという少女がここに居る。それが何を意味するのかを知る事が、今回の旅の一歩目だとすら言えた。
既にディンスレイはその一歩目を踏み出していて、今度はミニセルがそれをする番という事だ。
「……で、その踏み込んだ部分ってのは何なのよ?」
逃げる事は無い。だからさっさと教えろ。ミニセルらしい返答だった。
「スーサ君。君から直接伝えてくれないか。君がここに居る理由を」
『……』
「……」
スーサがじっとミニセルを見て、ミニセルの方も言葉を待っているので黙ったまま。
それが数秒続いた後に、ただスーサはその言葉を告げて来た。
『わたしは、壁の向こうから来た』
「山脈壁の向こうから……ね。それで?」
『……』
またしてもスーサは黙り込み、首を横に振った。
「ちょっと、どういう事なのこれ。他には何も無いの?」
「無い」
「艦長!?」
「分からないか、ミニセル君。なら彼女に聞いてみるか。スーサ。それ以外に伝えられる言葉はあるかな?」
『無い。何も』
「何もって……え? 本当に無いの? けど、さっきの言葉だけはある?」
いい加減ミニセルも気が付き始めたらしい。
そうだ。スーサは壁の向こうから来たという言葉だけしか無いのでは無い。その言葉だけがあるのだ。
「このスーサという少女はな、それ以外の記憶が無い。普通に生存活動をする能力はあるし、服を渡せば着替えるし、食事だって普通に取れる。この通り、翻訳装置を通せば会話すら普通に可能だ。だが、彼女が知っているのはその言葉だけなんだ。山脈壁の向こうから自分は来たと、他者に伝える。それだけの記憶を持ってシルフェニアへと来た。いや……」
「送られてきた。そういう事ね?」
スーサの方はそれを肯定する記憶も持たないので、ディンスレイが頷いた。
そう。スーサは山脈壁の向こうに存在するであろう文明圏から、シルフェニアへと送られてきたのだ。
そうなると、山脈壁の一部が崩れ、空路が開けたのも偶然では無くなる。
あの強固で巨大な山脈壁を崩壊させ、その向こう側に居るであろう文明圏を誘う様に、一人の少女を送り込む何かが確実に存在する。
スーサは言わば、招待状なのだ。その存在からの。
「もしくは罠か……だな。どうだ? 好奇心が疼いて来ないか? 何もしないというわけにも行かない。だろう?」
「そういえば、西方の未踏領域の旅を始めた時も、そんな感じだったわよね」
「何がだ?」
「罠なのに、好奇心が擽られる。あの時は艦長からの誘いだったけれど、今回はこの娘がしてくれるってわけだ」
理解出来ないらしく、きょとんとした表情のままのスーサの肩に、ミニセルは軽く手を置いた。
敵意に対して反応する能力もスーサは勿論持っている以上、ミニセルの動きにそんなものは感じなかったのだろう。
とりあえず、これでミニセルも一歩を踏み出した形になろうか。
『それで。ディンスレイ達は何時出発する?』
「まだ準備中だが、もう数日程度と言ったところさ、スーサ。少なくとも、私と彼女が君と旅をする事を決めた以上、止まる事は無い」
さて、そんな返答にこの少女は喜ぶだろうか?
その点に関しても、旅立ってみなければ分からない。
清掃と整備の行き届いたそのメインブリッジに、特徴的な匂いというものも無いのだろうが、それでも、そこにある艦長席に座っていると、その手の匂いというのを感じてしまう。
(清々しさに匂いがあるなら、こういうものなのだろうな)
あくまで自身の感情から来る匂いであると、ディンスレイは自覚していた。
だからこそ、いっそこう思うのだ。これは新しい世界の匂いだと。
「諸君。ここに来てもう一度言っておきたいが、再び集まってくれた事に感謝する。今回がブラックテイルⅡに乗るのが初めての船員も居るだろうが、やはり感謝を向けよう。なかなか良い勇気を持っているぞ。それが蛮勇にならない様にするのが、私の仕事なのだろうな」
今、ディンスレイはブラックテイルⅡ全体に通信を繋げて話をしている。
メインブリッジに映る景色は、ドッグから出た外の景色。
広い広い軍用の滑走路と、それ以上に広がる青い空。
今日この日は何度かあった、ディンスレイにとって記念の日。未踏領域に旅立つその日だった。
「今から、ブラックテイルⅡは北方の未踏領域へと乗り出していく。文字通り、その先に何が待ち受けているか、シルフェニアの人間は誰も見た事が無い以上、知る事だって出来やしない。君たちが見るものがすべてだ。君たちがまず真っ先にそれを見る事になる。それは怖い事だろうし、緊張だってするだろう。手を抜く事すら許されない。それはつまり、君たち自身の命に直結しているからだ」
未踏領域は危険な領域。そんな事を想像出来ない者などブラックテイルⅡには居ない。
居ないはずだが、メインブリッジを見渡してみれば、どこか楽しげにも見える表情を浮かべた船員達の姿があった。
まあ、格式張るのもここらが限界だろう。
「言っている事は分かるな? やるべき事をやったのなら、後は楽しめ。きっと今回も、見る物すべてが新鮮だぞ? 私もそうする。だってその方が、まさに楽しいからな。以上。これよりブラックテイルⅡは飛行へ入る。各員、その瞬間を待て」
碌な演説では無かったなと苦笑いを浮かべながら、通信を切る。そうして次に、メインブリッジメンバーに向けて口を開いた。
「なんだなんだその目は。士気が多少なりとも上がる効果はあったと思うぞ、私は」
「いやまあ、そうなんですけどね。気合入れてる最中に、何時も通りだなぁという空気になると、気が抜けそうになって苦労すると言いますか」
「そういう軽口も何時も通りだな、テリアン主任観測士。そろそろ出世のタイミングじゃないか? どうして今回も何時も通りなんだ?」
「なんででしょうね? 上司が何時も無茶するせいで、僕までそういう性質だと思われているのか……とりあえず、今回も頑張って仕事はしますよ。成果を持ち帰れば、漸く艦長職になれるかもしれない」
などと何時ものメインブリッジメンバーであるテリアン・ショウジ主任観測士と何時もの会話を交わし合う。
ただ、こういう部分に妙な懐かしさを覚える自分もここにあった
(やはり焦がれていたか? この空気に)
その点についても苦笑したいところだったが、何度も笑みを浮かべていると気持ち悪がられるので我慢しておく。
代わりに、副長席に座る男に言葉を向けた。
「テリアン主任観測士はああ言っているが、副長はどう思う?」
予定通りにその役割に収まったその男、テグロアン・ムイーズ副長に尋ねてみたところ、彼は首を横に振って来た。テリアンに対してでは無く、ディンスレイに対して。
「これがこの艦の空気である事はもう諦めていますが、今はもう少し、真面目にしているべきタイミングでは?」
せめて、実際に未踏領域へと入るまでは。テグロアン副長の意見とはそういう類のものであるらしい。
その手の固さが前回の冒険以降も抜けていないのか? いいや、テグロアン副長についてはこれで良い。確かに、気を抜くには早い部分あるのだから。
「そこはバランスだな。私だって、こういう始まりのタイミングは、どういう気分で迎えれば正解か分からんものだ。とりあえず、副長は損な役回りを担って貰おう」
「ある種の意趣返しですか、それは?」
「いいや? 誘われ方や動機がどうであれ、ここに自分が居る事は、幸いだと思っているよ、私は」
なので、不意打ち的に今回の仕事に誘って来た件への意趣返しは、別の機会にさせて貰うつもりだ。
正解こそ分からないが、この場に置いて、おかしな罪悪感など抱えるべきでも無いだろう。抱えて置くべきは、ただひたすらに膨れ上がり続ける好奇心のみ。
「雑談は良いとして、そろそろ号令でもどう? みんなその時を待っていると思うけど」
今回の空気の締めはミニセルがするらしい。彼女にしたところで、そろそろ焦れて来たタイミングだろう。ディンスレイと同じくらいの好奇心を、彼女だって抱えているはずだから。
「そうだな。それではそろそろ、艦長として言って置こうか。ブラックテイルⅡ。はっし―――
「その前に、もう一つ話題を出しても良いですかー!」
と、どうやら軽口が足りなかったらしいテリアン主任観測士からの発言。
なんだなんだとメインブリッジメンバーの視線が向かう中で、テリアン主任観測士は話を続けた。
「それで……彼女の配置は僕の隣で良いんですか? っていうか何でこの位置?」
テリアン主任観測士を見ていたメインブリッジメンバーの視線は、次に彼の隣の席。
以前はララリートが補佐観測士として座っていた席に座る青髪の少女を見た。
皆が話している間も、勿論、ディンスレイが出発の言葉を艦内に向けている間も、ずっと黙り、ディンスレイの方を見ていた彼女、スーサ。
彼女もまた、今回、ブラックテイルⅡに乗って共に旅する仲間となっていた。
「君の隣の席に配置したのは、そこが観測士の席だからだ。彼女には我々の向かう先を良く良く見て貰う予定でな」
「壁の向こうから来たからですか……?」
テリアンもまたちらりと自身の隣の席に座るスーサを見た。
ある種、これまでのブラックテイルⅡに無かった異物。
シルフェニア国外の人間がこのメインブリッジに居る事はあったものの、何者かすらも分からない者が座っているというは、初めての経験かもしれない。
「どういう反応をするかだ。既に話をしている通り、彼女は壁の向こうに居る何かからのメッセージだと私は考えている。となると、我々が壁の向こうに辿り着いたり、特定の地点に来た時、何らかの反応を示すやもしれん。なので一応、それを真っ先に確認出来る場所に配置したわけだが……何かな、スーサ君。さっきから?」
こうやって当人についてを議題にしている時すら、スーサは黙ってディンスレイの方を見ていた。
何かしら、スーサ自身から反応があってもおかしくは無いと思うが、何故それがディンスレイをただ見ているになるのだろうか。
『ディンスレイ。わたし、喋っても良い?』
「ああ、構わんが……ここでは艦長と呼ぶ様に」
『了解。艦長。質問が一つ』
「何かな?」
『ディンスレイ達は何時出発する?』
「もしかして、それをずっと聞きたかったのかな?」
ディンスレイの問い掛けに頷くスーサ。
確か、もっと前にもこの質問をされた気がするがもしや……。
『何時出発するか。ずっと分からない。誰も教えてくれない』
聞かれなかったからな。
そうは返さなかった。これはディンスレイ側の不手際である。なるほど? もし、彼女がメッセージの伝達役なのだとしたら、余計な役割など与えては貰っていない可能性もある。
つまり……雑談の中から相手の意思や今後の決定について推測するという行動をしていないのかもしれない。
「これは……今後の課題かもしれんな……」
「出発する前から、当艦の問題が一つ増えましたか」
副長の言葉に肩が重くなる気がしてくるものの、問題を抱えながらでは飛べないなどと今さら言えない。
せっかく空気だって軽くしたのだ。この勢いは一つの問題だけで衰えないものだと信じよう。
そうして、まずこの目の前の問題に関しても、まずは一歩目から。
「スーサ君。何時出発するかについてだが……気になる事があったら、もっと積極的に、私や周囲から聞くと言い」
『うん。分かった。じゃあ……』
「私に質問をしたいのだろう? というより、さっきしたな。ならば答えようじゃあないか」
そこまで言ってから、ディンスレイはスーサから視線を外し、もう一度ブラックテイルⅡの進行方向を見た。
どこまでも続く無限の空。今、そこへ向かおう。
「これよりブラックテイルⅡ……発進だ!」
艦長であるディンスレイの号令と共に、ブラックテイルⅡが離陸していく。
視界はどんどん高度を上げ、メインブリッジから見える景色は、その多くが空へと成っていく。
そうして、一定の高度に達した時点でディンスレイが命じずとも方向を転換する。
行くべき場所は決まっているからだ。
その場所へと向いた瞬間、景色は空では無く、壁が埋め尽くす。
山脈壁。まさにこの無限の大地における壁。これまでそれは越える事も出来ぬ世界の果てであった。
だが、今、ディンスレイ達の目にはそれが映る。
ある程度離れた場所からは、その壁が一直線に割れている様に見えるが、接近すればその割れ目は、ブラックテイルⅡが通るのに十分な幅がある、長大な破壊跡とすら言える事だろう。
「あの光景を作り出せる、成せてしまえる何者かが向こうにいる。その何者かが君を送り込んできた。そうして今、その何者かに我々は挑む。今からだ。ブラックテイルⅡが発進するというのは、そういう意味だ」
ブラックテイルⅡは加速していく。目指すは世界を分ける大いなる壁の、そのさらに向こう側だ。




